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9 王子様、現る

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 その日は、三日に一度の診察経過報告書を伯爵様が確認する日だった。しかし伯爵様は朝から忙しくしているようで、書斎に書類を置いておくだけになった。そういえば前回も忙しいとかで、報告書にさっと目を通しただけで伯爵様からは何も言われなかったっけ。
 最初の頃に比べると格段によい経過だからということもあるんだろうけれど、あれだけ無言の圧力をかけまくっていた伯爵様が何も言わないというのが地味に怖い。

(まぁ、何かとお忙しいんだろうけど)

 ファルクの話だと、王太子を巻き込んでの権力闘争のほぼ真ん中にいるらしいから、いろいろあるんだろう。

「その割には、スピネル様自身はいつもと変わらないんだよなぁ」

 次期伯爵様なのに、お父上である伯爵様とは随分様子が違う。忙しそうにしていないうえに屋敷にいる時間も長い。伯爵家としてそれがいいことなのかはわからないけれど、治療に集中できる日々のほうが医者としては喜ばしい。

「僕は僕の役目を果たすだけだ」

 さて、そろそろ午前のお茶の時間だ。今日もこの時間を使って、触り合いの練習をすることになっている。
 治療を行う前、僕は両手を肘まで丁寧に洗うようにしている。スピネル様は物理的な汚れを気にしているわけじゃないけれど、気分的な抵抗感が少しでも薄れるといいなと思ってのことだ。
 洗い終わったら水分をしっかりと拭き取り、袖を戻して書類やペンなどを持って部屋を出る。歩いてすぐのドアをコンコンと叩いたら、中から「相変わらずムチムチおっぱいの侍女をはべらせてるんだな」なんて言葉が聞こえてきた。

(ムチムチおっぱいの侍女って……)

 間違ってはいないけれど、なんて言い方だ。いつもなら入室許可を待たずにドアを叩いてすぐ部屋に入るんだけれど、ちょっとためらってしまった。

(まさか、スピネル様……じゃあないな)

 どんなときでもスピネル様はそういう言葉は使わない。じゃあ誰だろうと思ってドアをほんの少し開けて隙間からそっと中を覗き見た。

(ん~……? 見たことあるような、ないような……?)

 いつもスピネル様が座っているソファには、遠目で見ても高そうだとわかる服を着た若い男性が座っている。側では相変わらずムチムチの胸をした侍女たちが紅茶の用意をしていた。

(僕もスピネル様付きの侍女には驚いたけど、口に出さないのが普通だよな)

 ソファでくつろいでいる男性は正直者なのか怖いもの知らずなのか、どちらにしても平気でそういうことを口にするのだからツワモノに違いない。一体誰なんだろうとドアの隙間から観察していたら、謎のツワモノ男性と視線が合って驚いた。

「そこに隠れているのは、噂の王宮医殿だろ?」

 噂のってどういう意味だよ。

「かくれんぼなんてしていないで、入ってくればいいのに」
「ひゃっ」

 男性が近づいてくることに気づいたときにはドアががばりと開き、僕の体は転がるように部屋に入ってしまった。そんな僕と謎の男性にお辞儀をした侍女たちが、静かに部屋を出て行く。……どんなときも冷静なのは、さすがスピネル様付きの侍女だよな。

「へぇ、想像してたより小さいんだな」

 転ばないように慌てて態勢を整えた僕を、謎の男性が楽しそうに見ている。っていうか、声が笑っていることはわかっているんだからな。
 思わずキッと見上げたけれど、やっぱり男性はおもしろいものを見るような目で僕を見ていた。

(……どこかで見たような気がするんだけどなぁ)

 まだ笑っている失礼な態度にムッとしながら、じゃあこちらも遠慮なんかしなくていいかと正面からしっかりと顔を見た。
 栗色の髪の毛は普通だけれど、赤みがかった目は少し珍しい。それに華やかな顔立ちはすごく目立つから、どこかで会っていれば忘れないはずなのに思い出せない。

(うーん、患者じゃないってことか……?)

 うーん、……うん?
 なぜかおもしろそうに僕を見ている顔が、一瞬スピネル様に見えた。スピネル様はこんなニヤニヤした顔はしないけれど、どことなく似ている気がする。

(スピネル様の親戚の誰かとか……?)

