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「ほら、先日ルナが話していたのは、この花のことじゃないかな」
「……」
「違った?」
「いえ、これで間違いないかと存じます」
「そう、よかった」という殿下の声がすぐそばから聞こえる。それもそのはずで、殿下が座っていらっしゃるのはすぐ隣だった。先ほどから何度も腕が触れ、そのたびにドキッとする。わたしの膝に載せた異国の植物図鑑を一緒に見ているからか顔までもが何度も近づいてきた。そのたびにふわっといい香りがするせいで、緊張してうまく返事をすることができない。
(こんなに近いなんて……どうすれば……)
ついこの前まではテーブルを挟んで向かい合わせに座り、お茶を飲みながら話をしていたのだ。それが「婚約者候補になったのだから」と殿下がおっしゃり、気がつけばソファに二人並んで座るようになっている。それも体が触れ合いそうなくらい、ぴたりと寄り添ってだ。
「ルナ?」
「……っ」
それに「ルナ」と呼ばれるようにもなった。これは小さい頃に母上が呼んでいた愛称で、いまではあの頃を懐かしむ父上しか呼ぶことのない家族での呼び方だった。それをなぜか殿下はご存知で、「婚約者候補になったのだから特別な呼び方をしたいんだ」と微笑みながら口にする。
「あの、殿下」
「うん?」
「なぜ、わたしの小さい頃の愛称をご存知でいらっしゃ……」
「ルナ、畏まらないで」
殿下は必要以上に畏まった言葉も必要ないとおっしゃり、こうして度々注意もされる。
「……わたしの愛称を、ご存知なのでしょうか」
「そうか、きみは覚えていないんだね」
「殿下……?」
沈んだ声に顔を上げると、少し寂しそうな殿下の緑眼がわたしを見ていた。
「きみがまだ三歳、あぁ四歳になる頃かな。あの頃、きみはたまに姉上のところに来ていたんだよ」
「わたしが、ですか?」
「お母上に連れられてね。そのときに何度か聞いたことがあったんだ」
初めて知った。隣国へ嫁がれた王女殿下と母上が親しくしていたことは知っていたけれど、父上と結婚してからは登城することはなかったと聞いていた。
「ちょうど姉上に婚約の話が持ち上がっていた頃でね。いろいろ不安になっていた姉上の我が儘で、お母上には何度か登城をお願いしていたんだ。そのときに幼かったきみも一緒に来ていた。そのときルナとわたしは三度、庭で会っている」
「そうでしたか。あの、申し訳ござ、……申し訳ありません。事故に遭ってから、母とのことをほとんど思い出せなくなっていて……」
「そうか、それで……。いや、それは仕方がない。あれだけの大きな事故だったんだ。ルナが無事でいてくれただけでも奇跡なのだから」
殿下の顔が少し晴れやかになったような気がする。
「じつはね。最後にルナに会ったとき、わたしはきみに結婚を申し込んだんだ」
「え……?」
「十二歳だったわたしはルナに一目惚れして、出会って三度目で『結婚してほしい』ってね」
「あの、」
「ふふ、驚いたかい?」
驚いた。わたしにはそんな記憶はないし、父上からもそういう話は聞いたことがない。
「ルナと会っていたのは姉上の私室の前にある庭だったから、このことはルナとわたし以外、誰も知らない。まぁ大人に知られていたとしても、子どもの戯れにしか思われなかっただろうけれど」
「そう、ですね……。でも、驚きました。あの、本当に覚えていなくて」
あまりに申し訳なくて、思わず俯いてしまった。
「覚えていない理由もわかったし、気にしないで」
そうおっしゃった殿下の手が、わたしの手に優しく触れた。事故のせいで覚えていないわたしを気遣ってくださっているのだろう。
(本当に殿下はお優しい。わたしにはもったいないお方だ)
殿下の人柄を知れば知るほど、本当に自分が婚約者候補でよいのか考えてしまう。
「それにしても、十年以上経ってから、またこうして結婚の申し込みをすることになるとは思わなかった。いや、これこそ運命のようだと思わないかい?」
