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2 魔王、観察に勤しむ

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「……なんだよ、そのふざけた格好は」

 いつもなら扉を開けてすぐに飛びかかってくる勇者が怪訝そうな顔で立ち止まった。その表情は初めて見るが悪くない。やはり細部までしっかり見えるほうが観察しがいがある。

「ん? これか? これは眼鏡と言って……」
「ンなことは知ってる! 違ぇよ! メガネなんかかけやがって、俺をバカにしてんのか!?」
「いや、より細かく観察しようと思っただけだ。何を隠そうわたしは少々近眼で、これまでは細かな部分がはっきり見えていなかったんだ」
「ハァ!? やっぱりバカにしてんじゃねぇか! 何が観察だ、ンな余裕ぶっこいてんじゃねぇよッ!」
「いや、だから余裕ではなく観察を……」
「うるせぇ! ふざけんなッ!」

 怒鳴りながら勇者が聖剣を勢いよく振り上げた。昨日までとは違い最初から聖剣全体が青白く光っている。もしかして勇者の感情に聖剣が反応しているのだろうか。気のせいでなければ碧い瞳が潤んでいるように見える。

(先々代魔王が書き記したとおりだ)

 恋をしている人間は意中の相手を前にすると瞳が潤むことがあるらしいが、いまの勇者そのものではないか。いままでもこうした瞳をしていたのかと思うと見逃してしまったことが悔やまれる。

(ほう、紺碧の布に細かな刺繍が入っているな)

 鎧の端から見える服の模様をはっきり見たのも初めてだ。そういえば初めて現れたときは白い服に白銀の鎧、それに真っ白なマントを身につけていたことを思い出す。

(眼鏡をしていればしっかり観察できたのにな)

 もったいないことをしてきた。できればもう一度あの恰好を見せてほしいところだが、頼んだところで「うるせぇ!」と拒絶されてしまうのだろう。

「おっと」

 聖剣の鋭い切っ先が鼻先をかすめた。避けたあとには残像のように軌道が光っている。なるほど、昨日までとは聖剣の様子も少し違うようだ。
 これは気をつけたほうがよさそうだ。もうしばらく近くで観察したかったが、少しだけ距離を取る。

(観察のためとはいえ、怪我をするのは困るからな)

 そもそも痛いのは好きではないし、傷を再生するために魔力を消費することになる。聖剣につけられた傷なら時間もかかるだろう。

(それでは観察に集中できなくなってしまう)

 せっかくの貴重な機会を無駄にするわけにはいかなかった。

「チッ! 舐めやがって、いつもの防御壁はどうした!」
「あれでは囲う範囲が広すぎて観察ができない。今日からは体をぴたりと覆う“壁”にした。これならずっと間近で観察することができるからな」

 以前の“壁”よりも防御力は劣るが、わたしの体に沿って“壁”を創っているからギリギリまで勇者に近づくことができる。さらに眼鏡をかければ、これまで気づかなかった細部まで見ることができるだろう。
 そう思いながら改めて勇者を見た。胴や腕、足を覆っている鎧の模様や、その下から少し見える服の色まではっきりわかる。

(勇者は手が大きいのだな)

 聖剣を握る手は、広げればわたしよりも大きそうだ。それに腕もがっしりしている。鎧に覆われているからはっきりとはわからないものの胸も分厚そうだ。ちらりと見える首もしっかりしているから筋肉質なのかもしれない。

(わたしの首など簡単にへし折ってしまいそうだな)

 肉体を使うことがほとんどないわたしは全体的に細い。背は勇者とあまり変わらないが、体の厚みなど半分くらいしかないだろう。

(ああいう体は触れても硬いのだろうか)

 筋肉質な魔族に会ったことがないため、どんな感触か想像できない。可能なら触り心地も確かめたいところだが、さすがにそれは難しいか。

「いや、もう少し近づけば可能か……?」

 わたしのつぶやきに勇者が声を荒げた。

「クソがッ! 舐めてんのか!?」
「いや、舐めているのではなく観察を……」
「うるせぇッ!」

 怒鳴り声とともに魔力が膨れ上がるのを感じた。魔力を色として関知できるわたしの目には、燃えさかるような赤い魔力が勇者の体から立ち上っているのが見える。やはり勇者だけあって魔族に劣らない量だ。

