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シンジュクでの一件があってからというもの、拓巳は優一の束縛が加速したような気がしていた。
(束縛っていうか……見張り?)
つがいになってからそう感じることはこれまでも何度かあったが、さらに上回ってきているような気がする。なにより毎日のように出掛けていたことをやめ、ほとんど拓巳のそばにいるようになった。いくつか会社を経営しているようなことを話していたが大丈夫なんだろうかと心配になってくる。
「あの、優一さん」
「なんだい?」
プライベートなことは聞かないほうがいいだろうと思っていた拓巳だが、気になって訊ねることにした。一人掛けのソファでいつものように本を読んでいた優一が、呼びかけに応えて顔を上げる。
「あー……その、毎日家にいるけど、仕事は大丈夫なのかなと思って」
「大丈夫だよ。わたし一人がいなくても業務が滞ったりはしないからね」
「……そう、ですか」
会社で働いたことのない拓巳には、経営者がいなくても問題ないのかさっぱりわからない。しかし優一がそう言うのならそうなのだろう。
「それに、そろそろ表から身を引こうと思っていたところだからいい機会だと思っている」
「身を引く……?」
拓巳の言葉に優一がふわりと笑った。
「いまの会社も十分軌道に乗った。あとは人に任せても問題ないだろう」
「それって……」
「起業したときから三十年は経っているからね。表舞台に立ち続けるのも無理が出てくる頃合いだ」
話の内容から、優一が会社経営から手を引こうとしていることはわかった。肉体的にも年齢的にもまだまだ働けそうなのに、どうしてそんなことを言い出すのだろうか。
拓巳が首を傾げていると、ソファから立ち上がった優一が拓巳の隣にやって来た。大きな掃き出し窓を開けて床に座っていた拓巳が立ち上がろうと腰を上げるが、微笑みながら優一がそれを制する。
「わたしの見た目は十歳ほどしか変えられない。起業当時、わたしは二十代の新星と社会で大いに騒がれた。メディア露出も多く、当時のわたしをよく知る人物も大勢いる。人なら五十代になっているはずだが、いまのわたしを見てもそうは思えないだろう?」
「あ……」
「すでに大勢に違和感を抱かれている。ここが引き際ということだ」
そう言いながら優一が拓巳の隣に座った。庭を眺める横顔は穏やかで、優一が何を思っているのか拓巳にはわからない。
「あの……、残念だとかもったいないだとかは思わないんですか?」
「うん? 会社を手放すことがかい?」
「はい。だって一から作った会社なら、思い入れもあるのかなと思って……」
せっかく作り上げたものを手放すのは惜しくないのだろうか。自分なら、せっかく手に入れたものを手放したいとは思わない。ようやく手に入れた父親という存在を失いたくなくて、じっと我慢していた小学生の頃の自分を思い出す。
「ふむ、そういう考えはなかったな。人の世で生活するために手っ取り早く稼ごうと思い、起業してきただけだ。思い入れがなくはないが、ものというものはいずれ失われる。それがいまか未来かという違いでしかない」
優一の視線が庭から拓巳へと向けられた。碧色にも灰色にも見える目は普段どおりで、いまの言葉は優一の本心なのだろう。
(俺からすれば、もったいない気がするけど……)
しかし当の本人が惜しくないと思っているのなら外野がとやかく言うことではない。
「それに、これまで作ってきた会社からの利益も十分入ってくる。若い会社をいくつか手放したところで生活に困ることはない。もちろん拓巳くんを養っていくことも問題ないよ。それとも、経営者でなくなるわたしは頼りないかい?」
「まさか! ……っていうか、俺のほうこそ何もなくて、あの、養ってもらうばっかりで、すみません……」
よく考えれば、衣食住のすべてを優一に任せている拓巳に意見できる話ではなかった。申し訳ないやら恥ずかしいやらで項垂れる。
「嫌味ではないから気にしなくていい。それに、αにとってΩの世話を焼くというのは至上の喜びでもある。いや、わたしが拓巳くんにそばにいてほしくて勝手に世話を焼いているだけだ」
優一の左手が、膝にあった拓巳の手を包み込んだ。
「あの、優一さん、」
「こうして手を握り……」
左手はそのままに、冷たい右手が拓巳の頬をするりと撫でる。
「頬に触れ、唇に触れ……」
「ん……っ」
顎を取られ、触れるだけのキスをされた。
「いつでも触れていたいと思っている。もう何人たりともきみに触れさせたりはしない。きみはわたしだけのΩだ」
「あ、」
すっかり薄着になったTシャツの襟元をずらされ、つがいの印にキスを落とされた。それだけで拓巳の体がフルッと震える。大きな手に背中を支えられながら、そのままゆっくりと床に押し倒された。
「わたしのΩ」
「んっ」
