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二章 鬼の王に会いて

其の拾伍

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 六条殿の屋敷に通い始めて十四日目になった。
 長く通い続けているからか姫君にもすっかり懐かれ、気がつけば「カラギ兄様」と呼ばれるようになっていた。俺のほうも本当の妹ができたような気持ちになり、姫君に喜んでもらえるならと西へ向かったときの話をしたりもした。

敦皇あつおう様の気持ちがわかる気がする)

 弟たちに何もしれやれなかったという敦皇あつおう様の言葉を思い出した。敦皇あつおう様と兄弟たちの仲が本当はどうであったかわからないが、兄弟であれば何かしてやりたいと思うものなのかもしれない。

(兄上たちは違うようだがな)

 少なくとも俺は、兄上たちにかわいがられていると感じたことは一度もなかった。俺も兄上たちの役に立ちたいと思ったことがないので、お互い様といえばそれまでなのだが。

「そうだ! カラギ兄様に聞いてほしいことがあったの!」

 御簾の向こうでぱちんと勢いよく手が鳴る。

「二条の崇明たかあきら様が、今度、舞を見せてくださることになったのよ」
「それはよかったですね」
「えぇ、本当によかった」

 うれしそうな姫君の声に、俺の顔まで緩んだ。

 俺と崇明たかあきら殿は従兄弟同士ということもあり、小さい頃に何度か遊んだことがあった。といっても六条殿から二条殿の話を聞いたあと、古株の女房たちに話を聞いてから、ようやく思い出したことだ。
 俺は小さい頃からやんちゃで、年の離れた兄上たちはもちろんのこと、親族の子どもたちともあまり馴染むことができなかった。俺は気にしていなかったようだが、これでよいものかと悩んだ母上は、父上に頼んでおとなしい子どもだった崇明たかあきら殿を屋敷に呼ぶことがあったらしい。きっと俺の手本になる子が側にいればと考えたのだろう。
 一緒に庭で遊んだこともあったそうだが、正直俺はほとんど覚えていなかった。ただ、庭で書物を読んでいる崇明たかあきら殿の姿は思い出すことができた。その書物が何だったのかは覚えていないが、庭に来てまで書物を読むなんておかしな奴だと思ったことは覚えている。

 あの頃から崇明たかあきら殿は物静かで懐の深い人物だったのだろう。
 何せ俺が側で大声を上げても池の魚を掴み上げても、ただ微笑むだけで慌てることなど一切なかったのだ。そういう気質だから、姫君ともうまくいっていたに違いない。
 あれこれと手はずを整えるときに何度か崇明たかあきら殿に会う機会もあったが、大人になっても変わらず物静かで思慮深いことはすぐにわかった。
 そういう人物なら、たとえ公卿になったとしても兄上たちとぶつかることはないだろう。何かあったとしても、俺よりよほどうまく立ち回れるに違いない。
 二条殿がもう少しうまく立ち回れる方だったならよかったのだろうが、崇明たかあきら殿に比べると気が短いようで、そういうこともあって別邸に追いやられてしまった。二条殿はその性格から疎まれがちのようだが、崇明たかあきら殿は帝の覚えもよいと聞くし、きっと朝廷でもうまくやっていける。

(それに、崇明たかあきら殿も姫君のことは忘れられないようだしな)

 はっきりとは言わなかったが、あの顔は姫君を好いていると言っているようなものだ。
 それならば、やはり好いている者同士で結婚するほうがいいに決まっている。姫君もはしゃいでいるのを隠そうとする素振りもないし、これで二人が元の形に収まってくれれば俺としても喜ばしい限りだ。

「よかったですね。それじゃあ俺が通うのも、そろそろ終わりにしましょうか」
「あら、残念」
「姫?」

 心底残念そうな声に首を傾げた。崇明たかあきら殿とのことが丸く収まるのは姫君も願っていたことのはずだからだ。

「だってカラギ兄様のお話はとてもおもしろいんだもの。きっと崇明たかあきら様も喜ぶと思うの」
「ははは、そう言ってもらえるのはうれしいですが、俺が通い続けては関白の思う壺ですよ」
「そうだった! あぁ、残念。でも、崇明たかあきら様とのことが正式に決まったら、また屋敷にいらしてね?」

 その頃にはおそらく都にいないだろう。そう思った俺ははっきりと返事をすることを避け、曖昧に笑うだけにとどめた。
 帰り際、六条殿からも礼を言われた。そもそもは家同士のことに巻き込まれただけのことで、姫君や崇明たかあきら殿が引き離される理由はない。だからこそ、原因となった俺がいろいろやることは当然だと思っている。

「これで兄上も諦めてくれるでしょう」
「関白様から話を聞かされたときはどうなることかと心配したが、いまでは姫の相手があなたでよかったと思っています。いや、すべては三の姫宮様のおかげか」
「母上には何も話していませんよ。それに母上が口を挟んでは、帝もお困りになるでしょうから」
「であれば、内大臣様のお力かな」

