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10 初めての決意
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下男として働くようになってひと月が経った。
主な仕事は料理夫や庭師の手伝いで、それ以外では本の整理や調度品の片付けなどをしている。下男なら力仕事をすべきなのだろうが、わたしの体格が頼りないため腕力を必要としない仕事ばかりを担うことになってしまった。
「わたしは役立たずだな」
盛りの過ぎた秋薔薇についた毛虫を一匹ずつ取りながら、ついそんな言葉を漏らしてしまった。
「役立たずなんてことはないでしょう。こうして毛虫を取ることだって立派な仕事ですよ」
初老にさしかかった庭師の言葉に、小さな箱の中で蠢く毛虫たちに視線を落とす。その姿は、まるで神の腕の中から逃れようとする自分のように見えた。
「それに、毛虫に眉をひそめないのは立派でいらっしゃる」
「毛虫には慣れて……いえ、何でもありません。それよりわたしはもはやただの下男なのですから、丁寧な言葉遣いはやめてください」
そう告げると、庭師はいつものように困った顔をした。
使用人の多くは、いまだにわたしが下男になったことに馴染めないらしい。つい主人に対するような言葉遣いが出てしまい、それがますます奥様の機嫌を損ねる原因になっていた。
「モルサーラ様、……あ、」
わたしを呼びに来た侍女までもが様付けで呼んでいる。慌てて「モルサーラ」と呼び直した侍女から奥様が呼んでいると聞かされ、汚れたエプロンを外して手を拭い急いで部屋へと向かった。
「呼ばれたらすぐに来なさいと、何度言えばわかるのですか」
部屋に入るとすぐに叱責されてしまった。
「申しわけございません」
静かに頭を下げたが、それも気に触ったらしく甲高い声が続く。
「汚れた床をさっさと掃除なさい」
見れば、庭に突き出た部分の床が濡れていた。ほかにも食べ物の屑らしきものや手拭き、小さなスプーンなども散らばっている。
(今日も元気いっぱいだな)
ふくふくとした小さな主人の様子を思い浮かべ、このまま健やかに育ってほしいと願った。それくらいしか、わたしの代わりを務めなくてはいけなくなった幼子にできることはない。
幼子の行く末を祈りながら、静かに床に這いつくばり掃除を始める。下男になっても表情一つ変えることがないわたしの様子は奥様の気に障るらしく、結局掃除をしながらも延々と甲高い声を聞くことになった。
「きゃっきゃっ! きゃあ!」
遠くから賑やかな笑い声が聞こえてきた。どうやらいまは庭で遊んでいるらしい。
わたしが下男になった翌日にやって来た後継ぎは、まだ二歳の幼い子どもだった。一度だけ庭先で姿を見かけたが、よく泣きよく笑う子のようで微笑ましかった。
あの日から屋敷の中は幼子を中心に動いている。幼子のいる家では普通であろうその光景は、わたしが幼いときには見られなかったものだ。
(あの子を見る限り、やはりわたしは不気味にしか見えなかったのだろうな)
ほとんど泣くことのない幼子は、母上から見れば化け物じみていたに違いない。しかもこの国では決して生まれることのない、忌み嫌われるだけの金髪金眼まで持っていたのだ。
せめて金色でなければ、母上との関係も違ったものになっていたかもしれない。ただでさえ夫を亡くしたばかりで、相談できる相手も愚痴をこぼせる相手もいなかったのだ。そんな状況では、不幸を形にしたようなわたしを嫌うようになったとしても仕方がないだろう。
(わたしにとっては二十年にも満たない人生だ。それくらい何ということもない)
くり返す命に諦めしかなかったわたしは、そうした今生をただ静かに受け入れた。
床の掃除が終わり薔薇園に戻ると、庭師から今日の仕事は終わりだと告げられた。料理夫からは夕方まで仕事はないと言われ、それならと自分の部屋だった書庫に行き本の整理をすることにした。
