潔癖気味の次期伯爵様はベッドインできない

朏猫(ミカヅキネコ)

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7 心の傷

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 なんだか午後のお茶の時間からスピネル様の様子がおかしい。おかしいというより、少し前に戻ったみたいだ。
 仕事から帰って来たときは、いつもと変わらなかったと思う。ちょうど午後のお茶の時間だったから、ファルクのところで買った焼き菓子を持ってスピネル様の部屋に入った。挨拶のときは普通だったのに、「これが先日話していた幼馴染みのところのお菓子です」と言った瞬間、わずかに眉が寄ったように見えた。
 そこからスピネル様が口をきいてくれなくなった。話しかければ一応反応はあるけれど、なんというか、微妙な空気なのだ。

(おかしいなぁ。店の話をしたときはお菓子に興味津々のようだったし、食べてみたいとも言ってたのに)

 それもあって買いに行ったのに、何が気に障ったのだろう。
 微妙な空気のまま夕食になり、今夜も精力増強料理をたらふく食べた。その後、いつもどおり寝る前の診察をしようとしてはいるのだけれど、どうにもやりづらい。

「スピネル様、脈を測る用意を……」
「わかっている」

 おっと、久しぶりに食い気味に答えが返って来た。
 スピネル様はいま、直接肌に触られる治療を始めている。治療といっても薬があるわけじゃないから、僕が毎日脈を測るために腕に触れ、どのくらい大丈夫か確認するといった方法だ。
 服越しなら腕を掴むことができるようになったのは二日前で、スピネル様のほうから「次は直接肌に触れてほしい」との申し出があった。そこで、肌に直接接触できるか試すことになったのだ。
 ということで昨夜、そして今朝に続いて脈を測るのを兼ねて手首に触れようとしているのだけれど、……まだ機嫌がよくないらしい。一体何に臍を曲げているんだ。

「袖を捲って腕を出してください」
「……」

 いちいち機嫌を気にしていたら何もできない。ということで、僕は強引に進めることにした。それでも触れるときには細心の注意を払い、無理そうならすぐにやめる。そこは医者としてしっかり見極めることに注力する。
 丁寧に消毒した指先を、ゆっくりとスピネル様の手首に近づける。……うん、拳一つ分くらいの距離までなら大丈夫そうだ。問題はここからで、それ以上近づくと……、うーん、今夜も無理そうだな。
 逞しいというほどじゃないけれど、男らしいスピネル様の腕がわずかにブルッと震えたのがわかり、僕はそっと指を遠ざけた。

「今夜はここまでにしましょう。焦らずゆっくり進むのも大事ですからね」
「……」

 まったく、返事くらいしたらどうなんだ。これじゃあまるっきり最初に戻ったみたいじゃないか。本当に何が気に入らないっていうんだよ。

「スピネル様、僕に何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

 今後のことも考えて、原因を探ることにした。

「……そんなものはない」
「嘘ですね。何かあるときにそうやってそっぽを向くの、僕気づいてますからね」

 あ、ますますそっぽを向いてしまった。まったくもう、これじゃあ子どもと変わらない。

(そういや最初の頃は、何度かそんなことを思ったっけ)

 その後スピネル様が態度を改め、僕が抱く印象も変わったからすっかり忘れていた。子どもっぽい様子には困ってしまうけれど、こういうところもスピネル様本来の部分なのかもしれないと思うと感慨深くはある。

「言いたいことがあるなら言ってください。僕はそれで臍を曲げたりはしませんから」

 患者に何か言われることには慣れている。何も言わずに機嫌が悪いままのほうが困るんだ。

「…………菓子店の幼馴染みとは、仲がいいんだな」
「……はい?」

 予想外の言葉が聞こえてきて、思わずぽかんとしてしまった。菓子店の幼馴染みって、ファルクのこと?。

「そりゃあ幼馴染みですからね。勉強ばかりだった兄たちと遊べなかったぶん、いっつも一緒に遊んでましたし、散々いたずらもしました。毎日一緒になって泥まみれで遊んでいたくらいなので、ほとんど兄弟みたいなものですね」
「……」

 今度は難しい顔になった。何か考え込んでいるふうにも見えるけれど、一体なんだっていうんだ。

「なるほど、それでとても親しく見えたのか。笑い合って、……肩がぶつかるほどの距離で話していたようだし」

 うん? 話していたようだし? ……あぁ、そういうことか。

「もしかして昼間、幼馴染みの店に行きました?」

 スピネル様の眉がググッと寄ったということは、行ったんだな。そこで僕とファルクを見たに違いない。でも、それがどうして不機嫌の原因になるんだ?

「…………サファイヤが、あの店の菓子がとてもおいしいと話していただろう? だから、一度食べてみたいと思ったんだ。それで、仕事帰りに立ち寄ろうと考えた」

 そっぽを向きながら、いつもとはまったく違う小声でポソポソと話している。そんなスピネル様を見ていると、本当に子どもみたいだなと思ってしまった。

(こういう様子は、ちょっとかわいく見えるかもなぁ)

 子どもの頃のスピネル様はこんな感じだったのかもしれない。小さくてかわいくて、もしかしたら拗ねたり怒ったり感情表現が豊かだったんじゃないだろうか。
 その頃から美貌は抜きん出ていたに違いないスピネル様の幼少期を想像したら、なんだかすごくかわいいなぁなんて思って胸がきゅんとした。本当は子ども専門の医者になりたかったんだよなぁ、なんてことまで思い出す。