 それには答えず、通うのは今日が最後だと告げて屋敷を後にした。





 帰りの牛車の中では、いつも以上に金花は無言だった。あまりにも美しい顔は無言になると空恐ろしく見えるのだなぁと、少しぼんやりした頭で金花の横顔を見る。
 屋敷に着くと内大臣から文が届いていると女房に言われ、こっそり部屋まで持ってきてもらった。文のことを母上に知られていないか念のため確認したが、万事抜かりなくという返事に胸を撫で下ろす。

「なぜ母上様に知られたくないのですか?」

 六条殿の屋敷へ向かう前から無言だった金花が、ようやく口をきいてくれた。しかし問われた内容に、ぐぅと口を結ぶ。

「知られたくないのであれば、無理には訊きません」
「いや、そうではないんだ!」

 いつになくぶっきらぼうな声に、慌てて金花を座らせた。

「無理に話さなくても構いませんよ」
「だから違うというのだ。おまえに隠し事など、するわけがない」
「気を遣っていただかなくても結構です」

 ぷぃと横を向いた横顔は拗ねているようにも見える。そこでようやく「あぁそうか、機嫌が悪いのではなく拗ねていたのだ」とわかった。

「その前に話しておくことがある。六条殿の屋敷へ通うのは、今日で終わりだ」

 俺の言葉に少しだけ美しい顔がこちらを向いた。

「……終わったのですか?」
「終わった。俺は六条殿のところに婿入りはしなくて済む。しばらくは兄上がうるさいかもしれないが、これ以上無理は通せないと諦めてくれるだろう」
「兄上様は、そう簡単に諦める方とは思えませんが」
「だろうなぁ。だから、さっさと都を出ることにする。また婿入りの話など進めたら今度こそ二度と都には戻らないと言えば、さすがに諦めるだろうしな」
「それで諦めると思いますか?」
「さぁて、兄上はどうだかわからないが、少なくとも母上が兄上を押し留めてくれるだろう」
「……母上様には、時折り顔を見せなければいけませんね」

 都を出るということは、俺が鬼になっていくということでもある。鬼になれば、俺はもう二度と都に戻ることはないだろう。
 それでも母上のことを思い、俺の気持ちを汲み、金花は「顔を見せなければ」と言ったに違いない。

「まぁ本来はそうなるんだろうが、今回ばかりはどうだろうな」
「どういうことですか?」

 ようやくこちらに向き直った金花に、もう少し側に寄るようにと腕を引く。

「カラギ?」
「人に聞かれるのはまずいからな」

 ひそひそと話す俺に不思議そうにしながらも、そぅと白い頬を近づけてきた。

「実はな、俺が生まれたときからまことしやかに囁かれていた噂話があるんだ」
「噂話?」
「あぁ。とんでもない内容だと思うし、俺も子どもの頃に聞いただけで本当だと思ったことは一度もないんだがな」

 昔から貴族というものは余計なことをする人が多いようで、何もわからない年端のいかぬ子どもの俺に、親切にも余計なことを囁く者がいたのだ。
 すっかり忘れていたのだが、崇明たかあきら殿と過ごした子ども時代のことを必死に思い出そうとしていたら、するするとそんな余計な記憶まで蘇ってしまった。まぁ、そのおかげで内大臣に接触し、文を送り合うまでに至ったのだから、結果的にはよかったのかもしれない。
 そんなことを思いながら、形のよい金花の耳に少しだけ口を寄せる。

「三の姫宮様には好いた方がいて、中納言に降嫁したあともその方と親しくしていた、そんな噂話があったんだ」
「三の姫宮様というのは、母上様の名では……」

 金花の言葉に小さく頷く。

「噂の相手は少将だったが、俺が生まれた頃に中将となってからは出世することが叶わなくなった。逆に三の姫宮様の夫である中納言はひとっ飛びに右大臣に大出世し、その後も左大臣、太政大臣、ついには関白にまで登り詰めた。たしかに由緒正しい北家の流れではあるが、あまりにも出世が早いから当時はいろいろ言われたらしい。そうだな、たとえば三の姫宮様が何かしらの代償として、帝に夫の出世を願ったのではないのか、とかな」
「それは……」
「そんな大出世をした関白が身罷みまかると、噂話の相手だった中将は内大臣になり、まもなく太政大臣になるのではと言われている」

 それが何を意味するのか俺は知らないし、知りたいとも思わない。だが、噂話にほんの少しでも真実が混じっているのなら、内大臣は俺の話に耳を傾けてくれるかもしれないと考えた。
 そうして文を送り、返事がきたところで六条殿や崇明たかあきら殿のことを相談し、協力を仰いだ。内大臣が朝廷内で反関白寄りだということがわかったから、というのも協力を仰いだ理由の一つではある。
 先ほど女房から受け取った文には、六条殿の姫君と崇明たかあきら殿の婚姻は間違いなく叶うだろうと書かれていたから、たとえ兄上でももう横槍は入れられないだろう。

