BL短篇集

朏猫(ミカヅキネコ)

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埋れ木に咲く花~古い屋敷で出会ったのは座敷童子だった

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「誰だ、おまえ?」
「座敷童子です」

 それが最初に交わした言葉だった。

 久し振りに帰省した本家は小さい頃に過ごしていたときよりずっと古く感じた。そして幼心に感じていたのと同じくらいだだっ広かった。

(家っていうより屋敷だな)

 それが正直な感想だ。いまでは珍しい縁側を兼ねた長い廊下があり、そこに障子戸で仕切られた和室がずらりと並んでいる。おぼろげな記憶を頼りに進んでいくと、昔遊んでいた奥の間と呼ばれる部屋にたどり着いた。そうして障子戸を開けたところに座っていたのが、真っ赤な浴衣っぽいものを着た“座敷童子”だ。

「ちょっと待て。座敷童子ってのは子どもだろう? おまえ、どう見ても高校生くらいじゃないか」
「人の歳で言えばもうすぐ十六になります。でも、十六になるまでは座敷童子です」

 俺を見上げる真っ黒な瞳は嘘をついているようには見えない。瞳と同じ真っ黒な髪はおかっぱを長くしたような感じで、そのまま子どもにしたらたしかにテレビや本で見るような座敷童子だなと思った。

(いやいや、俺は何を考えているんだ)

 目の前の男はおそらく親戚の誰かに違いない。そう思ったものの、こんな若い親戚がいただろうかと疑問に思った。

(葬式に参列するような近しい関係者で一番若いのは俺のはずだ)

 今年三十歳になる俺より若い奴は本家筋はいない。それに葬式は離れでやっているから、こんな奥の間まで来るのは本家筋か俺みたいに元々住んでいた人間くらいだ。

「座敷童子は子どもにしか姿が見えないって話じゃなかったか?」
「そんなことはありません。ただ、いつの間にかほとんどの大人は見てくれなくなりましたけど」
「俺には見えてるな」
「……そうですね」

 そう答えた男が寂しそうな顔をした。どうしてそんな表情をするのか気になったものの、まずはこの男が誰かを確認するほうが先だ。もっとまともなことを言えばいいのにと思いながら「おまえ、本当に座敷童子なのか?」と尋ねれば、男が「はい」としっかり頷く。

「座敷童子って妖怪のことだよな?」
あやかしで間違いありません」
「何でこんなところにいるんだ? ばあさんも亡くなったし、もうこの屋敷に住んでる人間はいないぞ?」

 最後の質問には返事がなかった。代わりに、なぜかひどく悲しそうな目で俺を見上げてくる。濡れた鏡のように光る黒い瞳を見ると俺まで悲しい気持ちになりそうで、そっと視線を外した。
 もう一度ここにいる理由を聞こうと口を開きかけたとき、遠くから俺を呼ぶ声がした。その声に返事をしながら、自称・座敷童子に視線を向ける。

「おまえはここにずっといるのか?」
「ずっとは……いません」
「今夜はいるか?」

 そう尋ねると、男の大きな目がさらに大きく見開かれた。男も驚いたようだが、そう口にした俺自身も驚いている。
 なぜそんなことを言ったのか俺にもよくわからない。ただ、どうしでもこの男ともう一度話したいと思った。

「今夜もこの部屋にいるか?」

 再び尋ねると男の頭がこくりと頷いた。

「夜また来るから待っていてくれ」

 そう言って障子戸を出る瞬間、後ろで誰かの名前を呼ぶ小さな声が聞こえたような気がした。

  ・ ・

 小さい頃、俺は母方の曾祖母に育てられていた。曾祖母しか俺を引き取る親戚がいなかったからだ。
 両親ともに純粋な日本人であるはずの俺は、どうしてか茶色にしか見えない髪の色をしている。目もこげ茶より明るい色で、そんな俺の見た目は両親にとって災いの種にしかならなかった。
 昔ながらの閉鎖的な田舎では、いらぬ噂が広がるのも早い。誰の子だと囁かれることに気を病んだ母親は、次第に病気がちになり遠い街の病院に入院することになった。その頃には父親もすでに別居していて、まだ幼かった俺は舘花たちばなという大きな屋敷の女主人である曾祖母に引き取られることになった。