 だったらきちんと挨拶すべきだろうか、なんて考えていたら、勢いよく開いたドアのほうからスピネル様の声が聞こえてきた。

「また抜け出してきたのか……って、サファイヤ、どうして……。あぁ、そうか、お茶の時間か」
「はい、それで来たんですけど、お客様でしたら僕は……」
「出ていかなくていい。こいつが呼ばれもしないのに勝手に来ているだけだ」

 おっと、食い気味に否定された。やっぱりこの人は親戚なんだろうか。スピネル様が他人をこいつ呼ばわりするなんて初めて聞いた。それだけ親しい間柄ということなんだろう。

「勝手に来ているなんて、つれないことを言うなぁ」
「間違ってはいないだろう」
「何かあればいつでも来ていいと言ったのはスピネルだろ?」
「一体いつの話をしている。それは十五年も前の話だ。そもそも、抜け出すことと何かあるというのは、まったく違……」
「あー、はいはい、わかったわかった。お小言はいいからさ、それより紹介してくれないのか? この小さな王宮医のこと」

 小さいとはなんだ、失礼な。思わずムッとしてしまった。
 そりゃあスピネル様は背が高いし、失礼な目の前の男性も同じくらいの背丈だから見下ろされる形にはなる。しかしそれは二人が大きいからだけで、決して僕が小さいわけじゃない。そう、ちょっと小柄なだけで小さいわけじゃないからな!

「誰が紹介するか」
「えぇー、いじわるだなぁ。ま、紹介してもらわなくても知ってるけど」

 うん? 僕のことを知っている? ということは、王宮医としてどこかで会ったってことか?
 だから見覚えがあったのか……。いや、やっぱり思い出せない。

「直接会うのは初めましてだな、カンターベルの末っ子殿。俺はアンバール、スピネルの甥だ」
「初めまして、サファイヤと申し……、アンバール……? スピネル様の甥……って、あの、アンバール殿下!?」
「うん、そう。よろしく」

 思わず叫んでしまった僕にニヤッと笑った謎の男性、もといアンバール殿下は握手を求めるように右手を差し出してきた。……のだけれど。

「痛っ」
「握手などしなくていい」

 三人分開けた距離からスピネル様がアンバール殿下に何かを投げつけた。

(ちょっと、相手は王子様ですよ、スピネル様!)

 王子様の手に命中したのは指輪だったようで、床に転がった紺碧の宝石がキラッと光った。

  ※ ※

 突然の王子様とのお茶の時間には、さすがの僕も緊張した。そりゃあ僕も王宮医の一人だから王族の方々の診察をすることもあるけれど、親父か大兄の助手としてその場にいるくらいで言葉を交わすことなんてまずない。それがまさか、王子様を前に紅茶を飲む日がくるとは……。

(しかも、渦中の第二夫人のご子息だし)

 アンバール殿下は、第二夫人エスメラード様の二番目のご子息で末の王子だ。たしか社交会に顔見せしたばかりだと聞いていたけれど、十六歳には見えない。王族や貴族は一般的に十六歳で顔見せするはずなんだけれど、どう若く見積もっても十八、十九歳くらいじゃないだろうか。
 そんなことを思いながらチラチラ見ていたら、王子殿下がニコッと笑った。

「そんなに熱い眼差しで見られると応えたくなるなぁ」
「はい……?」
「俺に興味津々なんだろ? 何が知りたい? 手取り足取りじっくり教えてやるよ?」
「アンバール、ふざけるんじゃない」
「いや、至ってマジメだけど? 噂を聞いたときはそこまで興味なかったんだけどさ、実物を見たら気になってきた」

 さっきも噂と言っていたけれど、何か僕に関する噂話でも流れているんだろうか。しばらく城に行っていないからわからないし、ちぃ兄の手紙には何も書いていなかった。

「わたしは真面目に言っているんだ。サファイヤに関わるな」
「へぇ、スピネルがそんな顔をするなんて、珍しい」
「アンバール」
「はいはい、わかってるって。俺はスピネルの機嫌を損ねるために来たわけじゃないしな。この王宮医殿に手を出すことはしません」

(……ええと、これはもしや……)