「運命、ですか?」
「そう。ルナとわたしは、幼かったあのときから結ばれる運命だったのかもしれないよ?」
「……そうなんでしょうか」
弟殿下と婚約し、それが破棄されてすぐに兄であるウィラクリフ殿下の婚約者候補になった。はたから見れば運命と言えなくないのかもしれない。でなければ男である自分が、それも底辺の貴族である自分が殿下の目に留まることなど決してなかっただろう。
「運命、なんでしょうか」
「そう、きっと運命なんだ」
優しく手の甲を撫でる殿下の手つきがあまりにも優しくて、もう少しだけ撫でてほしいと思ってしまった。いくら婚約者候補とはいえ、そんな我が儘は不敬に値するというのにだ。
(でも、お止めするのも不敬だし……)
そんな言い訳をしながら、優しく動く殿下の手を見つめる。そういえば、母上もこんなふうに撫でてくれていたような気がする。それは手であったり背中であったり、一番うれしかったのは頭を撫でてもらったときだ。はっきりとは思い出せないけれど、殿下の手と同じくらい優しかったような気がする。
「まぁ、運命は自ら作るものだけれどね」
「殿下……?」
優しい感触にうっとりと浸っていたせいで、殿下の言葉を聞き逃してしまった。
「さぁ、次は薬草のページを見てみようか」
聞き返そうと見上げた殿下の顔は、いつものようにふわりと微笑んでいらっしゃる。すっかり見慣れたはずの笑顔なのに、なぜか胸が小さくとくりと音を立てた。それに驚いたのはわたし自身で、慌てて膝の上の図鑑に視線を戻す。
その後、何度も殿下の視線を感じた。それをなぜか気恥ずかしく感じたわたしは、ただじっと図鑑に描かれている薬草の絵を見ることしかできなかった。
今日は殿下がいらっしゃらない代わりに、一人の近衛兵が本を届けにやって来た。本は母上に寝物語で読んでもらっていた寓話集で、いつの間にか失くしてしまったものだった。
思い出の本をなくしたという話を殿下にしたのはつい先日で、「蔵書で見つけたら、ついでに持ってくるよ」とおっしゃった。それなのにこうして近衛兵が持って来たということは、わざわざ届けてくださったことになる。
「わざわざ申し訳ありません」
「いえいえ、これも仕事のうちですから」
人懐っこい笑顔に、どこかで会ったことがあるような気がした。
(街のどこかで……? ……いや、もっと昔にどこかで見たような……)
知り合いに騎士や近衛兵はいないから単なる勘違いかもしれない。それにわたしが誰かを見かける可能性があるのは学舎に通っていた頃のことで、さすがに学舎に騎士はいなかったから気のせいだろう。そもそもわたしは騎士が苦手で、見かけても決して近づかなかったから顔を見て覚えるなんてこともなかった。
(……近衛兵も騎士団の人たちも怖い印象だけど、この人はそうでもないな)
騎士は大きな体に鎧をまとい剣を携えているからか、小さい頃から苦手に感じていた。しかし目の前の近衛兵は笑顔が優しく、声も穏やかだからか威圧感のようなものも感じない。おかげで緊張することなく話をすることができる。
「お使いのようなことをしていただいて、申し訳ありません。あの、本は急いでいるものではありませんので、わざわざ届けていただかなくても大丈夫ですと殿下にお伝えくださいませんか?」
そうお伝えしなければ、今後も同じようなことが起きかねない。殿下にそんな手間をおかけするわけにはいかないし、近衛兵をお使い代わりに使うなんてとんでもないことだ。
そう思ってお願いしたのだけれど、近衛兵は少し細めの目を見開いて驚いたような顔をした。そうしてすぐさま人懐っこい笑みを浮かべる。
「あの……?」
「いや、大変失礼しました。昔とまったくお変わりないご様子でしたので」
「昔……?」
気になる言葉に顔をぐんと上向きにして、笑顔を浮かべている近衛兵を見る。
(やはり、どこかで会ったことが……?)