(いくら母親が本家筋だったとはいえ、よく俺を引き取る気になったよな)

 いま思えば相当苦労したに違いない。早くに結婚した曾祖母は祖母と言ってもいいほど若かったが、小さい子どもの面倒を見るのは大変だっただろう。それなのに二つ返事で俺を引き取り、俺は馬鹿でかい屋敷のような古民家で暮らすことになった。
 あの頃のことは正直あまり覚えていない。ただ、周囲の人たちに姿を見られないように息を潜めながら生活していたような気がする。そんな状況の俺を、屋敷の中では不自由なく過ごさせてくれた曾祖母にはいまでも感謝していた。

(こんな見た目の俺を育てるのは大変だっただろうに)

 偏見に満ちた周囲から小さな子どもを守るのは並大抵のことじゃなかったはずだ。少し大きくなったとき、周囲の視線から俺自身もそのことを痛感した。そんな俺を守ってくれていた曾祖母の葬式と聞いたら参列しないわけにはいかない。

(いまの俺に余計なことを言う人たちもいないだろう)

 分家筋にあれこれ融資している俺に顔をしかめる親戚はもはやいない。そういうこともあって帰る気になった。

(ま、こんなことでもない限り里帰りなんてしなかっただろうしな)

 葬式用らしいお膳をつつきながら、思わずそんなことを思った。
 いい思い出のない田舎に、わざわざ嫌なことを思い出すために帰って来るほど俺はお人好しじゃない。あの頃はよくわからなかった周囲の言葉もいまなら理解できる。だからこそ、これまで一度も里帰りすることはなかった。ここでの生活を思い出すことさえなかった。

(……そういや、小さい女の子がいたな)

 ふと、屋敷で暮らしていた頃の記憶が脳裏をよぎった。
 曾祖母の屋敷に来て半年くらいが経った頃だろうか。奥の間で遊んでいると、どこからともなく同じ年頃の女の子が現れた。いつも一人だった俺は同い年の子どもに会えたのが嬉しくて、気がつけば毎日のように一緒に遊ぶようになっていた。

(そういえばいつも着物姿だったような……)

 当時、曾祖母以外で着物を着ていた人はいなかった。それなのに女の子はいつも着物姿で、それがよく似合っていた。そう思っていることを伝えたくて、女の子にはいつも「かわいい」と言っていた気がする。
 思い出せば何てタラシだと気恥ずかしくなる。「なんで急に思い出したんだろうな」と不思議に思いながら女の子の記憶をたどり続けた。

(髪はたしか……おかっぱだったな)

 おぼろげな女の子の姿がぼんやりと浮かんでくる。いつも綺麗な柄の着物を着ていて、真っ黒な髪の毛はおかっぱだった。大きな黒い目が印象的なその子は、真っ白な頬を少し赤らめながら一生懸命喋っていた気がする。その姿に小さいながらいつもドキドキしていた。

(そういえば、引っ越しの日に泣かれたんだったか)

 小学生に上がってしばらくした頃、俺は叔母に引き取られることになった。
 叔母が迎えに来た日、女の子は「行かないで」と言わんばかりにボロボロと大粒の涙を零した。泣き止んでほしくて、でも何て言ったらいいのかわからなかった俺は女の子をギュッと抱きしめることしかできなかった。そのときいい匂いがして、ますますドキドキしたのを思い出す。

(それから何か話をして……最後にキスをした)

 我ながらとんだマセガキだ。あれが初めてのキスだったのに、いまのいままですっかり忘れていた。

(もしかしなくても、あれが初恋だったのか)

 俺はあの子のことが好きだった。いまならはっきりそう言える。それなのにどうして綺麗さっぱり忘れていたのだろう。いままで一度たりとも思い出さなかったのが不思議なくらいだ。

(あの子は一体誰なんだ?)

