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22 αのプライド1

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「おいおい、露骨にそんな嫌そうな顔をしなくてもいいだろう?」

 前方から歩いて来るヴィオレッティ殿下の姿に気づいた僕は、思わず眉を寄せてしまっていたらしい。内心では「自分の行動を顧みてから言え」と思っていたが、面と向かってそんなことを言うわけにもいかない。
 僕は曖昧な微笑みを浮かべながらスケッチブックと木炭箱をしっかり握りしめた。それから頭を下げ、さっさと通り過ぎようと足を踏み出す。

「ちょっと待て」
「……なんでしょうか」

 呼び止められては通り過ぎるわけにもいかない。渋々といった態度……はさすがに失礼だろうから、きちんと正面を向いて背筋を伸ばした。

「まったく、男のΩは本当におもしろいな……。っと、違う違う、そういうことを言いたくて呼び止めたわけじゃない」

 おどけたような表情を浮かべていたヴィオレッティ殿下は、ほんの少し僕に近づいてから「やっぱりな」と口にした。

「なんでしょうか」
「だから、そう睨むな。ただの親切心で呼び止めたんだ」
「……親切心、ですか」

 これまでの行動を思い返すと信じることは難しい。だが、前回のようによからぬことをしようとしているふうには見えない。それにここは廊下だから何かすれば誰かに見咎められるだろうし、さすがにそんな危険は冒さないだろう。
 それでも念のためと少し距離を取りながら、しっかりとヴィオレッティ殿下の顔を見た。

「画材を持っているということは、これからノアールの執務室に行くんだろう?」
「そうですけど」
「……俺が言うよりも、ノアールにしっかり教えてもらったほうがいいか」
「何をです?」

 僕の言葉に、殿下が思い切り呆れたような表情を浮かべた。

「おいおい、本当に何もわかっていないんだな。たしかに男のΩは珍しいが、それにしてもあまりに知識がなさすぎじゃないか? それとも男だから気にしていないってことか? それじゃあこの先大変なことになるぞ?」
「……だから、何がですか」

 なぜか大きなため息をついたヴィオレッティ殿下が、「ノアールは一体どうしたいんだ」と言いながら改めて僕を見下ろした。

「きみからはαの匂いがする。あぁ、言っておくが俺の匂いじゃないからな? それに、その匂い方はマーキングに近い。つまり意図的に匂いを付けられているということだ」
「マーキング……?」

 それは動物が行う行動の一種だったはず。いや、珍獣のようなαとΩなら、そういう行動があってもおかしくはないか。

「そんな匂いをつけたままノアールに会うなんて、きみは怖いもの知らずだな」
「……意味がよくわかりません」
「だろうな。でなければ、そのままで会おうなんて思うはずがない。ま、ノアールにしっかり教えてもらえばいいさ」

 ニヤリと笑った殿下は「この際だ、手取り足取り教えてもらえ」と言って背中を向けた。派手な紫色のリボンを揺らしながら去って行く後ろ姿を見つつ、言われたことを頭の中で反芻する。しかし、匂い云々に心当たりはまったくなかった。

「……そういえば、αとΩは互いの香りで相性がわかるんだったか」

 ようやく発情した僕だったが、いまだにαの香りというものはわからないままだ。ヴィオレッティ殿下と話をしたいまも、それらしい香りには気づかなかった。

「というか、マーキングとは何のことだ……?」

 さっぱりわからない。僕は頭をひねりながらも、スケッチをするためにノアール殿下の執務室へと向かうことにした。

 執務室に到着すると、室内を整えていた侍従が扉を開けてくれた。どうやらノアール殿下はまだ来ていないらしい。

「そうだ、スケッチの前に首飾りのデザインを確認しておくか」

 スケッチブックと一緒に持ってきたデザイン画をテーブルに広げる。首飾りの布地が真紅や紺碧、深緑といった色に染められることがわかり、デザインの幅が大きく広がってきた。装飾も二、三個なら付けられそうだと聞き、どういったものが適当か職人に当たってもらっている。
 問題はやはり留め具だったが、こちらも試作品が一つ上がってきた。そのままというわけにはいかないだろうが、試作品のような形なら小さなビジューを付けることもできそうだ。カラーストーンなら加工もそう難しくないし大きさの調整もできるから、その辺りを付けられないか相談しようと思っている。

「早かったな」
「おはようございます、殿下」

 デザイン画を見ながらあれこれ考えていたら、扉が開いて殿下が現れた。席を立ち、右手を胸に当てて腰を折りながら朝の挨拶をする。そうして頭を上げてから、まずは首飾りのデザインの話をしようと口を開きかけたところで動きを止めてしまった。

「殿下?」

 なぜか殿下の表情が険しくなっている。まだ挨拶しかしていない状態で殿下を不快にさせることをしたとは思えない。どういうことだろうかと首を傾げていると、「その香りは……」という声が聞こえてきた。

(香り……もしかして、ヴィオレッティ殿下が言っていたことか?)

