グランギニョルの花嫁

朏猫(ミカヅキネコ)

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4 花嫁と婚姻式1

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「これじゃスープが冷めちゃう」

 花嫁の部屋に不満げな声が響く。

「姫さま、毒味が終わるまで我慢してくださいませ」
「毒なんかで死んだりしないのに」
「いいえ、姫さまの体の半分はただの人でいらっしゃいます。万が一、その半分に効果のある毒が入っていたらどうするおつもりでございますか」

 侍女マルガにそう言われたリシアは何も言い返せなかった。

(たしかにこれまでにも毒が入ってることはあったけど)

 小さい頃、何度か菓子に毒が入っていたことがあった。うっかり口にしたリシアだったが、苦みに気づきすぐに吐き出した。異変はそれだけで身体に異常はない。そもそも人が作った毒で体調を崩すことはあり得ないことだ。
 毒が入っていたのは異国の菓子で、ユリティが一員だった神官団が来たときに振る舞われた菓子に入っていたこともある。しかし回数としては数えるほどでほんの一時のことだった。王侯貴族の間でくり広げられる毒の事件に比べれば可愛らしいものでしかない。それでもマルガは毒味をやめなかった。

(そもそも、あれも僕を狙ったものだったのかわからないのに)

 暗殺の標的としてもっとも狙われるのは王である長兄だ。その次は姿を見せない王妃、つまりリシアの母親だろう。奥の部屋に籠もる王妃に毒を盛ることは難しいだろうが、たとえ盛られたとしてもリシアの母親が毒で命を落とすことはない。

(殺したいなら首を落とさないと。まぁ、母様の首を落とせる人なんていないだろうけど)

 そんな物騒なことを考えながらリシアの黒眼が湯気の見えなくなったスープを見る。

「言いたいことはわかるけど、冷たいスープはおいしくないんだからね」

 それでなくとも人の食事はリシアにとって味気ないものだ。せめて温かくなくては食べる気も失せる。

(それにユリティも血をくれなくなったし)

「婚姻式までの辛抱ですよ」と言われたのは三日前だ。四日前までは毎日顔を見せ、そのたびにわずかながら血を与えてくれていた。それなのに三日前から今日まで一滴の血も口にしていない。喉が渇くからかリシアの気持ちは落ちる一方だった。

(それに、ユリティから嫌な匂いがしてるのも気になる)

 部屋に入ってきた瞬間、リシアはユリティに纏わりつく嫌な匂いに気がついた。それは吐き気をもよおすような不快なもので、祖国ウィンガラードにいたときも嗅いだ覚えがあるものだ。
 匂いを思い出したリシアの美しい眉がグッと寄る。ほんの一瞬思い出しただけで臓腑が燃えるような気分になった。苛々とした感情が胸に渦巻き、誰彼かまわずあやめてしまいそうになる。

(ユリティは僕のものなのに)

 十年前からユリティはリシアのものだと決まっている。少なくともリシアの中ではそうだった。二十人いた神官たちの中でリシアの目に映ったのはユリティだけで、それ以外の神官は視界の端にも入らなかった。
 神官団を招くことは亡き父王たっての願いだった。それがようやく叶ったのは父王が亡くなってしばらくしてからで、大神殿に使者を送ったのは若き王となった長兄だ。そうしてやって来たのがユリティを含む二十人の神官団だったが、あのときから十年の歳月が流れた。その間一度たりとてリシアがユリティを忘れたことはない。
 そうして待ちに待った今日、ようやくユリティのすべてがリシアのものになる。それなのに愛しい人の体から漂う不快な匂いがリシアの機嫌を急降下させる。

「もう召し上がっても大丈夫でございますよ」
「……やっぱりぬるくなってる」
「そうおっしゃらずお召し上りくださいませ」
「おいしくない」
「そのようなことをおっしゃらずに。もし婚姻式の最中に倒れでもしたらどうなさいますか?」
「……それは、ユリティが困る」
「わたくしの血を差し上げることはもうできません。スープでは味気なく感じましょうが、神官王のためにもお召し上がりくださいませ」