 毎日遊んでいたということは、屋敷に住んでいたか近所に住む分家の子に違いない。しかし葬式にそういう年頃の女性はいなかった。それならと、近所に長く住んでいる大叔父に尋ねることにした。

「あの、俺がこの家にいた頃、俺くらいの女の子がここに住んでいませんでしたか?」
「ん? おまえさんくらいの? いやぁ、そんな小さい子はいなかったと思うがなぁ」
「そうですか」

 やはりいないか。しかし俺はあの子に何度も会っている。曾祖母も見ていたはずだ。

(こんなことなら生きてるうちに会いに来ておくべきだったか)

 そうすれば女の子の正体がわかったかもしれない。残念に思っても後の祭りだ。

(……座敷童子とかいう彼なら知っているかもしれないか)

 座敷童子は家に付くというから、もしかしたら女の子のことを知っているかもしれない。そんなことを考えた自分に笑いたくなった。
 俺は妖怪や幽霊の類いを信じていない。怖いと思ったこともない。見たことのない存在に怯えるくらいなら、ほかに考えることが山のようにあるからだ。

(そもそも本当に恐ろしいのは人間のほうだ)

 そのことを俺は小さい頃から嫌というほど学んできた。大広間で膳を囲んでいるいまもチラチラ感じる視線にはうんざりする。

(口にしなくなっただけで、結局は昔と同じか)

 ため息を呑み込み膳の料理を綺麗に平らげた。そうして最後まで葬儀に参加し続けた。
 数時間後ようやくお開きになった。分家筋はそれそれの家に帰り、遠くから参列した人たちは帰路に就くか隣町のホテルへと向かう。それを見送った俺は本家の屋敷に戻り、約束どおり奥の間へと足を向けた。

(相変わらず暗いな)

 日が暮れると屋敷の中は真っ暗だ。廊下の電気もポツポツとしか付いていないからか、マンションの派手な明るさに慣れた俺の目には床板も天井も同じ黒にしか見えない。
 たまに鳴る床板の音に懐かしさを感じながら奥の間へと足を進めた。昼間と違い段々と鼓動が早くなる。少し緊張しながら障子戸をゆっくり引くと、薄暗いなか昼と同じ場所に座敷童子だという男が座っていた。

「いた」

 かすかに漏れ出た俺の声は、それでも男の耳にはしっかり届いたらしい。ちらりと俺を見る黒い目が非難めいた雰囲気に変わる。

「待っていろと言ったのは、あなたじゃないですか」
「昼のことは白昼夢かと思ったんだ。それに結構な時間が経っているし、てっきりいないかと思って」
「約束をたがえたりはしません」

 そう言ってぷいっと顔を背ける姿と、小さい頃に遊んだ女の子の姿が重なった気がした。

(……そうだ、たしかあの子もこんな仕草をよくしていた)

 あの子も機嫌を悪くすると頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いた。それがかわいくて、俺はよくからかったり怒らせたりしていた。

「悪かった。別にいないと思ったわけじゃない。そもそも妖怪なんているわけがないんだからな。あぁいや、いないというのはよくないか。そうじゃなくて、信じられないというか……」
「嘘なんてついてません」
「そうだったとしても、俺はいままで妖怪なんて見たことがないんだ。だから夢だったんじゃないかと思ったんだよ」

 言い訳じみたことを話す俺を男が横目でチラチラと見る。その顔はひどく悲しそうで、気のせいでなければ目尻が少し光っているように見えた。
 一瞬、その顔に大粒の涙をこぼした女の子の顔が重なった気がした。目の前の男もあの子も、こちらの胸が締めつけられるような表情や雰囲気がよく似ている。

