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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは

其の拾漆

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「師匠!」

 聞こえてきた声は、俺に鴉丸からすまるの扱い方を教えてくれた師匠のものだった。

「おっ、まだ俺を師匠と呼んでくれるのか」
「師匠はいつまでも俺の師匠ですよ! いや、そんなことより、どうしてここに?」
「あぁ、ちょいとお偉いさん方に呼び戻されてな。それにしても都はやっぱり遠いなぁ。年寄りの足にはキツいったらありゃしねぇ」

 ハハハと笑う顔は、最後に会った十年ほど前とそう変わらないように見える。

「お偉いさんということは、朝廷から呼び出しが?」
「なにやら強い鬼が都で暴れてるんだって? せっかくあずまの地でのんびりしてたってのに、また鬼退治に参加しろとは因果なことだ」
「鬼退治……ということは、髭切も一緒に?」
「おうよ。ついでに八幡大菩薩様にご挨拶もしてきたぞ」

 ハハハと笑う師匠の姿に歓喜の震えが走った。
 これであの鬼にも一太刀浴びせられるかもしれない、いや退けられるかもしれないという希望が見える。


 初めて鴉丸からすまるを見た幼い日から、俺はずっとこの太刀を振るいたいと願っていた。しかし由緒正しい貴族の家に生まれた身では武士もののふのような武芸をやることは許されるはずもなく、二年ほどはただじっと鴉丸からすまるを見つめることしかできなかった。
 そんな俺に光明が差したのは、当時御所の警備をしていた師匠、源司維げんじつな殿との出会いだった。
 師匠は御所警備を担う蔵人所くろうどどころの中でも抜きん出た腕を持つ人物で、かつて大鬼の腕を斬り落とした嗣名つなという鬼の討伐隊隊長の血を引いている。鬼の腕を斬った太刀・髭切を操り、当時はあらゆる鬼を退治して回る都一の武士もののふだった。
 そんな師匠は退魔の太刀である鴉丸からすまるの担い手がいないことをずっと心配していた。それに俺の頑固なまでの願いもあり、武芸を教えてくれることになったのだ。

(あの頃は本当に死ぬかと思ったな……)

 師匠は子どもだった俺にも容赦なく、半人前のときから見るより慣れろと言って鬼退治の場へ引きずって行くような人だった。それで何度も怪我をし、あの頃の母上は毎日のように泣いていた記憶がある。
 しかしそのおかげで俺は早く一人前になることができ、晴れて鴉丸からすまるを正式に携えることが叶った。
 その後、師匠は御所警護の任を辞し、十年ほど前に都を離れ東国へと移り住んだ。そのとき髭切も持って行ったと聞いていたが、今回の鬼騒動で朝廷が貴重な退魔の刀を無駄にするわけにはいかないと、再び師匠に都へ戻るよう命じたのだろう。


「それにしても、おまえの奥方はえらく美しいな。いやぁ噂以上だ」

 師匠の言葉にハッと我に返った。金花を見れば、几帳の奥に隠れるでもなく御簾を下ろすでもなく、先ほどと変わらない様子で廊下に座り俺たちを見ている。

「金、……っ」

 咄嗟に名を呼ぼうとし、慌てて口をつぐんだ。
 師匠は長年鬼退治をしてきた武士もののふだ。どこかで金花の存在を耳にしているかもしれない。名を知っているとは思えないが、何をきっかけに金花が鬼だと知られるかわからないから、迂闊に名を口にするのは危ない。

「それに俺がいると言うのに姿を隠そうともしない。いやァ、さすが唐多千からたちの君の奥方だ、肝が据わっている」
「……師匠、それ以上我が妻を見ないでいただきたい」
「おっ、一丁前に嫉妬か? まぁ、俺のご先祖様には美しさで周囲を虜にした、かの光留君ひかるぎみがいるからなァ。俺もまだまだいい男だしなぁ? しかし安心しろ。奥方に惚れられても奪ったりはしねぇよ」

 ニヤリと笑った師匠は、年齢の割にはたしかに見目が整っている。だが、それと金花の姿を見られることとは関係ない。姿形や気配から、金花が鬼だとばれやしないか気が気でないのだ。

「師匠、久しぶりなのです、手合わせを願いたい」

 ニヤニヤしながら金花を見つめ続ける師匠の気を逸らすにはこれしかない。俺は鴉丸からすまるの切っ先を師匠に向け、あえて挑発するように口の端を上げた。

「もう昔のように、こてんぱんにされたりはしませんよ」
「ほう、言うようになったじゃねぇか」

 思ったとおり、師匠はそれまでとは違う笑みを浮かべて俺を見ている。
 ちらりと横目で見た金花は、変わらず廊下に座ったままだ。早く御簾を下ろせと念じながら、鴉丸からすまるを握る右手にぐっと力を込めた。