(これだけの魔力を持っているというのに、なぜ魔法を使わないのだろう)

 これまで目にしたのは魔法具を使った帰還魔法だけだ。もしかして勇者は魔法をうまく使えないのだろうか。魔力の質は良いようだし、使い方さえ学べば賢者や魔道士に劣らないはずだ。

「もったいない」
「ハァッ!?」
「それだけの魔力なら、ある程度の魔法を使いこな……」
「うるせぇ! 舐めんな! 魔法が使えなくたって、おまえなんか俺が……ッ!」

 顔をわずかに赤くした勇者が勢いよく突っ込んできた。

(もしかして魔法が使えないのが恥ずかしいのか?)

 人間にはそうした自尊心が備わっていると書物に書かれていたが、どうやら本当だったらしい。“それを時々へし折って組み敷くのがいい”とは先々代魔王の記述だが、その意味はよくわからないままだ。

(なるほど、こういうふうに赤くなるのか)

 恥ずかしいときに人間は肌を赤くするという記述もどうやら本当らしい。やはり観察は細部までできるほうがいい。

(勇者に感謝しなくてはな)

 勇者がわたしに恋をしてくれたおかげで、こんな貴重な観察ができるのだ。できれば満足するまで観察したいところだが、いつまでこの状況が続くかわからない。だからこそ時間を惜しんで観察しなくてはと気合いが入る。

(あぁ、肌がますます赤らんできた)

 聖剣を振り回している勇者の顔が赤く色づいていく。日焼けした肌は色の変化がわかりづらいが、一度気づけば案外気づくものだ。
 そんな肌に汗で貼りつく金の髪もすばらしい。時々額を拭う仕草も悪くない。それにも増してギラギラとわたしを見つめる碧眼の輝きは、書物にあった“恋をしている瞳”そのものでますます目を引かれる。

(これが無我夢中というやつなのだな)

 魔族同士では見ることがない現象ばかりだ。そもそも魔族が恋をするのか知らないし、魔族を見て無我夢中になったり興奮したりといったこともなかった。
 好戦的な魔族は別として、大抵の魔族は互いの魔力を先に推し量って敵対するかを決める。おかげで無用な争いが起こることはない。ところが人間はそうではないらしい。

(やはり観察するのが一番だ)

 剣先をすれすれで避ければ、飛び退いた勇者がギロッと睨みつけてきた。

「クソッ、こんなに近づいてるのに一撃も当たらねぇとか、ふざけてるだろッ!」
「いや、真面目にしっかり観察させてもらっている」
「だから、それがふざけてるって言ってんだよッ! 何が観察だ!」
「ふざけてなどいないぞ? この距離だからこそ勇者のまつ毛が髪と同じ金色だということにも気づける。鼻筋は通っているし、唇は適度に厚みがあって人間らしい色合いをしていることもわかった。碧眼にわずかに緑色が混じっていることもわかったが、湖面のようで美しいな」
「……ッ!」

 なぜか勇者が慌てたように左手で口元を隠した。そのままさらに後ろへと飛び退き睨みつけてくる。そこまで距離が離れてしまってはさすがに細かな観察は難しい。できれば先ほどくらいの距離感がいいのだが、また突っ込んできてくれないだろうか。
 そう思って見つめていると「ふ、ふ、ふざけやがって!」と叫んだ勇者が煙のように消えてしまった。

(まだお茶の時間すら来ていないぞ?)

 せっかくギリギリまで観察しようと考えていたのに残念だ。

(それにしても珍しいな)

 いままでこんなに早く帰ることは一度もなかった。それに帰り際の様子もいつもと違っていた。あれほど目元を赤くしていたということは、もしや体調に問題があったのだろうか。
 それなら早く帰還してもおかしくはない。しかし体調が悪いのなら明日はやって来ないかもしれないということで、それは少し困る。

(やはり途中で休憩を挟むべきだ)

 だが、わたしが用意した茶菓子や紅茶には見向きもしないだろう。これは困った。困ったときは書物で調べるに限る。

(よし、今夜はじっくりと先々代の記した書物を読むことにしよう)

