好きになること

朏猫(ミカヅキネコ)

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5 指とピアノ

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 正直、怪我をしたときはそこまで大変なことになったとは思っていなかった。出血はそれなりだったものの痛みはすぐに引き、夜には怪我をしていたことを忘れるくらいだった。念のため入浴前に防水テープでグルグル巻きにしたからかシャワーも平気だった。

(それなのに弾こうとするときだけ痛いってどういうことさ)

 放課後、千尋はいつもどおり第二音楽室でピアノを弾こうとしていた。ところが鍵盤に触れると左手中指だけが少し痛い。気のせいかと思ったものの、何度か音を鳴らすとジンとした痛みを感じて指を止めた。

(急に痛くなるなんて……まさか、くっついてた傷が開いたとか……)

 想像するだけで痛くなってきた。包帯でグルグル巻きにされた中指を見ながらため息をつく。

(慎司にばれたらきっと怒るだろうなぁ)

 今朝、登校したときに傷を覆っていたのは絆創膏だ。それを見た慎司に「おい」と言われ、「ちょっと来い」と保健室に連行されてしまった。

「どうして絆創膏なんだよ」
「え? だって昨日、絆創膏だったから」
「あれは応急処置だ。放課後だから家に帰って包帯巻けばいいって……俺が言ったこと、やらなかっただろ?」
「家に包帯なんてないし……あ! でもシャワーは防水用テープ巻いてたから大丈夫だよ」
「包帯はないのになんで防水用テープはあるんだよ」
「昔使った残りじゃないかな」

 千尋の返事に慎司が口を閉じる。

「ないなら言えよ」

 いつもより低い慎司の声に「ごめん」と答えながら椅子に座った。「絆創膏もずれてる」と言いながら絆創膏を取り、代わりにガーゼを当てられ新品の包帯をグルグル巻かれる。「勝手に使っていいのかな」とつぶやく千尋に「あとで先生には言っとく」と少し怒ったような慎司の声が返ってきた。

(あのとき見た傷口、くっついてたように見えたんだけどなぁ)

 だからピアノも平気だと思っていた。「どうしようかな」と考えつつ、ポケットから空色のハンカチを取り出す。

(結局返しそびれたや)

 神崎から借りたハンカチは綺麗に洗濯してアイロンもバッチリかけてある。それなのに返しそびれてしまった。何度か声をかけるチャンスはあったものの、そのたびに誰かが神崎に声をかけ千尋の声はかき消されてしまった。

(明日こそ返さないと)

 そしてお礼を言わなくては。顔を見ながらお礼を言う……想像しただけで千尋の胸がとくんと音を立てる。

「ただのお礼だってば」

 誰に言い訳するでもないのに、つい小声でそんなことを口にしていた。それがかえって千尋の鼓動を速くし、気持ちがそわそわして落ち着かなくなる。

(ちょっとくらい弾いても大丈夫だよね)

 落ち着かないときはピアノを弾けばいい。ピアノを弾いているときはピアノの音しか聞こえないから落ち着ける。
 鍵盤に指を載せ、頭に浮かんだ曲を奏で始めた。念のためと右手だけで弾き始めたのはキラキラ光る星の曲だが、右手だけだとどうしても物足りなくなる。我慢できなくなった千尋は「ちょっとだけ」と言い訳しながら左手を鍵盤に載せた。
 キラキラが輝きを増すように音色が増えていく変奏曲は、怪我をした左指ではうまく瞬かせることができない。あちこち歪んで尖った星がぶつかり合うような旋律になってしまったが、いまの千尋にはそれが妙に心地よかった。

「いたっ」

 ズキンと走った痛みに慌てて指を見た。真っ白な包帯に少しだけ血が滲んでいる。「あー……」と眉をひそめていると、段々とズキズキした痛みが強くなってきた。

(やってしまった)

 鍵盤に血がついていないのを確認した千尋は、蓋を閉じると足早に教室を出た。保健室に行って新しい包帯に交換するか、それとも家に帰ってから慎司にメッセージを送ったほうがいいだろうか。そんなことを考えながら階段を下りていると階下から話し声が聞こえてきた。踊り場で立ち止まり、手すりから少しだけ顔を出し下を覗く。見えたのは神崎の頭と髪の長い女子だった。
 千尋に立ち聞きをする趣味はない。でも、いま下りていけば間違いなく二人に見つかってしまうだろう。そう考えるとしばらくここにいたほうがいいような気がする。どうしようか悩む千尋の耳に、少し興奮したような女子の声が聞こえてきた。

「でも神崎くん、いま付き合ってる人いないんでしょ?」
「うん、いないよ」
「それじゃ……」
「それでも付き合うのは難しいかな」

 最悪のシーンに出くわしてしまった。千尋は息を殺しながら覗いていた頭を引っ込めた。しばらく二人は何かを話していたものの、女子の「そっか、やっぱダメか」と諦めたような声が聞こえてくる。

「しつこくしてごめん」
「ううん、俺のほうこそごめんね」

 答える神崎の声は優しい。声しか聞こえなくても微笑んでいることは想像できた。千尋は神崎が女子と揉めたという話を聞かない理由がわかったような気がした。

(こんな優しく言われたら、振られても嫌いになれないだろうなぁ)

 しばらくするとパタパタと走って行くような足音が聞こえてきた。それを聞きながら「そういえば神崎は恋人、作らないって話だったけ」という噂を思い出す。どうやら噂は本当だったらしい。「まぁ、僕には関係ないけど」と思いながら手すりの隙間から下を見た。そこに神崎と女子の姿はない。きっと二人とも帰ったんだろう。そう判断した千尋は、それでもゆっくりと階段を下りた。

(告白かぁ)