「ここが一番落ち着くな」
古い本の匂いにホッとする。前の命のときの記憶のせいかもしれないが、一人きりになれるこの空間がわたしは好きだった。
(それにしても、この世界にもまだ古代の言葉が残っていたとは……)
目の前には、忘れることなど決してない古代の文字で書かれた本が並んでいた。どうやら今生の世界でも古代語は人を惹きつけてやまないらしい。顔も知らない父上は、国内外から熱心に古代語の書物を集めていたそうだ。
(そうして付けられたのが、今生の名前か)
モルサーラは、古代の言葉で“死の翼”を意味する。たしかに神に与えられし名に連なってはいるものの、もはや貴さなど一切含まれていなかった。すべてを奪い去る“死”に満ちた名は不吉なものでしかない。
(名付けてくれた父上が言葉の意味を知らなかったとは言え、たまたまということではないだろう)
何度命をくり返そうとも神に与えられし名からは逃れられない。そしていよいよ呪われし不吉な名を付けられた。神からは決して逃れられないのだと、常に見ているのだと言われているような気がして心が沈む。
(あの男には何という名が付いているのだろうな)
ふと、十年先に生まれているはずの男のことを思った。十八年生きているが、今生ではまだあの男に出会っていない。あちらも神に与えられし名を持っているはずだが、それらしい名を聞いたこともなかった。このまま出会わずに済むことを願っているが、神罰である限りそれは叶わないだろう。
(いつ出会うのか、最近はそればかり考えてしまう)
茶色の髪を見るだけでハッとした。背が高くたくましい体つきの男を見るだけでドキッとし、あの男に似た姿を見るだけでわけもなく胸が締めつけられた。
会いたいような会いたくないような、どうにもならない感情がわき上がる。思い出せば触れたいと思い、それなのに触れてほしいと矛盾したことを思ってしまう。それでも一番に思うのは「思い出したくない」ということだった。
(思い出したくない。思い出せば苦しいだけだ。そう、苦しいだけだというのに……)
痛む胸をギュッと押さえる。強烈な感情がグルグルと体を巡り、叫びたくなる衝動に奥歯をグッと噛み締めた。物心ついたときから感情を抑え込んできたはずなのに、あの男のことを思い出すだけでこの有り様だと自嘲が漏れる。
(どんなに感情を押し殺そうとしても駄目ということか)
ルプサーラのときに気づいた想いを消し去ることはできないということだ。何度打ち消そうとしても、海に身を投じる前に気づいた想いが消えることはない。友愛や親愛、それとは違う感情が体中を駆け巡り息が詰まるほど苦しくなる。
こんな感情を抱えたまま命をくり返さなければいけないとは、なんと滑稽で残酷な話だろうか。
(これもすべては神罰が下ったため。その神罰を受け続けると決めた自分のせいだ)
次の命ではひどいことになるだろうと予想していたが、これほどまでとは思わなかった。今生でこの状態なら次の命ではさらにひどいことになるだろう。
(わたしはこれをまたくり返すことができるだろうか)
ぶるりと体が震えた。次の命では何をやっても耐えられそうにない。そう思ってしまうことに絶望した。甘んじて神罰を受けていこうと思っていた過去の自分を嘲りたくなる。
本の表紙を指でなぞりながら「こんな神の言葉なんて」と言葉が漏れ出た。表紙に金色の文字で書かれているのは“神の言葉について”という古代語だ。掠れた文字をなぞる指先に、ぽたりと雫が落ちる。
「……はは、小さいときから泣くことなんてなかったのにな」
ここが限界、ということだろう。ただの人でしかない身で何度も命をくり返すことなど最初から無理だったのだ。
(だからこその“神罰”か)
この神罰から抜け出すためには、あの男の命を奪うしかない。