「随分とやられましたね」
「くそっ、あの人は昔からこうなんだ。たとえ時間潰しの手合わせであっても絶対に手を抜かない。おかげで俺はいつもボロボロだった」

 わずかな時間の手合わせだったが、見事に叩きのめされた。しかも俺が手にしていたのは鞘から抜いた鴉丸からすまる、師匠は鞘のままの髭切、なのにだ。「随分と腕を上げたなァ」と褒めてはくれたが、いつになれば師匠を超えられるのかと悔しくなる。

「ツゥ……ッ」
「……すみません」

 俺との手合わせに満足したらしい師匠は、「御所で会おう」と言って帰っていった。それを見届けてから、最後まで廊下に座ったままだった金花に二言三言注意をしたが、どこか上の空という顔をしていた。
 いまも俺の汗を拭ってくれてはいるが、手つきがいつもと少し違うように感じる。

「金花、どうし……ツッ」

 首から顎へと手拭いが触れたとき、ずきりとした痛みを口あたりに感じ、思わず声が詰まってしまった。指で口の端に触れるとびりりとした痛みが走り、指には乾きかけた血がついている。
 おそらく鞘で殴られかけたときに当たったのだろう。ギリギリで避けたと思っていたのだが甘かった。

「師匠はいつもやりすぎなんだ」

 はぁとため息をついたところで、金花がじっと俺を見ていることに気づいた。

「金花?」

 どうも様子がおかしい。小言を言ったときに反応がなかったことと言い、明らかにいつもと様子が違う。

「どうかしたのか?」
「…………血が、」
「あぁ、師匠はいつも容赦ないんだ。うまく避けられない俺も悪い。大したことはないし、もうほとんど乾いてい、る、だろう……」

 金花の姿が変わったことに気づき、言葉が止まってしまった。
 ほんのわずか見上げるように顔を上げた金花の美しい額に、小さな角が一つ見える。目はいつも以上に潤み、気のせいでなければ口の端から尖った小さな歯がちらりと見えていた。

「金花、」
「……耐えても耐えても、こうして、……抗えなく、……いけないと、わかって、……いるのに……」

 金花の顔がすぅと近づき、次の瞬間、口の端に温かく湿ったものが触れたのがわかった。ぴりっとした痛みにくっと眉が寄ったが、ふわりと伽羅香が漂っていることに気づき、近くにある金花の顔を横目で確認する。
 その顔は恐れを抱くほど美しく、匂うほどの色気を漂わせていた。

「あぁ……、なんて甘美な香り……。それに、とても甘くて……。あぁ、駄目、鬼の本性が、……いけないと、わかって……、駄目……」
「金花……」

 かすかだった伽羅香がぶわりと広がった。まるで俺を包み込むような濃厚な香りで、嗅いだ瞬間にじぃんと頭が痺れ出す。
 ……この感じは、初めて金花に会ったときに似ている。あのときも濃い伽羅香を感じ、そのうち酒精に満たされたようなふわりふわりとした感覚に襲われ、それから――。

「カラギ、わたしの大事な人……。血も精もたまらなく……。カラギ、どうかわたしに触れて……」
「……っ」

 小袿を床に落とし、単の前をくつろげながら座ったままの金花が擦り寄ってくる。その姿に俺の逸物はすぐさまそそり勃ってしまった。

「ふふっ、うれしい……。こんなに逞しくして……」

 右手で俺の肩を掴んだ金花は、ほぅと熱い息を吐きながら左手で俺の逸物をねっとりと撫で始めた。はじめは袴の上からゆっくりと、それから形を確かめるようにじっくりと。

「……あぁ、いい匂い……」
「な、……ッ」

 不意に首筋に生暖かいものを感じてギョッとした。すぅと息を吸い込む気配に慌てて身を離そうとしたが、左肩を掴む金花の手は思ったよりも力強く身動きすらできない。
 右耳の下の熱はもしや鼻先ではないだろうか。汗にまみれた体を臭われるのはどうなのだ。左肩に食い込む指が痛い。そんなことばかりをぐるぐると思うのは混乱しているせいだ。

(そもそも体を匂うなど獣じゃあるまいし、どういうつもりだ……!)

 首筋や耳の下、さらには耳の裏側にまで鼻先をつけてすぅすぅと嗅がれ、カァッと頭に血が上る。

「一体何をして、……!」

 なんとか金花の体をぐぃっと引き離したが、顔を見た途端に違う意味で頭に血が上った。
 そこにあったのは、とろりと蕩けた美しい顔だった。それを目にした途端に、俺の頭からは額にある小さな角のことも人にしては目立ちすぎる歯のことも消えてなくなっていた。
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