 千尋は誰かに告白したこともされたこともない。それでも告白の先に待っているものの想像はつく。

(好きだから告白して、うまくいけば両思いになって、そうして恋人になって……でも、その先が幸せかなんて本人たちにもわからない)

 もしかしたら別れることになるかもしれない。そのままつき合い続けて結婚するかもしれない。どちらにしても千尋には幸せだとは思えなかった。

「……帰ろう」

 嫌な気持ちから逃げ出すように急ぎ足で階段を下りる。そうして中庭を通り抜けようと廊下に出たところでぴたりと足を止めた。

「あ、」

 廊下にはまだ神崎がいた。告白を立ち聞きしてしまった千尋は一瞬うろたえた。慌てて立ち去ろうとしたものの、ハンカチのことを思い出して足を止める。

「あの」

 おそるおそる声をかけると、ヘーゼルの瞳が千尋を見た。それだけで胸がとくんと鳴るのを感じながら、「あの、ハンカチありがとう」と言ってポケットから空色のハンカチを取り出す。

「……あぁ、昨日の」
「あの、ちゃんと洗濯してあるから。それと、血はついてなかったから」

 早口でそう告げる千尋に「それは別にいいけど」と言いながら受け取った神崎が、「それより大丈夫?」と口にした。

「え?」
「血、また出てるっぽいけど」

 神崎の視線がハンカチを持っていた左手を見ている。千尋も視線を向けると包帯に滲む血の量が増えていた。

「あっ、ええと、大丈夫」
「大丈夫じゃないと思うんだけど」
「でも、そんなに痛くないから……」
「保健室に行くんだよね?」

 そう言った神崎がスタスタと歩き出した。

(……もしかして一緒に保健室に行くってこと?)

 そのまま廊下の突き当たりを曲がれば保健室までの近道になる。もし教室に帰るなら中庭のほうに行くだろうし、昇降口も同じ方向だ。神崎は中庭には行かずまっすぐ進んでいた。

(どうしよう)

 千尋は視線をうろうろさせた。このまま帰るからと言ったほうがいいだろうか。立ち尽くしていると「保健室、行かないの?」と神崎が振り返る。

「い、行く」

 千尋はそう答えるしかなかった。

 到着した保健室には誰もいなかった。不用心だなと思いつつ、神崎の後をついて千尋も中に入る。

「俺でよければ交換するけど」
「え?」
「新しいのに交換するくらいは俺でもできるよ」
「でも……うん、お願いします」

 ここまでついて来てくれたのに申し出を断るのも変だ。そう思い、椅子に座って大人しく指を差し出した。
 血の滲んだ包帯を取るとガーゼにはしっかりと血が滲んでいる。結局ガーゼも交換することになり、新しい包帯を巻くところまですべて神崎がしてくれた。それを千尋はただ黙って見つめる。

「病院に行ったほうがよくない?」
「それは大丈夫……だと思う。さっきまで痛くなかったし、たぶん無理しなければ平気」
「なんか無理して傷口が開いたわけ?」
「あ、いや、ちょっと、ぶつかったり、して」

 ピアノを弾いていて、とは言えなかった。怪我をしているのに間抜けだと思われたくなくて咄嗟に嘘をつく。

「あの、ありがとう」
「どういたしまして」

 左手中指の真っ白な包帯が眩しい。そんなことを思いながら千尋はもう一度「ありがとう」と言って頭を下げた。
 保健室を出ると、そのまま連れ立って廊下を歩いた。千尋にそうするつもりはなかったが、教室も昇降口も同じ方向だから仕方がない。ただ並んで歩いているだけなのに妙に緊張してしまい言葉が何も出てこなかった。代わりに何度もチラチラと神崎の横顔を見る。

(やっぱりかっこいいなぁ)

 かっこいいだけじゃなく優しい。これじゃあ学年関係なく、性別も関係なく人気者になるのは当然だ。そんなことを考えている間に昇降口が近づいた。慌てて「あの、帰るから」と言って千尋が立ち止まった。

「ほんと、ありがとう」

 改めてそう言うと、神崎は「ん」とだけ答えて右手をひらりと振った。そのまま教室があるほうへと歩いて行く。

(手を振っただけなのに、なんであんなにかっこいいんだろう)

 見惚れていることに気づき、慌てて視線を逸らした。靴に履き替え左手でカバンを持とうとしたところで真新しい包帯が目に入り、右手に持ち替える。

「あのさ」
「え?」

 声がしたほうを見ると、なぜか立ち去ったはずの神崎が立っていた。

「名前、なんだっけ?」
「え?」

 一瞬何を言われたのかわからず目をぱちくりとさせた。すると「だから名前」と再度聞かれて慌てて口を開く。

「秋山、だけど」
「違う違う、下の名前」
「ち、千尋、だけど」
「あー、そうだった。原田がいつもそう呼んでたっけ」

 どうして下の名前なんて聞くんだろう。不思議に思いながら神崎を見ていると、さっきと同じように右手を軽く上げる。

「じゃ、また明日ね、ちひろ」
「え……?」

 神崎の背中を見送りながら、千尋は「え?」と何度も疑問符を頭上に浮かべた。

(なんで、僕の名前……)

 どうして神崎は「千尋」と呼んだんだろう。言葉を交わしたのは体育のとき以来で、ハンカチを返したときの反応から神崎が自分を認識していなかったに違いないとわかった。包帯に血が滲んでいなかったら、あのまま廊下で別れて話すこともなかっただろう。
 頭の中で「千尋」と呼んだ神崎の声がグルグルと回る。同じくらい気持ちもグルグルと回っていた。
 呆然としたまま神崎が去った廊下を見つめる。そんな千尋の背後で、少し強い春風がびゅうっと吹いた。
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