「そう、奪うしかないんだ」
四度目の命にして、わたしは初めて男の命を奪うということを考えた。
主な仕事は料理夫や庭師の手伝いで、それ以外では本の整理や調度品の片付けなどをしている。下男なら力仕事をすべきなのだろうが、わたしの体格が頼りないため腕力を必要としない仕事ばかりを担うことになってしまった。
「わたしは役立たずだな」
盛りの過ぎた秋薔薇についた毛虫を一匹ずつ取りながら、ついそんな言葉を漏らしてしまった。
「役立たずなんてことはないでしょう。こうして毛虫を取ることだって立派な仕事ですよ」
初老にさしかかった庭師の言葉に、小さな箱の中で蠢く毛虫たちに視線を落とす。その姿は、まるで神の腕の中から逃れようとする自分のように見えた。
「それに、毛虫に眉をひそめないのは立派でいらっしゃる」
「毛虫には慣れて……いえ、何でもありません。それよりわたしはもはやただの下男なのですから、丁寧な言葉遣いはやめてください」
そう告げると、庭師はいつものように困った顔をした。
使用人の多くは、いまだにわたしが下男になったことに馴染めないらしい。つい主人に対するような言葉遣いが出てしまい、それがますます奥様の機嫌を損ねる原因になっていた。
「モルサーラ様、……あ、」
わたしを呼びに来た侍女までもが様付けで呼んでいる。慌てて「モルサーラ」と呼び直した侍女から奥様が呼んでいると聞かされ、汚れたエプロンを外して手を拭い急いで部屋へと向かった。
「呼ばれたらすぐに来なさいと、何度言えばわかるのですか」
部屋に入るとすぐに叱責されてしまった。
「申しわけございません」
静かに頭を下げたが、それも気に触ったらしく甲高い声が続く。
「汚れた床をさっさと掃除なさい」
見れば、庭に突き出た部分の床が濡れていた。ほかにも食べ物の屑らしきものや手拭き、小さなスプーンなども散らばっている。
(今日も元気いっぱいだな)
ふくふくとした小さな主人の様子を思い浮かべ、このまま健やかに育ってほしいと願った。それくらいしか、わたしの代わりを務めなくてはいけなくなった幼子にできることはない。
幼子の行く末を祈りながら、静かに床に這いつくばり掃除を始める。下男になっても表情一つ変えることがないわたしの様子は奥様の気に障るらしく、結局掃除をしながらも延々と甲高い声を聞くことになった。
「きゃっきゃっ! きゃあ!」
遠くから賑やかな笑い声が聞こえてきた。どうやらいまは庭で遊んでいるらしい。
わたしが下男になった翌日にやって来た後継ぎは、まだ二歳の幼い子どもだった。一度だけ庭先で姿を見かけたが、よく泣きよく笑う子のようで微笑ましかった。
あの日から屋敷の中は幼子を中心に動いている。幼子のいる家では普通であろうその光景は、わたしが幼いときには見られなかったものだ。
(あの子を見る限り、やはりわたしは不気味にしか見えなかったのだろうな)
ほとんど泣くことのない幼子は、母上から見れば化け物じみていたに違いない。しかもこの国では決して生まれることのない、忌み嫌われるだけの金髪金眼まで持っていたのだ。
せめて金色でなければ、母上との関係も違ったものになっていたかもしれない。ただでさえ夫を亡くしたばかりで、相談できる相手も愚痴をこぼせる相手もいなかったのだ。そんな状況では、不幸を形にしたようなわたしを嫌うようになったとしても仕方がないだろう。
(わたしにとっては二十年にも満たない人生だ。それくらい何ということもない)
くり返す命に諦めしかなかったわたしは、そうした今生をただ静かに受け入れた。
床の掃除が終わり薔薇園に戻ると、庭師から今日の仕事は終わりだと告げられた。料理夫からは夕方まで仕事はないと言われ、それならと自分の部屋だった書庫に行き本の整理をすることにした。
「ここが一番落ち着くな」
古い本の匂いにホッとする。前の命のときの記憶のせいかもしれないが、一人きりになれるこの空間がわたしは好きだった。