「スピネル様って、意外とかわいいところがありますよね」
「…………は?」
「あ、申し訳ありません。つい心の声が」

 オレンジ色の目を見開いた顔を見て、慌てて謝罪した。最近は独り言も減ったと思っていたのに、うっかり口に出てしまった。

「……かわいいなどと言われたのは、随分と久しぶりだな」

 よかった、笑っている。苦笑にしか見えないけれど、怒っていないようで安心した。

「小さい頃は随分かわいかったんでしょうね。十分想像できます」
「たしかに、よくかわいいと言われたな。どこに行っても褒めそやされ、王妃様にも褒められて有頂天になっていた。……それで、いろいろと勘違いした」

 あれ、なんだか表情が硬くなってきたぞ。

「……あれは十歳になる少し前だったか。甥のペリドル王子、あぁ、甥と言っても王子のほうが七歳年上なんだが、殿下と王城の馬小屋で遊んでいたとき、転んでしまったことがあった」
「それって、もしかして……」
「あぁ、そのとき馬のフンが体のあちこちに付いたんだ。お忍びだったからお付きの人が誰もいなくて、王子自ら侍女たちを呼びに行ってくださったのだが……。残されたわたしは、とにかくどうにかしてほしくて声がするほうに向かったんだ」

 そこで、王城にいる貴族のご令嬢方に遭遇した。
 馬小屋で遊ぶのだからと平民の服を着ていたのが悪かったのか、馬のフンが嫌で見ようとしなかったからか、ご令嬢方はスピネル様だと気づかずに散々なことを口にしたのだと言う。

「子どもだったわたしは女たちの言葉に踊らされ有頂天になり、褒めそやされるのは自分だからだと思い込んでいた。それがどうだ、馬のフンが付いただけで誰もが眉をひそめ罵倒さえした。香水をたっぷりつけた扇を投げつけられもした」
「それで女性や香水が苦手になったんですね……」
「それもあるが、翌日たまたま同じ女たちに遭遇して……彼女らはいつもと同じようにわたしを褒めそやし、媚びへつらった。それがたまらなく気持ち悪かったんだ」

 また眉を寄せたということは、当時のことを思い出しているのだろう。
 ご令嬢方にとっては、馬のフンが付いた子どもがスピネル様だと気づかなかっただけかもしれない。しかし、十歳の子どもには随分と酷な経験だったに違いない。それで女性が苦手になったとしてもスピネル様のせいじゃない。

「しかし、いまではよい経験をしたと思っている。人を上辺だけで見ていると痛い目にあうのだと、あのとき理解できたのだからな。それに相手をよく観察するようにもなった。おかげで貴族社会で生きていくのに役に立っている」
「それはよかったと思いますが、……あの、あまり無理はしないでください」
「どういうことだ?」
「そういう心の傷を話すのは、とても勇気のいることだと思います。それで傷が深くなってしまっては、ますますスピネル様がつらくなってしまいます」

 原因を知ることはできたけれど、そのせいでスピネル様の症状が悪くなってはどうしようもない。そう心配する僕に、スピネル様がフッと笑った。

「やはりサファイヤは十年前と変わらないな」
「十年前って、子どもを治療していたっていう、あのときの僕ですか?」
「あぁ。あのとき、こういう人に助けてもらっていたら、もう少し違う自分になったかもしれないと、ふと思ったんだ」
「いまのスピネル様だって、十分素敵だと思いますよ?」
「……サファイヤが言うと、本当にそう思っているように聞こえるから不思議だ」
「嫌だな、僕、そういうことでお世辞なんて言いません。そりゃあスピネル様は多少面倒くさいところがありますけど、それを差し引いても……あ、いやぁ、あはは」

 うわぁ、今日は口がすべりまくりだ。これはきっと、昼間にファルクとたくさんしゃべったからに違いない。あいつが相手だと、つい口が滑らかになってしまうんだ。
 うん、ファルクが悪い。全部あいつのせいにしておこう。そう思いながら「申し訳ありません」と頭を下げる。

「気にしなくていい。サファイヤの素直なところも好ましいと思っている」
「あはは、ありがとうございます」

 昼間にファルクに言われたようなことをスピネル様にも言われてしまった。ということは、僕は自分が思っている以上に感情が表に出やすいということだ。……いろいろ気をつけなければ。

「あの幼馴染みとは、本当に何でもないのだな?」
「ファルクのことですか? 何でもないというか、ただの幼馴染みですよ?」
「そうか。……接触できるようになれば、あんなふうに肩を寄せ合うことも、肌に触れることもできるのだな」

 どうしてファルクのことをそんなに気にしているのかわからないけれど、どうやら幼馴染みの距離感というものがお気に召したらしい。
 うんうん、望みを多く持つのはいいことだ。それだけ前向きになれるし、望みが叶うたびに達成感も味わえて次の一歩への活力にもなる。

「いつか肩を寄せ合って話せるようになるといいですね」

 貴族でも、そういう仲のいい人がいるほうがいいに決まっている。いつかスピネル様にもそういう友人ができるといいなぁと思っていた僕を、スピネル様は少し笑いながら見ていた。

「そうだな、できればそれ以上の触れ合いもしたいものだ」

 んん? それ以上って、まさか僕がファルクの頬をつねったようなこともしてみたいってことか?
 さすがにそれはどうかなぁと思いはしたものの、野暮なことは言わないほうがいいだろうと思って僕も笑い返すだけにしておいた。
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