(そんな顔をさせたいわけじゃないのに)

 別れのときも泣かせたいわけじゃなかった。できれば俺もこの家にいたいと思っていた。しかし、ただの子どもでしかない俺に我が儘を言うことはできなかった。
 あのときの気持ちを思い出したからか、急に申し訳なさで胸がいっぱいになる。別に男を傷つけたいわけじゃなく妖怪だというのが信じられないだけだ。胸の中でそんな言い訳をしながら男の近くに腰を下ろした。

「あー……その、本当に妖怪なのか? いや、そうだったとしても、まさかこんな身近にいるとは思わなくてだな」
あやかしは意外と人の近くにいるものです。座敷童子が人の住む家に棲み着くことは、よく知られていると思いますけど」

 俺の言葉が気に入らなかったのか、男の口調がつっけんどんなものに変わる。

「そう……だな。妖怪に興味がない俺でも知っているくらいだしな」
「座敷童子は人に幸運と富をもたらすあやかしだと有名なはずです」

 どうやらすっかり機嫌を損ねてしまったらしい。本物かどうかはこの際別にして、ここは謝っておくべきかもしれない。それにあの女の子のことも尋ねたかった。そう思い、座敷童子だという男の正面に座り直そうと中腰のまま近づいたときだった。

(……この匂いは)

 わずかだがお香のような香りがする。曾祖母が好んで使っていたものとは違うが、どこか懐かしく感じる香りだ。

(以前どこかで嗅いだような……そうだ、あの子の匂いだ)

 そう思った途端におぼろげだった女の子の記憶が一気に鮮明になった。ぼやけていた目鼻立ちがはっきりし、その顔が目の前の男の顔にスッと重なる。

「……思い出した。俺は小さい頃、妖怪に会ったことがある」

 俺の言葉に男の肩がビクッと揺れた。体が動いたからか、懐かしい香りがふわりと鼻孔をくすぐる。そうだ、俺はこの香りを知っている。あの子の着物に焚きしめられていたあの香りで間違いない。

「小さい頃、たぶん俺は妖怪に会っている。いや、一緒に遊んでいた」

 逸らされていた顔が、ゆっくりと俺のほうを見た。大きな黒い目はいつの間にか涙に濡れていて、真っ白な頬がほんのり赤くなっている。

(そうだ、この顔だ)

 あの頃よりもずっと大人びてはいるが、あのときの女の子で間違いない。目の前にいるのは男のはずなのにあの子だと確信できた。

富希ふき、だよな」
「……っ、留衣るいっ」

 弾かれたように富希が胸に飛び込んできた。小さかった体はたしかに大きくなっているものの、華奢な感じも温かさもあのときと同じだと思った。こんなにはっきりと抱きしめた感覚まで思い出せるのに、どうしていままで富希のことを思い出すことがなかったのだろう。

「思い出せなくてごめん。あんなに忘れないようにと思っていたはずなのに、いま初めて思い出した。どうしていままで一度も思い出さなかったんだろうな」
「……それは、僕が座敷童子だからです」

 そうつぶやいた富希の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。それなのにあまりに綺麗で、思わず息を呑んでしまう。

「留衣?」
「あ、いや、何でもない。それより、座敷童子のことは思い出せなくなるっていうのは……?」
「必ずではないですけど、大抵は忘れてしまいます。……座敷童子が家に棲み付くのは知ってますよね?」

 富希の言葉に「あぁ」と頷く。

「本来、座敷童子は棲み付いた家の人にしか見えません。稀にそうでない座敷童子もいますが、大抵はそうです。座敷童子が家から離れると、その家の人たちの記憶からは自然と消えてしまう。家から出た人も同じです」