 ということは、僕から何かしらの香りがしているという話は本当だったのか。僕は香水を一切使わないからその手の香りでないことはわかっている。ということは……。

(αの……マーキングだったか)

 本当にそんな香りがしているのかどうか、残念ながら僕にはわからないし香りを消す方法もわからない。どう答えればいいのかわからず、ただじっと殿下を見ることしかできなかった。

「最近、ルジャンに会ったか?」
「ルジャン殿下……ですか?」

 問われて、これまで三度遭遇し、三度とも銀製品をもらったことを思い出した。

「はい。最後にお目にかかったのは二日前ですが、そのときお好きだという銀製品を頂戴しました」
「銀製品……なるほど、それでか」
「殿下……?」

 やはりαに何か頂戴するのはよくなかったのだろうか。別に強引に手渡されたわけではないが、ルジャン殿下にニコッと微笑まれるとどうにも断りづらくて三度とも受け取ってしまった。
 一つは例の筆で、その四日後に会ったときには銀で花を編んだような耳飾りを、二日前には銀の編み模様に複数の宝石があしらわれた首飾りを頂戴した。
 いずれも目を引く繊細な作りのものばかりで、しばらく眺めたり触ったりはしたものの身につけて過ごしたことは一度もない。ノアール殿下の妃候補として、ほかのαにもらった装飾品をつけるのはさすがに憚られたからだ。
 しかし、いまの「なるほど、それでか」という言葉から、銀製品を頂戴したことと香りが関係しているように聞こえた。

(……あ)

 そうだ。銀の首飾りは、今朝一度身につけている。というのも、Ω用の首飾りに付けるカラーストーンについて、大きさや色合いなどを確かめるために身につけて鏡で確認したのだ。
 首飾りを持っていなかった僕は、ルジャン殿下に頂戴した首飾りしか装飾の見本がなかった。それで身につけたのだが、どうやらそれがまずかったらしい。しかし、まさかほんのわずか身につけただけで香りが移るほどとは思ってもみなかった。

「あの……香りというのは、もしやマーキングと呼ばれるものでしょうか?」
「マーキングを知っているのか?」
「いえ、僕にはわかりませんが、そんなことを言われたので……」

 誰に、とは言えなかった。まさかヴィオレッティ殿下とも接触したなんてことが知られれば、ノアール殿下の機嫌がさらに悪くなると思ったからだ。

「……ヴィオレッティか」

(言わなくてもすぐにわかるのか)

 さすが優秀な殿下だ。……いや、僕が知っている王族αはヴィオレッティ殿下とルジャン殿下しかいないから当然か。これは下手に隠さないほうがよさそうだ。

「はい。ここに来る前に、偶然すれ違いまして……申し訳ありません」
「いや、貴殿のせいではない。それに、ヴィオならもう余計なことはしないだろうから……。いや、ヴィオが言うとおりこのままではよくないこともわかっている」
「殿下?」

 何か考えているような様子の殿下を見ていたら、急に黒目がこちらを見てドキッとした。

「マーキングのことは……やはり知らないか」
「はい……申し訳ありません」
「いや、これも先に教えておかなかったわたしの落ち度だ」

 ため息をついた殿下に椅子に座るように促された。殿下も向かい側に座ったところで、侍従が素早く紅茶を用意してから部屋を出て行った。二人きりになった執務室は少し空気が重く、紅茶のよい香りを嗅ぎながらじっと殿下の言葉を待つ。

「以前、貴殿の香りが弱いと話したが、わたしの香りはわかるか?」
「殿下の香り、ですか?」

 一瞬、なんと答えるべきか迷った。「αの香りがわからない」と答えたら、出来損ないのΩとして妃候補から外されるのではと脳裏をよぎる。そうなると、今度こそ本当に新しい嫁ぎ先を探さなくてはいけなくなる。

(それは……やっぱり、少し嫌かな)

 そんなことを思った自分に驚いた。国のために大国の王族か大金持ちの富豪に嫁がなくてはいけないのに、何を考えているんだと叱咤したくなる。それに、このまま子ができなければどのみち殿下の後宮からは出ることになるのだ。

(そうだ、このままじゃあ妃にはなれないんだ)

 そう思うと、なぜか胸がちくちくと痛んだ。以前感じていた痛みより少し強くなっているような気がして、そう思った自分にうろたえた。
 そのせいで、思わず正直に「自分の香りもαの香りもわかりません」と答えてしまっていた。
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