身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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姉の許嫁だった人2

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 僕は姉の代わりに押しつけられたβで、珠守たまもり家にとって何の役にも立たない。本当は厄介だと思っているんじゃないかと気になって仕方がなかった。
 そう思っていても、修一朗さんに訊ねることはできない。「どうしてよくしてくれるのか」なんて訊ねたら気分を悪くしてしまうに違いないからだ。

(……違う。本当は修一朗さんの本心を聞くのが怖いんだ)

 もし姉の代わりだとはっきり言われたら、僕は傲慢にも傷ついてしまうだろう。それなら曖昧なままのほうがいい。そうして心の中で密かに修一朗さんを想い続けていたかった。

「千香彦くん、大丈夫かい?」
「……え?」
「さっきからじっと何かを考えているようだけど、どうしたのかと思って」
「あ……いえ、何でもないです」
「もし困ったことがあったら何でも相談してほしい。ここは千香彦くんの家でもあるんだから、遠慮しないで」
「……ありがとうございます」

 やっぱり修一朗さんは優しい人だ。優しすぎて胸が苦しくなる。
 こんな立派な屋敷が僕の家だなんて、そんな大それたことを思ったりはしない。勘違いしてはいけないとわかっているのに、修一朗さんの言葉が嬉しくて涙が出そうになった。

(やっぱり姉さんが好きになる人なだけある)

 こんな素敵な人を好きになった姉は、きっと幸せだったに違いない。許嫁になり、どれだけ幸福だったことだろう。
 不意に姉と修一朗さんが微笑み会っている姿が蘇り、姉をしのぶのと同時に胸が苦しくなった。用意してもらったココアはとても甘いのに、飲むたびに胸の奥に苦いものが広がっていく。

「千香彦くん、本当に大丈夫かい? 少し顔色が悪いように見えるけど」
「大丈夫です。あの、ココアありがとうございました。部屋に戻ります」
「千香彦くん、」

 席を立った僕は、ぺこりと頭を下げて急いで部屋を出た。そうでもしないと、きっと僕はいま変な顔をしているはず。

(僕は姉さんの身代わりで、ただのβの男だ。αに想いを寄せるなんてやっぱり間違ってる)

 部屋へ帰る道すがらそう思った。そう考えなければますます苦しくなりそうだった。

(近くにいるのに密かに想い続けるなんて、やっぱり僕にはできない)

 こんなに苦しくなるのなら、きちんと気持ちを整理して諦めたほうがいい。自分に言い聞かせるように何度もそう思いながら廊下を歩く。
 そうして廊下を曲がろうとしたとき、僕の部屋の前にお手伝いさんが二人立っていることに気がついた。きっと掃除に来たのだろう。籠に布がたっぷり入っているということは終わったところかもしれない。
 こんなによくしてもらっているのだから、僕はこれ以上欲を掻いてはいけない。ため息をついたところで、お手伝いさんの話し声が耳に入ってきた。

都留原つるはらのご隠居様が、またいらっしゃったそうよ。しかも朝早くに」
「まぁ、依子よりこ様とのご縁談の件で?」
「そうじゃないかって話よ」
「それで修一朗様は朝から不機嫌でいらっしゃったのね」

 歩き出そうとしていた足が止まった。「都留原つるはら」という名前と「ご縁談」の言葉に「あぁ、そうだったんだ」と悟った。
 都留原つるはらとは、おそらく皇室に連なる華族、都留原つるはら家のことに違いない。姉の婚約のとき、父が「都留原つるはらが横やりを入れてきた」と憤慨していたのを思い出す。
 大陸との戦争前、寳月ほうづき家と都留原つるはら家は同格の華族だった。ところが戦後、事業で深い傷を負った寳月ほうづき家は没落の一途を辿り、皇族と縁者になった都留原つるはら家は揺るぐことのない名家となった。爵位を失ってしまった寳月ほうづき家とは格が違いすぎる。
 姉が亡くなったと聞き、そんな都留原つるはら家が修一朗さんに新しい許嫁の話を持ちかけてもおかしくない。たしか都留原つるはら家には僕と同じくらいの年のΩがいたはずだから、そのご令嬢との婚約話が進んでいるのだろう。

珠守たまもり家と繋がりを持ちたいのは寳月ほうづき家だけじゃない。多くの華族が親類縁者になりたがっているから当たり前のことだ)

 いまの時代、家名や血筋だけでは立ち行かない。そこに財力があってこそ家柄を保つことができる。だから父はβの僕を修一朗さんに押しつけたのだし、ほかの華族が大きな財力を持つ珠守たまもり家にΩや娘を嫁がせたがるのは当然だ。
 お手伝いさんたちが去ったのを確認してから、そっと部屋に入った。いつものように整えられた部屋が急に余所余所しく感じられた。ついさっきまで「自分の家だなんて考えては駄目だ」と思ったけれど、馴染んできていた部屋の空気まで知らないもののように思えてくる。

(姉さんの代わりに来た僕は、一体何なんだろうな)

 父から話を聞かされたときにも考えた。父は姉の代わりだと言っていたけれど、どう考えても許嫁の身代わりにはなれない。珠守たまもり家が寳月ほうづきの家名をほしがったとも思えない。いまの寳月ほうづきより都留原つるはら家のほうがよほど箔がつく。
 それなのに、修一朗さんは僕を引き受けた。毎日部屋にやって来るし、二人で散歩もする。着物や洋服まで届けてくれる。

「……何なんだろうな」

 窓の外を見ながら、ただぼんやりとそのことを考えた。それ以外のことに気が向かなくて、せっかく用意してもらった昼食も手つかずのまま下げてもらうことになった。
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