首筋を吸われただけで期待で肌が粟立つ。拓巳は広い背中に腕を回し、自分もそばにいたいのだという思いを込めてギュッと抱きしめた。
数日後、久し振りに優一が朝から出掛けることになった。なんでも会社の重要な会議があるとかで、デバイスを使ってのリモートではどうにもならなかったらしい。渋々準備をする優一からは、出掛ける間際に二度も「敷地の外に出てはいけないよ」と注意された。
(俺ってそんなに心配そうに見えるのかな)
もうすぐ二十歳になるというのに、あそこまで言われると少し情けなくなる。
(まぁ、八十年くらい生きてるっていう優一さんから見たら、俺なんて子どもみたいなものなんだろうけど)
そんなことを思いながら、久しぶりに一人きりで庭に出た。梅雨の晴れ間だからか少しだけ蒸している。この季節になると、これからやって来る夏を思ってうんざりしたのを思い出した。
(去年は毎日シャワー浴びたいなぁなんて思ってたっけ)
汗をかくたびに嫌になった。しかし毎日コインシャワーを使えるほど懐に余裕はない。だから、夏場はできるだけラブホテルを使うようにした。ホテル代を渋る客もいたが、結局客のほうもシャワーを浴びたくなるからか何とかやり過ごすことができた。
それが、いまでは毎日風呂に入ることができる。栄養満点のおいしい食事が用意され、大きなベッドで寝ることもできる。なにより好きな人と一緒にいられることが一番の幸せだった。「初めて好きになった人と一緒に住むなんて」と気恥ずかしく思ったところでハッと我に返る。
「好きな人って……」
間違いじゃないが、そう思いながら優一を思い浮かべるとなんだかこそばゆい。あと一カ月もすれば次の発情がやって来る。好きな人と……つがいと、すべてを忘れて交わる日が、またやって来る。そう考えるだけで体の熱が上がる気がした。
(ってことは、あれからもう半年経つってことか)
ふと、そのことに気がついた。もちろん半年の契約という話はとっくの前に破棄され、拓巳はこの先もずっと優一のそばにいることを決意している。優一にもそう望まれた。まさか半年前のあのときには思ってもみなかった展開だ。
(もう半年か)
半年という時間をこれほど短く感じたのは初めてだった。そんなふうに思いながら優一と出会った頃のことを考えていると、ほのかに甘い香りが漂っていることに気がついた。
(これは……花の匂い?)
拓巳は花の種類に詳しいわけではない。しかし、いま匂っているのが花の匂いだろうということはなんとなく予想できた。
(庭に咲いてる花かな)
辺りを見たが、それらしき花は咲いていない。周囲を囲む木々にも花は咲いていなかった。じゃあいったい何の匂いだろうと首を傾げたところで、首筋にチリッとした視線を感じて慌てて振り返った。
「え……?」
少し離れたところに着物姿の……おそらく男性と思われる人が立っている。一瞬男かどうかわからなかったのは、見た目で判断できないほど美しい容姿をしていたからだ。
そのせいで拓巳は警戒することを忘れてしまった。優一と自分以外いるはずのない豪邸の庭に知らない人が立っているのだから、本来ならすぐに訝しむべきだ。ところが、あまりの美しさに「なぜここにいるんだろう」と思うこともなく惚けてしまったのだ。美しすぎると夢か現実かわからなくなるということを、このとき拓巳は初めて体験した。
「やっぱり、可愛らしい子ですね」
「……え?」
美しい人が言葉を発したことで、拓巳はようやく現実に戻ることができた。
「本当に部屋に入れてよかったのかな」と思いながらチラッと隣を見る。すると相手も自分を見ていたようで、にこりと微笑まれてしまった。慌てて庭のほうに視線を向けたものの、やけに心臓がドキドキと鼓動を速めている。
(だって、こんな綺麗な人見たことないし)
優一にも出会って早々ドキドキしたが、優一の男性的な美しさとは違い、隣に座る人物は性別がわからない不思議な美しさをしている。そんな人と縁側代わりに床に座り、掃き出し窓の外に広がる庭を一緒に眺めているのは奇妙な感じがした。そもそもこの美しい人が誰なのか拓巳は知らない。それでもこうして並んで座っているのは、この人が優一の名前を口にしたからだ。
「すぐに優一さんが帰って来るでしょうから、それまでのんびり庭でも眺めていましょう」
また優一の名前を口にした。「丹桂さん」ではなく「優一さん」と呼ぶということは、それなりに親しい間柄ということだろう。拓巳はモヤッとするものを感じながらも小さく頷き、もう一度謝罪を口にした。
「あの、お茶とかわからなくて……すみません」
普段から至れり尽くせりの生活を送っているせいで、お茶やコーヒーがどこにあるのかわからなかった。こういうときお茶を出すのが普通なのだろうが、それに気づいても用意することができない。
「大丈夫ですよ。それに、優一さんがそういったことをさせないのでしょう?」
「……すみません」