 だから俺も綺麗さっぱり忘れてしまっていたというわけか。

「いや、それでも座敷童子は有名だよな? 記憶が消えるのなら、なぜ誰もが知っているくらい有名になったんだ?」

 俺の言葉に、泣いている顔が不快そうな表情に変わった。

「それは欲深い人のせいです。幸運と富をもたらす存在を忘れないように、手放さないようにするために、文字や絵で書き記して子孫に伝えようとしたせいです。おかげで僕たちの存在は人の世で有名になってしまいました」
「なるほど……たしかに人は欲深い生き物だ」

 俺も嫌というほど実感してきた。人は己の欲を満たすためなら何でもする。俺を嫌っている叔母もその一人だ。

(最初に俺を見たとき、思い切り眉をひそめたくせにな)

 それなのに、俺が舘花の長老であり女主人だった曾祖母に気に入られていると知るやいなや、引き取りたいと申し出た。子ができなかった叔母は俺を後継ぎに据え、嫁ぎ先である老舗呉服屋を意のままにしたかったのだろう。舘花の後ろ盾があれば、分家筋である呉服屋は叔母の言いなりになるしかない。その目的のためだけに俺をこの屋敷から、富貴から引き離したのだ。
 おかげで俺は老舗呉服屋の跡取りにされてしまった。そのせいで表舞台に立つことになり、挙げ句周囲からの羨望と妬みを一身に浴びることにまでなった。それどころか舘花の権威の象徴として叔母に利用されることにもなった。

(思い出すだけで胸糞が悪くなる)

 思わず顔をしかめた俺の頬に、富貴の手がそっと優しく触れる。

あやかしとしては人の記憶に残り続けるのは困ります。座敷童子という存在だけならまだしも、僕という姿形を覚えられるのは困る。でも、忘れてほしくない人だっているんです。それなのに、どうでもいい人たちは忘れないで本当に覚えていてほしい人には忘れられてしまう。……僕のことを忘れないでほしいと心から願っているのに」

 ――忘れないで。

 女の子が一度だけつぶやいた言葉が耳の奥に蘇った。泣きながら、たった一度だけそう口にした女の子の顔と、潤んだ瞳で俺を見つめる目の前の顔がぴたりと重なる。

(あぁ、そうだ。こんな顔をしてほしくなくて、俺はあのとき約束したんだ)

 泣き止んでほしくて、小さかった俺は富希を抱きしめながら必死に自分の思いを伝えようとした。

『絶対に忘れないし、絶対に迎えにくるからね! そのときは僕のお嫁さんになって!』

 俺はずっと一人ぼっちだった。息を潜める日々は死んでいるのと同じようなものだ。そんな俺のそばにいて、いつも一緒に遊んでくれる富貴は何より大事な存在になった。
 俺はすぐに富貴を好きになった。大好きなのに離れ離れになるのが悲しくて、いつかまた一緒にいられることを願いながら「お嫁さんになって!」なんて口走った。

「僕のこと、迎えに来てくれたんでしょう?」

 頬に触れていた富希の手がギュッと俺の腕を掴む。まるで縋るような姿に、嬉しいような切ないような感情がせり上がってきた。

(もう二度と、この手を離したくはない)

 それだけじゃない。子どもの頃に抱いていた初々しくも激しい感情が一気に蘇った。忘れていた間に濃縮されたような感情が一気に熱く噴き出す。

(富希を手に入れたい)

 そんな苛烈な感情を抱いたのは初めてで、ハッとするとともにうろたえてしまった。

(俺はいま何を……)

 いくら初恋の相手だったとしても相手は妖怪だ。たとえ妖怪じゃなかったとしても同じ男だ。それなのに、いま抱いた感情は紛れもない情欲を伴うものだった。

(俺は……)