失礼と思いながらもじっと見つめたものの、やはり記憶にない。そんなわたしの様子がおかしかったのか、「フッ」と息を吐くように笑った近衛兵が口を開いた。
「殿下はご自身が来られない間も、自分を思い出してほしいと思っていらっしゃるのです。その手段が本というわけですから、エルニース様が気に病まれる必要はありません」
「思い出す……ですか?」
一日や二日、殿下にお目にかからなかったとしても忘れるはずがない。そのくらい何度も間近でお目にかかってきたし、顔も拝見している。
「殿下のお顔を忘れてしまうことなど、あり得ないと思うのですが」
「これはまた何というか、たしかに殿下が心配されるわけだ」
「あの……?」
「あぁいえ、こちらの話です。思い出す、という表現は適切ではなかったですね。正しくは“常に自分を思っていてほしい”ということでしょう」
「常に……」
さすがに常時いつでも、というのは無理な話だ。
(……いや、そうでもないかな)
殿下がいらっしゃらない日のわたしは、ほとんどの時間を読書に費やしている。いままでなら本の世界に没頭していたはずなのに、最近は本を読みながら殿下との会話を思い出すことが増えた。
それだけではない。興味のあること全般について話をしているせいか、日常のふとしたことで殿下の言葉を思い出すこともあった。
「わたしは長年殿下のお側近くにいますが、ようやく表立って想いを伝えられることにいささか興奮されているように見受けられます。エルニース様が大変な読書家だと知って集めてきた膨大な蔵書も、ここで使わなければ意味がありませんからね」
「それは、一体どういう……」
「ウィラクリフ殿下もただの男だということです。どうぞ殿下の気持ちを受け取ってさしあげてください」
「あの、」
「殿下は明日の午後いらっしゃいます。お礼はそのときに直接お伝えください。そのほうが殿下もお喜びでしょうから。では、失礼します」
大柄な近衛兵は最後まで人懐っこい笑みを浮かべ、応接間に行くこともなく帰ってしまった。気になる言葉がいくつかあったものの、結局確認することはできないままだ。
「何だったんだろうな……」
気になりながらも包みを広げ表紙を見た途端に、わたしの意識は目の前の本へと向かってしまう。そうして気になった言葉も近衛兵のことも、すっかり忘れてしまっていた。
「……」
「違った?」
「いえ、これで間違いないかと存じます」
「そう、よかった」という殿下の声がすぐそばから聞こえる。それもそのはずで、殿下が座っていらっしゃるのはすぐ隣だった。先ほどから何度も腕が触れ、そのたびにドキッとする。わたしの膝に載せた異国の植物図鑑を一緒に見ているからか顔までもが何度も近づいてきた。そのたびにふわっといい香りがするせいで、緊張してうまく返事をすることができない。
(こんなに近いなんて……どうすれば……)
ついこの前まではテーブルを挟んで向かい合わせに座り、お茶を飲みながら話をしていたのだ。それが「婚約者候補になったのだから」と殿下がおっしゃり、気がつけばソファに二人並んで座るようになっている。それも体が触れ合いそうなくらい、ぴたりと寄り添ってだ。
「ルナ?」
「……っ」
それに「ルナ」と呼ばれるようにもなった。これは小さい頃に母上が呼んでいた愛称で、いまではあの頃を懐かしむ父上しか呼ぶことのない家族での呼び方だった。それをなぜか殿下はご存知で、「婚約者候補になったのだから特別な呼び方をしたいんだ」と微笑みながら口にする。
「あの、殿下」
「うん?」
「なぜ、わたしの小さい頃の愛称をご存知でいらっしゃ……」
「ルナ、畏まらないで」
殿下は必要以上に畏まった言葉も必要ないとおっしゃり、こうして度々注意もされる。
「……わたしの愛称を、ご存知なのでしょうか」
「そうか、きみは覚えていないんだね」
「殿下……?」
沈んだ声に顔を上げると、少し寂しそうな殿下の緑眼がわたしを見ていた。
「きみがまだ三歳、あぁ四歳になる頃かな。あの頃、きみはたまに姉上のところに来ていたんだよ」
「わたしが、ですか?」
「お母上に連れられてね。そのときに何度か聞いたことがあったんだ」