(それにしても、この世界にもまだ古代の言葉が残っていたとは……)
目の前には、忘れることなど決してない古代の文字で書かれた本が並んでいた。どうやら今生の世界でも古代語は人を惹きつけてやまないらしい。顔も知らない父上は、国内外から熱心に古代語の書物を集めていたそうだ。
(そうして付けられたのが、今生の名前か)
モルサーラは、古代の言葉で“死の翼”を意味する。たしかに神に与えられし名に連なってはいるものの、もはや貴さなど一切含まれていなかった。すべてを奪い去る“死”に満ちた名は不吉なものでしかない。
(名付けてくれた父上が言葉の意味を知らなかったとは言え、たまたまということではないだろう)
何度命をくり返そうとも神に与えられし名からは逃れられない。そしていよいよ呪われし不吉な名を付けられた。神からは決して逃れられないのだと、常に見ているのだと言われているような気がして心が沈む。
(あの男には何という名が付いているのだろうな)
ふと、十年先に生まれているはずの男のことを思った。十八年生きているが、今生ではまだあの男に出会っていない。あちらも神に与えられし名を持っているはずだが、それらしい名を聞いたこともなかった。このまま出会わずに済むことを願っているが、神罰である限りそれは叶わないだろう。
(いつ出会うのか、最近はそればかり考えてしまう)
茶色の髪を見るだけでハッとした。背が高くたくましい体つきの男を見るだけでドキッとし、あの男に似た姿を見るだけでわけもなく胸が締めつけられた。
会いたいような会いたくないような、どうにもならない感情がわき上がる。思い出せば触れたいと思い、それなのに触れてほしいと矛盾したことを思ってしまう。それでも一番に思うのは「思い出したくない」ということだった。
(思い出したくない。思い出せば苦しいだけだ。そう、苦しいだけだというのに……)
痛む胸をギュッと押さえる。強烈な感情がグルグルと体を巡り、叫びたくなる衝動に奥歯をグッと噛み締めた。物心ついたときから感情を抑え込んできたはずなのに、あの男のことを思い出すだけでこの有り様だと自嘲が漏れる。
(どんなに感情を押し殺そうとしても駄目ということか)
ルプサーラのときに気づいた想いを消し去ることはできないということだ。何度打ち消そうとしても、海に身を投じる前に気づいた想いが消えることはない。友愛や親愛、それとは違う感情が体中を駆け巡り息が詰まるほど苦しくなる。
こんな感情を抱えたまま命をくり返さなければいけないとは、なんと滑稽で残酷な話だろうか。
(これもすべては神罰が下ったため。その神罰を受け続けると決めた自分のせいだ)
次の命ではひどいことになるだろうと予想していたが、これほどまでとは思わなかった。今生でこの状態なら次の命ではさらにひどいことになるだろう。
(わたしはこれをまたくり返すことができるだろうか)
ぶるりと体が震えた。次の命では何をやっても耐えられそうにない。そう思ってしまうことに絶望した。甘んじて神罰を受けていこうと思っていた過去の自分を嘲りたくなる。
本の表紙を指でなぞりながら「こんな神の言葉なんて」と言葉が漏れ出た。表紙に金色の文字で書かれているのは“神の言葉について”という古代語だ。掠れた文字をなぞる指先に、ぽたりと雫が落ちる。
「……はは、小さいときから泣くことなんてなかったのにな」
ここが限界、ということだろう。ただの人でしかない身で何度も命をくり返すことなど最初から無理だったのだ。
(だからこその“神罰”か)
この神罰から抜け出すためには、あの男の命を奪うしかない。
「そう、奪うしかないんだ」
四度目の命にして、わたしは初めて男の命を奪うということを考えた。
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