 ところどころ理解できない文章もあるが、いまのところ役に立つことのほうが多い。もしかすると人間の体調を詳しく記しているかもしれない。その前に今日の出来事を記しておかなければ。
 いそいそと大広間を後にしたわたしは、昨日と打って変わって夜更けまで書物に目を通すことにした。

  ・ ・

「クソッ! なんでこんなふざけたヤツの防御壁が破れねぇんだよッ!」

 ふざけたことなど一度もないのに、また同じことを言われてしまった。
 詳細な観察を始めてからというもの、勇者は毎日のように「ふざけるな」と口にする。そんなことを言いながらも熱い視線をわたしに向け、日々熱烈にぶつかってくるのだから健気としか言いようがない。できれば魔獣ペットとして毎日愛でたいくらいだ。

(いや、人間に対して魔獣ペットというのはよくない言葉だったな)

 人間は魔獣ペットと言われることを不快に感じるのだそうだ。では、何と表現するのがいいだろうか。下僕、奴隷、生贄……いずれもわたしが感じているものとは違う。やはり魔獣ペットが一番近いのだが、それ以外の言葉が思いつかない。

(そばに置いて愛でたいだけなのだが)

 勇者に尋ねれば済む話かもしれないが、問えばまた「ふざけるな」と言うのだろう。

「クソッ! 聖剣を鍛え直したってのに一緒じゃねぇかよ!」

 そう言いながら振り下ろした聖剣がわたしの右腕の“壁”に当たった。触れた部分の“壁”が雷のような音を立て、聖剣のほうも赤く光っている。

「なるほど、鍛え直したのか」

 四日前から“壁”にぶつかる部分だけが光るようになったことには気づいていた。てっきり勇者の感情が昂ぶっているからだと思っていたのだが、変わったのはどうやら聖剣のほうだったらしい。

(とは言え、聖剣を強化しているのは勇者の魔力なのだろうが)

 眼鏡を外し聖剣に絡む魔力を視る。勇者の赤い魔力がするすると聖剣に吸われているのが視えた。なるほど、勇者の魔力を効率よく聖剣に与えるために何らかの処理をしたのだろう。そうして蓄えられた魔力がわたしの“壁”とぶつかることで弾けるのだ。

(そのことを勇者は知っているのだろうか?)

 わたしのように魔力を無尽蔵に生み出せる体なら問題ないだろうが、人間である勇者はそうはいかないはずだ。いくら魔力量が多いといっても限界がある。それでも聖剣が吸い続けるとなると、どこかで魔力が尽きてもおかしくない。
 眼鏡をかけて勇者を見る。一瞬怯むような表情をしたが、とくに疲労困憊といった様子はないようだ。少し安心したものの、いまはまだ大丈夫なだけかもしれないと思い直す。

(人間は魔力で生きているわけではないだろうが、それでも魔力が尽きるのはよくないのではないか?)

 やはり人間というのはよくわからない。まるで勇者を使い捨ての駒のように扱う理由が理解できなかった。

(……それは少し不愉快だな)

 それに大いに困る。せっかく間近で観察できるようになったというのに、ここで勇者が来なくなっては知りたいことが謎のままになってしまう。
 わたしはまだまだ勇者を観察したいし恋というものも知りたい。それにもっといろんな表情を見てみたいという欲も出てきた。

(そうだ、ここでやめるわけにはいかない)

 何より、わたしを必死に見つめる瞳をもっと見たい。

「クソッ、何なんだよッ!」

 そう、その目だ。ギラギラとした碧眼は、これまで見たどんな宝石よりも美しい。これが恋をする人間の瞳かと思うとさらに目が離せなくなった。可能なら日の光に当たった瞳も見てみたい。しかし窓のないこの大広間では見ることは叶わない。

(いっそのこと天井をなくすか?)