初めて知った。隣国へ嫁がれた王女殿下と母上が親しくしていたことは知っていたけれど、父上と結婚してからは登城することはなかったと聞いていた。
「ちょうど姉上に婚約の話が持ち上がっていた頃でね。いろいろ不安になっていた姉上の我が儘で、お母上には何度か登城をお願いしていたんだ。そのときに幼かったきみも一緒に来ていた。そのときルナとわたしは三度、庭で会っている」
「そうでしたか。あの、申し訳ござ、……申し訳ありません。事故に遭ってから、母とのことをほとんど思い出せなくなっていて……」
「そうか、それで……。いや、それは仕方がない。あれだけの大きな事故だったんだ。ルナが無事でいてくれただけでも奇跡なのだから」
殿下の顔が少し晴れやかになったような気がする。
「じつはね。最後にルナに会ったとき、わたしはきみに結婚を申し込んだんだ」
「え……?」
「十二歳だったわたしはルナに一目惚れして、出会って三度目で『結婚してほしい』ってね」
「あの、」
「ふふ、驚いたかい?」
驚いた。わたしにはそんな記憶はないし、父上からもそういう話は聞いたことがない。
「ルナと会っていたのは姉上の私室の前にある庭だったから、このことはルナとわたし以外、誰も知らない。まぁ大人に知られていたとしても、子どもの戯れにしか思われなかっただろうけれど」
「そう、ですね……。でも、驚きました。あの、本当に覚えていなくて」
あまりに申し訳なくて、思わず俯いてしまった。
「覚えていない理由もわかったし、気にしないで」
そうおっしゃった殿下の手が、わたしの手に優しく触れた。事故のせいで覚えていないわたしを気遣ってくださっているのだろう。
(本当に殿下はお優しい。わたしにはもったいないお方だ)
殿下の人柄を知れば知るほど、本当に自分が婚約者候補でよいのか考えてしまう。
「それにしても、十年以上経ってから、またこうして結婚の申し込みをすることになるとは思わなかった。いや、これこそ運命のようだと思わないかい?」
「運命、ですか?」
「そう。ルナとわたしは、幼かったあのときから結ばれる運命だったのかもしれないよ?」
「……そうなんでしょうか」
弟殿下と婚約し、それが破棄されてすぐに兄であるウィラクリフ殿下の婚約者候補になった。はたから見れば運命と言えなくないのかもしれない。でなければ男である自分が、それも底辺の貴族である自分が殿下の目に留まることなど決してなかっただろう。
「運命、なんでしょうか」
「そう、きっと運命なんだ」
優しく手の甲を撫でる殿下の手つきがあまりにも優しくて、もう少しだけ撫でてほしいと思ってしまった。いくら婚約者候補とはいえ、そんな我が儘は不敬に値するというのにだ。
(でも、お止めするのも不敬だし……)
そんな言い訳をしながら、優しく動く殿下の手を見つめる。そういえば、母上もこんなふうに撫でてくれていたような気がする。それは手であったり背中であったり、一番うれしかったのは頭を撫でてもらったときだ。はっきりとは思い出せないけれど、殿下の手と同じくらい優しかったような気がする。
「まぁ、運命は自ら作るものだけれどね」
「殿下……?」
優しい感触にうっとりと浸っていたせいで、殿下の言葉を聞き逃してしまった。
「さぁ、次は薬草のページを見てみようか」
聞き返そうと見上げた殿下の顔は、いつものようにふわりと微笑んでいらっしゃる。すっかり見慣れたはずの笑顔なのに、なぜか胸が小さくとくりと音を立てた。それに驚いたのはわたし自身で、慌てて膝の上の図鑑に視線を戻す。
その後、何度も殿下の視線を感じた。それをなぜか気恥ずかしく感じたわたしは、ただじっと図鑑に描かれている薬草の絵を見ることしかできなかった。
今日は殿下がいらっしゃらない代わりに、一人の近衛兵が本を届けにやって来た。本は母上に寝物語で読んでもらっていた寓話集で、いつの間にか失くしてしまったものだった。
思い出の本をなくしたという話を殿下にしたのはつい先日で、「蔵書で見つけたら、ついでに持ってくるよ」とおっしゃった。それなのにこうして近衛兵が持って来たということは、わざわざ届けてくださったことになる。
「わざわざ申し訳ありません」