「今回、俺は内大臣と何度も文を交わし直接屋敷にも出向いた。そのことは、いずれ朝廷や貴族たちの間で噂になるだろう。昔の噂話を知っている人たちは、それこそおもしろおかしく話すだろうな」
「カラギ、それは……」
「母上には申し訳ないが、これで親離れ子離れできる。寂しくはあるが、鬼になれば遅かれ早かれ会えなくなるのだ、仕方あるまい」

 俺の言葉に金花の眉尻が下がった。まったく、鬼だというのに俺のことになると人のような表情をする。

「俺の婿入りの話はなくなったし、かわいい六条殿の姫君も幸せになれるんだ、いいこと尽くめだろう?」
「……無理をしたのではないですか?」
「まぁ、少しだけな。こういうことを兄上たちは息をするようにしているのかと思うと、俺には向いていないということがよくわかった。やっぱり太刀を振るっているほうが性に合う」

 笑いながら、もうこの話は終わりだと体を離す。すると今度は金花が俺の袖を握り、ぐぃと引いてきた。

「あなたが大変な思いをしていたことは、よくわかりました。六条殿のことも、元はと言えばわたしを思ってくれてのこと。だから最後まで我慢しようと思っていたのです」
「金花……?」

 すぐ側にある美しい顔は俯いてしまって、どんな表情なのか見えない。声ははっきりしているし、怒っているわけではないのだろうが、それにしてはいつもと様子が違っている。

(……そうだ、このところずっと違和感があった)

 六条殿の屋敷へ向かう直前に顔を会わせた部屋で、帰りの牛車の中で、夕餉を食べたあとの何気ない会話の中で何かが違うと思っていた。御帳に入ったあとも、金花の笑みにずっと違和感を感じていた。

「それも今日までとわかり安堵しました。もう終わったのだとわかっている。……けれど、やっぱり許せない」
「金花、どうしたというのだ」
「あなたはいま、あの姫君のことをかわいいと言った。聞き耳を立ててはいけないと思いつつも、どうしても気になって聞いた様子でも、とても仲が良いように聞こえた。それにあの屋敷の女房たちは、あなたのことを素敵な殿方だと噂していた」
「は……? 女房たちが? いや、それよりも聞き耳というのは、」

 ぐぃと襟元を引っ張られ、最後まで言うことはできなかった。

「わたしは、あなたが姫君に取られてしまうのではないかと、本当に心配したのです。いいえ、姫君だけではない。女房たちや、それに近ごろはあちこちの姫君があなたの噂をしているのも聞こえているのです」

 鼻先がぶつかるほど間近で俺を睨む金花の黒目に、ハッとした。
 真っ黒な目がわずかに揺れている。涙のせいかと一瞬驚いたが、ゆらゆらと揺れる目の奥に小さな赤いものが見えた。ちらちらする赤いものはまるで炎のようにも見え、思わずじぃと見入ってしまう。

「人であるあなたは、きっと人のほうを向いてしまう。都には美しい姫君が大勢いるから、そのうち姫君のほうがよいのだと気づいてしまうかもしれない。そんなこと、わたしには耐えられない」
「何を馬鹿なことを! 俺が好いているのはおまえだけだ。おまえだからこそ、」
「えぇ、あなただからこそ、わたしは心の底から欲しいと思ったのです。悩みもしましたが、もう迷いません。あなたの気持ちが人に向かないよう、全力を持ってわたしだけのものにします」
「きん、」

 名前を呼ぶことはできなかった。ぶわりと広がった伽羅の香りに、体が痺れたように動かなくなってしまったのだ。
 口も動かず、すぐ目の前にいる金花の名を呼ぶことすらできない。帰りの牛車でも感じたぼんやりとした感覚がさらにひどくなり、これは疲れからきたものではなく金花の伽羅香のせいだったのだとようやくわかった。
 こんな状態になったのは久しぶりではないだろうか。初めて会った頃のように頭はぼんやりとし、どこか酒精に呑まれたようなふわふわとした感覚もある。動かなくなった体にはじわりと熱がともり、手足にはじぃんと鈍い痺れのようなものもあった。

「あなたは、わたしのもの。誰にも渡さないし、人になどもってのほか。絶対に、絶対に誰にも渡してなるものか」

 あぁ、これが本来の金花なのだろうかと、ぼんやりした頭で思った。
 いつもの笑みも穏やかな口調もなく、苛烈な声色に本来の姿を見たような気がした。額には赤い角が一本にょきりと現れ、紅い唇の端からは小さな牙が見えている。いつも以上に濡れて艶めく黒目は、奥深くに唇と同じくらい赤く燃える炎が揺らめいていた。


 俺の目の前には、壮絶なほど美しい姿をした鬼がいた。
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