 マルガの言葉に渋々スプーンを口に運ぶが、やはり味がしない。以前から薄いと感じていた人間の食事は、ユリティの血を口にしてからますますそう感じるようになった。無理やり飲み込んでも胸がつかえるように重くなる。それはいまも同じで、半分ほど口にしたところでリシアはスプーンを置いた。

「もうよろしいのでございますか?」
「もういらない。それより準備、お願い」

 マルガが「では、こちらに」とリシアを鏡の前に促した。鏡の横には婚姻式のための花嫁衣装が飾られている。すべてユリティが用意したもので、可憐な少女にふさわしい純白のドレスにレースを使ったベールもあった。

(これを着て、僕は今日ユリティの花嫁になる)

 それなのに、どうして昨日もその前も嫌な匂いをさせていたのだろう。華やかな花嫁衣装を前にしてもリシアの気分は晴れなかった。

(あんな……僕のユリティにあんな匂いをつけて……)

 匂いのことを思い出すだけで胸の奥がチリチリする。目の奥が真っ赤になり、身の程知らずがと叫びたくなった。いますぐ見つけ出して、この手で……。

「姫さま、気をお静めくださいませ」
「でも」
「姫さまのためにならないことが起きることは一切ございません」
「でも、あんなに嫌な男の匂いをさせてた」
「何か考えがあってのことでございましょう。もし今宵もよからぬ匂いがするようでございましたら、わたくしが駆除してまいりますゆえ」
「駆除?」
「はい。わたくしの役目は姫さまをお守りすること。小鼠を駆除するのもわたくしの役目でございます。さぁ、小鼠のことなどお考えにならず、花嫁衣装に袖をお通しくださいませ」

 マルガが真っ白なドレスを広げた。流れるように広がるドレスの裾には細かな刺繍が施され、ふわりとした袖口にも同じ刺繍が見える。刺繍はヒラヒラと舞う小さな蝶たちと、それを誘う可憐な花を模したものだ。
 王族が身に着ける花嫁衣装としては質素なものだった。胸元に宝石はなく、また耳飾りや王冠といったものもない。そうした花嫁衣装であってもリシアの可憐さを損なうことはなかった。
 純白のドレスを身に纏ったリシアが、鏡の前でひらりと身を翻す。そうして「どう?」とマルガを見た。いつもは自信に満ちている黒眼にほんの少し不安そうな色が浮かんでいる。

「大層愛らしいお姿でございます。姫さまを見ればどんな殿方もひざまずかずにはいられないことでございましょう」
「ほかの男なんてどうでもいい。ユリティさえ見てくれれば、僕はそれでいい」
「間違いなく目を奪われるお美しさでございますよ」
「……それならいいけど」

 ようやく安堵の笑みを浮かべたリシアの黒髪を、マルガが器用に結い上げた。その顔は母親に瓜二つで、鏡を見ていたリシアがほんの少し眉を寄せる。

(王子として育ってたら、ここまで似ることもなかったのに)

 しかし、それでは神官王の花嫁にはなれない。それなら姫として育ったことも悪いことではない。「なにより僕はこんなに可愛いんだし」と自画自賛したリシアは、鏡に映る自分に微笑みかけた。
 生まれたのが王子だと知った母親は「この子は姫よ」と開口一番そう告げた。母親を溺愛していた父王は「そのようにせよ」と命じ、リシアを取り上げた産婆やその場にいた数名の侍女にかん口令を敷いた。そのうち真実を知る侍女たちは姿を消し、リシアが男だと知るのは亡き父王以外では二人の兄しかいない。

「参りましょう」

 すべての準備を終えたリシアにマルガが手を差し出す。この後は馬車に乗り、婚姻式を行う大聖堂に向かうことになっている。同じ敷地内にあるのに馬車を使うなんてと首を傾げたリシアだが、婚姻式とはそういうものだとユリティに言われ「ふぅん」と答えたのは昨夜のことだ。

(そこで僕はユリティの花嫁になる)

 リシアは黒眼をうっとりと細めながらマルガの手を取り馬車へと向かった。
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