「いえいえ、これも仕事のうちですから」
人懐っこい笑顔に、どこかで会ったことがあるような気がした。
(街のどこかで……? ……いや、もっと昔にどこかで見たような……)
知り合いに騎士や近衛兵はいないから単なる勘違いかもしれない。それにわたしが誰かを見かける可能性があるのは学舎に通っていた頃のことで、さすがに学舎に騎士はいなかったから気のせいだろう。そもそもわたしは騎士が苦手で、見かけても決して近づかなかったから顔を見て覚えるなんてこともなかった。
(……近衛兵も騎士団の人たちも怖い印象だけど、この人はそうでもないな)
騎士は大きな体に鎧をまとい剣を携えているからか、小さい頃から苦手に感じていた。しかし目の前の近衛兵は笑顔が優しく、声も穏やかだからか威圧感のようなものも感じない。おかげで緊張することなく話をすることができる。
「お使いのようなことをしていただいて、申し訳ありません。あの、本は急いでいるものではありませんので、わざわざ届けていただかなくても大丈夫ですと殿下にお伝えくださいませんか?」
そうお伝えしなければ、今後も同じようなことが起きかねない。殿下にそんな手間をおかけするわけにはいかないし、近衛兵をお使い代わりに使うなんてとんでもないことだ。
そう思ってお願いしたのだけれど、近衛兵は少し細めの目を見開いて驚いたような顔をした。そうしてすぐさま人懐っこい笑みを浮かべる。
「あの……?」
「いや、大変失礼しました。昔とまったくお変わりないご様子でしたので」
「昔……?」
気になる言葉に顔をぐんと上向きにして、笑顔を浮かべている近衛兵を見る。
(やはり、どこかで会ったことが……?)
失礼と思いながらもじっと見つめたものの、やはり記憶にない。そんなわたしの様子がおかしかったのか、「フッ」と息を吐くように笑った近衛兵が口を開いた。
「殿下はご自身が来られない間も、自分を思い出してほしいと思っていらっしゃるのです。その手段が本というわけですから、エルニース様が気に病まれる必要はありません」
「思い出す……ですか?」
一日や二日、殿下にお目にかからなかったとしても忘れるはずがない。そのくらい何度も間近でお目にかかってきたし、顔も拝見している。
「殿下のお顔を忘れてしまうことなど、あり得ないと思うのですが」
「これはまた何というか、たしかに殿下が心配されるわけだ」
「あの……?」
「あぁいえ、こちらの話です。思い出す、という表現は適切ではなかったですね。正しくは“常に自分を思っていてほしい”ということでしょう」
「常に……」
さすがに常時いつでも、というのは無理な話だ。
(……いや、そうでもないかな)
殿下がいらっしゃらない日のわたしは、ほとんどの時間を読書に費やしている。いままでなら本の世界に没頭していたはずなのに、最近は本を読みながら殿下との会話を思い出すことが増えた。
それだけではない。興味のあること全般について話をしているせいか、日常のふとしたことで殿下の言葉を思い出すこともあった。
「わたしは長年殿下のお側近くにいますが、ようやく表立って想いを伝えられることにいささか興奮されているように見受けられます。エルニース様が大変な読書家だと知って集めてきた膨大な蔵書も、ここで使わなければ意味がありませんからね」
「それは、一体どういう……」
「ウィラクリフ殿下もただの男だということです。どうぞ殿下の気持ちを受け取ってさしあげてください」
「あの、」
「殿下は明日の午後いらっしゃいます。お礼はそのときに直接お伝えください。そのほうが殿下もお喜びでしょうから。では、失礼します」
大柄な近衛兵は最後まで人懐っこい笑みを浮かべ、応接間に行くこともなく帰ってしまった。気になる言葉がいくつかあったものの、結局確認することはできないままだ。
「何だったんだろうな……」
気になりながらも包みを広げ表紙を見た途端に、わたしの意識は目の前の本へと向かってしまう。そうして気になった言葉も近衛兵のことも、すっかり忘れてしまっていた。
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