 そこまで考えて、慌てて頭に浮かんだことを否定した。「もしかして」なんて思ってしまったけれど、僕を巡ってどうこうとか、そんな大それた勘違いをしたりはしない。たとえそう聞こえたとしても、聞こえなかったことにしておくのがいい。
 そもそもサンストーン伯爵家の次期伯爵様と王子殿下が僕を取り合うとか、絶対にない。大兄やちぃ兄相手ならあり得なくはないだろうけれど、この僕が……? いやー、ないない。
 心の中で大きく頭を振った僕は、優雅に紅茶を飲んでいる王子殿下と無表情のスピネル様に視線を戻した。

「なぜ城を抜け出して来たんだ」
「面倒そうな面子がウロウロしてたんだよ。ああいうことは兄上たちに任せておくに限る。だから俺はさっさと退散してきた」
「あぁ、それで朝から騒がしかったのか」
「あー、伯爵も呼ばれてたな。いや、呼んでないけど来たんだっけ?」

 まぁどっちでもいいか、なんてアンバール殿下は言っているけれど、城に、それも第二夫人のところに朝から伯爵様が参上しているというのは結構な出来事のような気がする。もしかしなくても僕が知らないだけで、何か大変なことが起きてるんだろうか?

「ま、いますぐ何か起きるってことはないだろうけどさ。面倒ごとに巻き込まれたくはないんだよな」
「嘘をつくな。小さい頃から一番面倒を起こしていたのはアンバールだろうが」

 笑っている王子殿下に、スピネル様が痛烈な言葉を投げつけている。
 それにしても、いくら甥とは言え王子殿下を相手にスピネル様も結構ズケズケと言うんだな。それだけ仲がいいってことなんだろうけれど、大丈夫なんだろうか。

「心外だなぁ。半分はスピネルも関係してるだろ? それに俺も面倒ごとは嫌いだよ? おもしろそうなことは好きだけど」
「それが面倒に繋がると言っているんだ。もう顔見せも終わったんだ、いつまでも昔と同じだと思うな」

 なんだかスピネル様が王子殿下のお兄さん、いやお父さんみたいに見えてきた。スピネル様は真面目な人だから、甥を心配して口うるさく注意しているだけかもしれないけれど。

「わかってるって。だから他所じゃなくてここに来たんじゃないか」
「……まだ女のところに通っているのか」
「わお、そんなおっかない顔して、美形が怒ると恐ろしいなぁ」
「アンバール」

 おっと、今度は女性問題か? 注目度抜群の王子殿下が女性問題なんて、噂話じゃ済まなくなるぞ。

「あのさ、言いたいことあるなら言えば?」

 ……あれ? 赤みがかった王子殿下の目が僕を見ている。

「俺はたしかに王子様だけど、別に無礼者! とか言って殴ったりはしないぜ? それとも、もしかして無口な人だったりする?」
「いや、それはないな。最初から独り言が多かった」

 あんた、そんなこと思いながら聞いていたんですか! 思わず心に中で突っ込んでしまった。
 スピネル様の言葉に、最初の頃の自分の様子を思い出す。……まぁ、たしかに独り言は多かったかもしれない。でも、それもこれもこの仕事のせいで……いや、そのことはもういいんだ。

「いえ、仲がよろしいんだなぁと思いまして」
「俺が五歳の頃からの付き合いだからな。そこそこの悪さもしてきたし、女遊びだって一緒にした仲だ」
「ふざけるな。おまえの尻拭いをさせられていただけだろうが」

 あ、ついにおまえ呼ばわりになった。いや、初っ端にこいつって呼んでいたからいまさらか。

「え~、そんなことはないだろ? 彼女たちはみんなスピネルに夢中だったじゃないか」
「だから、全部おまえのせいだろうが! 女のところに転がり込んではわたしを呼び出し、挙げ句の果てには女を押しつけて逃げ出す。……思い出すだけでも虫唾が走る」
「あっはっはっ! そうそう、その顔! それが見たくて呼び出してたっけなぁ」

 アンバール殿下はおもしろそうに笑っているけれど、よくこんな顔をしたスピネル様を前に笑っていられるなと感心してしまった。無表情かつ冷たい目をした美貌の次期伯爵様の顔は、ゾッとするくらい恐ろしい気配が漂っている。
 これまで患者からいろんな暴言を吐かれたり、ときに激昂する患者に出会ったこともあったけれど、ここまでの表情は見たことがない。こんなに怒るなんて、余程のことがあったに違いない。

(あ、そうか、その頃はもう潔癖気味だっただろうから……)