 それなら思う存分、日の光を浴びることができる。瞳だけでなく金の髪も輝いて見えることだろう。

「光り輝く勇者の瞳は、さぞや美しいのだろうな」
「……ッ!」

 思わず漏れ出た言葉に勇者が二歩飛び退いた。どうしたのだろうかと首を傾げると、勇者の目元が赤くなっている。

(興味深い表情だな)

 よく見れば頬も赤らんでいるようで、金の髪からのぞく耳は明らかに真っ赤だ。

「ふむ、そういう表情もなかなか愛らしい」
「……ッ」

 さらに勇者が飛び退いてしまった。あぁ、そこまで離れてしまうと頬の赤らみすら見えなくなってしまう。

(かといって、わたしが近づけばまた飛び退くのだろうし)

 仕方ない、全体的な観察に切り替えよう。そう思い、改めて勇者の顔をじっくりと見ることにした。
 大きめの碧眼にスッと伸びた鼻筋、それに肉感的な唇の形や色をしている。なるほど、目尻が少し下がり気味だから愛らしく見えるのかもしれない。金の髪や金の睫毛も魔族ではあまり見かけない色だ。

(わたしの青白い肌や漆黒の髪、紫眼とはまったく違っていて興味深い部分ばかりだな)

「そういった部分も含めて愛らしく見えるのか」
「ふ、ふざけやがって……ッ!」

 私の言葉に重なるように勇者の怒鳴り声が響いた。同時に大きな魔力が勢いよく近づいてくる。ハッとしたときには聖剣の切っ先はすぐ目の前で、咄嗟に右手で顔を庇った。

「……さすがに痛いな」

 切っ先が触れた手の甲に鋭い痛みを感じた。指先まで“壁”で覆われていたはずだが強度が足りなかったらしい。
 手の甲を見ると、親指側の手首から小指の根元にかけてざっくりと切れていた。小指側の傷のほうが深いようで、小指が外側に少し垂れ下がっている。そんな状態なのに流れ出た血の量は少ない。

「すばらしい斬れ味だ」

 だから傷の割に血が流れていないのだろう。左手で小指を元の位置に戻すと、すぐに根元が再生し始めた。切り口が綺麗なおかげですぐに治りそうだ。

「さすがは聖剣だな」

 これは貴重な体験をした。そう思いながら再び距離を取っている勇者に視線を向けると、何とも不思議な表情でわたしを見ていた。

(これはどういった表情だ?)

 困惑、衝撃……いや、放心だろうか。とにかく見たことがない表情でわたしの右手を食い入るように見つめている。

(いや、見ているのは手首……袖口か?)

 手元を見ると、斬られたときに流れた血が袖の色を濃くしていた。といっても元々濃い灰色の服だから目立つわけでもない。それなのに勇者の目はじっと袖口を見ている。

「どうかしたのか?」

 声をかければ、体をビクッと震わせてわたしの顔を見た。そんなに目を見開いてどうしたというのだろう。直後、眉を寄せた険しい表情に変わる。

「その表情も初めて見るな」
「……ッ!」

 ハッとしたような顔をした勇者は、そのまま何も言うことなく煙のように消えてしまった。まだ夕暮れまで時間があるというのにだ。

(あれも恋に関係した表情なのだろうか)

 先々代魔王の書物にいまのような表情は記されていなかった。

(何だか胸がざわりとするような表情だったな)

 あまりよい表情には感じられなかったが、興味深くはある。できればあと数回じっくりと観察したいところだが、明日も同じような表情を浮かべてくれるだろうか。

(……そうか、わたしが傷を負ったのは今回が初めてか)

 だからあんな顔をしたのかもしれない。ということは、またどこかしらに傷を負えば似たような表情が見られるかもしれないということだ。それなら方法はいくらでもある。
 新しい勇者の表情が見られるかもしれないと考えるだけでゾクゾクした。ここまで知りたいという欲を刺激されたのは初めてだ。

(よし、明日からは傷を負うように心がけよう)

 痛いのは好きではないが、書物にも書かれていない表情を見るためなら我慢もできる。それに今回の傷で“壁”の加減もわかった。うまくすれば痛みも少なくて済むだろう。

(明日が楽しみだ)

 その前に今日のことを記しておかなくては。
 いそいそと書庫に向かったわたしは、興奮冷めやらぬ気持ちのまま勇者の様子を細かく書き記した。いつもは二、三行で終わるところが、気がつけば一ページも書いてしまっている。

(明日は一ページでは足りないかもしれないな)

 期待で胸を膨らませながら書物を閉じ、表紙をひと撫でした。
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