 縋るような富希の手を握り返そうとした手が止まる。はたして俺はこの手を取ってもいいのだろうか。
 自分はいま面倒くさい状況の真っ直中にいる。叔母の手から逃れるための準備をし、財を蓄えながらそのときを待っている状態だ。勝手に連れて来る婚約者候補だという女性たちも、ついに二桁台に上った。そのことで叔母と言い争うことも増えている。
 自分が抱えているものだけでも面倒な状況なのに、さらに妖怪だという富貴を手元に置くなんて無茶な話だ。もし「身元の知れない若い男と同棲している」なんて叔母の耳に入れば大騒ぎになることは目に見えている。
 迷う俺の腕を掴んだ富貴が、潤む黒目でじっと俺を見つめながら口を開いた。

「留衣のお嫁さんにしてくれるんでしょう……?」

 小さいときの別れ際と同じ表情に、理性がぐらりと傾く。

「座敷童子の富貴は、この家に棲んでいるんじゃないのか?」

 俺の言葉に、黒髪を揺らしながら富希が首を横に振った。

「僕はもうすぐ座敷童子じゃなくなります。大人になってしまったら座敷童子としては生きていけません。その前に人に拾ってもらうか、この屋敷と一緒に朽ちていくしかないのです」

 そう言いながら、おずおずといった仕草で俺に身を寄せる。

(……っ)

 ほんのりした体温と少し濃くなった香りに喉が鳴った。もしかして、これが妖怪の手練手管なんだろうか。こうやって人は狐や狸に化かされてきたのかもしれない。

(いや、富貴はそんなことはしない)

 幼い頃の富貴を思い出し、縋る声に心が動いた。よく見れば富貴が着ているのは浴衣ではなく赤い長襦袢だ。もしかしてすでに着物姿にさえなれないということなんだろうか。

(そしていずれは消えるってことか)

 そんなことさせない。このまま消えるなんて冗談じゃない。

(……あれは)

 グッと奥歯を噛み締めながら視線を上げた先に何かがあることに気がついた。薄明かりのなか目をこらすと豪華な打ち掛けだということがわかる。

(あの打ち掛けは……そうだ、引き取られる少し前に見たものだ)

 あの日、曾祖母は着物の虫干しをしていた。普段着ている着物だけでなく、見たことがない綺麗な着物が何着も干されていたのを思い出す。その中でも一際目を引いたのがあの打ち掛けだ。

(たしか、嫁入りのときに着たと話していたような……)

『これはわたしが嫁入りのときに仕立てた打ち掛けです。この打ち掛けはあなたにあげましょう。いずれ必要になるでしょうからね』
『ぼくがもらっていいの?』
『えぇ、あなたにあげます。そしてあなたが心から大事に思う相手に渡すのですよ。願わくば、この家を守ってくれてきたあの子にあなたの手から渡してあげてください』

 あのとき、曾祖母が何を言いたいのか理解できなかった。それなのに、なぜかすぐに富貴のことが頭に浮かんだ。小さかった俺はやはり相当なマセガキだったのだろう。その着物をあの子に着せたいと思ったのだ。

「ははっ、そうか」

 すっかり忘れていた記憶が次々に蘇る。あんなに小さかったのに、当時の俺は大人に負けないほどの情熱を富貴に捧げていたらしい。それなのに、ほとんどを自由にできるようになった大人の俺がこの様とは、情けなくて笑いたくなる。

(いや、純粋な子どもだからこそ何も気にすることなく本気になれたんだろうな)

 あれほど真っ直ぐで熱い気持ちはいまの俺には抱けない。いや、抱いてはいけないと思い込んできた。

「まだ三十だというのに、いくらなんでも枯れるには早すぎるか」
「留衣……?」

 涙に濡れた黒い大きな目を見ると、小さかった頃の強い想いが蘇ってくる。

「富希、俺と一緒に来るか?」

 そう言って腕を握っている華奢な手に右手を重ねた。涙を浮かべた美しい富貴が微笑みながらこくりと頷く。それだけで俺はこの世の幸せのすべてを手に入れたような気がした。
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