 十歳の頃から潔癖気味だったなら、アンバール殿下と過ごしていた頃にはいまと同じくらいの状態になっていたはず。そんなスピネル様に女性を押しつけるなんて、王子殿下が人でなしのように思えた。

(……いや、そもそも殿下はスピネル様の潔癖気味のこと、知っているんだろうか)

 父である伯爵様でさえ潔癖気味のことには気づいていないようで、いまだに“ただの女性嫌いか男性機能の問題”だと思っている節がある。もし王子殿下も似たようなことを思っているのなら、過去の行動がどれだけスピネル様を苦しめたかなんてわからないだろう。
 それとも、そんなことを言い合えるくらい親しい仲だということだろうか。あえて怒らせるような言動をするのは、甥が叔父に甘えていると取れなくもない。
 そんなことを考えていた僕の耳に、王子殿下のとんでもない言葉が入ってきた。

「聡明な美貌の次期伯爵様が、まさか女嫌いなんて誰も思わないだろ? 触られたくないのを必死に隠しながら耐えるスピネルの顔、何度見てもおもしろかったなぁ」

 前言撤回、この王子様はとんでもない性格だ。

「だからおまえが面倒ごとの元凶だと言っているんだ。そのせいで顔見せが遅れたこと、よもや忘れてはいないだろうな」
「え、何かやらかしたんですか? ……あ、」

 しまった、つい口をすべらせてしまった。というか、王子殿下相手に「やらかした」とか、僕のほうこそやらかしてしまっている。これは不敬罪に当たるなと思いながら窺い見たアンバール殿下は、予想に反してニヤニヤ笑っていた。

「へぇ、案外ズバッと言うんだな。こりゃおもしろい。で、俺が何かしたのかって話だっけ? ま、いろいろしてはいたんだけど、最後の侯爵家ご令嬢を袖にしたのがいけなかったんだろうな。あのジジィ、大事な孫娘を傷物にして! とかなんとか叫んでたからな。孫娘のことより、怒りっぽい自分の体を心配しろって話だよなぁ?」

(……なんというか、本当にとんでもない王子様だな)

 そんな感想しか抱けない。……そういえば、何年か前に興奮して倒れた侯爵様の使いの人が我が家にやって来たことがあった。夜中にこれでもかというくらい呼び鈴を鳴らされ、親父が慌てて出て行ったのを覚えている。……まさか、そのときの侯爵様だったりはしないよな……。

「まったく反省していないようだな、アンバール」
「いや、反省してるよ? だからこうして大人しくしてるだろ? それにあれは向こうから接触してきたんだ。何度も声をかけられて、最後はここの侍女みたいなドレス着て無駄にでかい胸を押し付けてきやがった。好みでもない女に擦り寄られても、こっちが困るっていうのになぁ」
「おまえの言いたいこともわかるが、もう少し穏便に対処できなかったのか」
「そんな高等な技、スピネルくらいしかできないって。だからあのとき呼んだんだよ」
「……おかげで、かつてないほどの頭痛に見舞われたがな」

 目頭を抑えているスピネル様を見ていると、どれだけ大変だったのか容易に想像できる。それにしても王族や貴族のそういうことって、噂話以上に壮絶そうだな……。

「それに侯爵のほうにだってやましいことがあったから、苦情くらいで済んだんだろ? どうせ俺を踏み台に兄上たちに擦り寄りたかったんだろうけど、あの程度の女じゃあ兄上たちを満足させるのは無理だって話だ」

 ご愁傷様だな、なんてアンバール殿下が笑っている。それを見たスピネル様が、大きなため息をついた。

(うわー、奥様方が大好きな王侯貴族のドロドロ劇場が目の前で語られてるー……)

 これが大兄の奥さんなら興味津々で飛びつくところなんだろうけれど、僕にはそんな勇気も関心もない。できればそういう大変で面倒そうなことには無縁でいたいのに、たぶん僕はいま、渦中の真ん中あたりに立っている。スピネル様の側にいるということは、きっとそういうことなのだ。

(ファルクにも心配されたけど、僕も自分が心配になってきた)

「いろんな奴らが活発に動き出したみたいだから、また何か起きそうだよなぁ。だから俺は早々に逃げてきたってわけ」

 アンバール殿下は笑っているけれど、僕は「全然笑えないなぁ」とスピネル様と自分の今後のことが少し心配になった。
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