そうだと認めるのもどうかと思い、もう一度頭を下げる。
(それにしても、優一さんのことよく知っているっぽいよな)
二人はどういう関係なのだろうか。そう思いながら再び隣を窺いながらあれこれ考える。
美しい容姿のせいか年齢はさっぱりわからない。着物を着ているから年上かもしれないと思ったものの、自分とあまり変わらないようにも見えた。黒髪黒目であることや顔立ちから、この国の人だということはわかる。背は相手のほうが少しだけ高かった。声は少し低めで、穏やかな口調だからか耳に心地いい。
(そのあたりは優一さんに似てるかも)
優一の低く穏やかな声を思い出し、もう一度隣を見た。
(……もしかして、優一さんの……)
元恋人だろうか、と思い慌てて打ち消した。しかし、一度思ったらそれが真実のような気がして胸がざわついてしまう。そもそも八十年ほど生きているという優一に、これまで恋人がいなかったはずがない。
(吸血鬼も恋人とか作るのかは知らないけど)
本人にその気がなくても周囲が放っておかなかっただろう。それに昔からいくつも会社を経営していたと聞いた。おそらく当時からセレブで、いまと同じようにイケメンで、もしかしたら十歳ほど若い姿だったかもしれない。
(……そんなの、女も男も放っておくはずがない)
十歳若い優一を想像する。そして着物姿の人物が隣に立つのを思い浮かべた。
(……なんていうか、すごくお似合い、だよな)
平凡な自分は見た目からして絶対に敵わない。まとっている雰囲気も敵わないと思った。
「もしかして、発情が近いですか?」
「……え?」
「いえ、ほんのわずかですけど甘い香りがしたので」
「……あの、もしかしてあなたも、オメガ、なんですか?」
「はい。あなたと同じ人のΩです」
にこりと微笑む姿はあまりに美しく、「そっか、これが本物のオメガなんだ」と拓巳は思った。
「あぁ、やっぱり少しだけ香りがするような……。いえ、勘違いですね。もしそうだとしたら、優一さんが出掛けるはずがありませんから」
そのとおりだ。昨日も「もし発情が近ければ出社を断固拒否したんだけどね」と眉尻を下げていた。ということは、この人はΩとしてαの優一を知っているということになる。
(まさか……つがいだった人、とか)
いまだに拓巳はつがいについてよくわかっていない。もし結婚相手のような関係なら、かつてそういう相手がいたとしても不思議ではないだろう。むしろいないほうがおかしいとも思った。
(……俺、優一さんのこと、ほとんど知らないや)
というより教えられたことしか知らない。話の流れで訊ねることはあっても、優一の過去を自分から聞いたことはなかった。それでかまわないと思っていたが、隣の美しい人を見ると段々と不安になってくる。
気がつけば、拓巳は半分ほど俯いていた。これ以上隣の美しい人を見ていられなくて自分の足元に視線を向ける。それでも目の端に着物が映り込み、胸の奥がズキンと痛んだ。
(俺、やっぱり優一さんにふさわしくないよな)
鼻の奥がツキツキ痛んだ。どうしようもなく不安になり膝の上で拳を握る。クズでしかない自分が優一の隣にいるのはおかしいとわかっていたのに、優一に愛を囁かれたことで勘違いしてしまった。
(いくら俺が貴重なオメガでも、やっぱり優一さんには似合わない)
それに優一に恥をかかせてしまう。暗い考えに陥る拓巳の鼻に嗅ぎ慣れた甘いものがふわりと香った。そっと顔を上げると、思っていたとおりの人物の声が聞こえてくる。
「……まさかと思っていたが」
庭に現れたのは優一だった。おそらくガレージから直接庭に回ってきたのだろう。珍しく撫でつけた黒髪が一筋、額に落ちていた。
「優一さん、おかえりなさい」
「雪弥さん、どうやって入って……いや、それよりちゃんと断って来たんでしょうね」
ため息をつく優一に、着物姿の美しい人が「ふふ」と笑う。一連のやり取りがあまりに自然で、拓巳は無性に切なくなった。これ以上二人を見ていたくなくて視線を外そうとしたが、「拓巳くん」と優一に呼ばれてその場に踏みとどまる。
「大丈夫かい?」
「ええと、別に……」
「いやですね。息子のつがいをいびったりはしませんよ」
「……え?」
いま、何と言っただろうか。とんでもない単語が聞こえた気がして、拓巳は目を見開きながら隣を見た。
「……雪弥さん、自己紹介は?」
「そういえば、すっかり忘れていたような」
こてんと傾げる仕草も美しかったが、それを見る優一の目は若干呆れているように見える。
「あなたという人は……」
「まぁまぁ。それよりも挨拶がまだでしたね。改めまして、雪弥と申します。いまの話のとおり、優一さんの父です」
「わたしを生んだほうの父だ」
「……ええ、と……?」
優一の整った顔を見て、隣に座る美しい人の顔を見る。そうしてもう一度優一に視線を戻したところで、拓巳はぽかんと口を開いてしまった。
(束縛っていうか……見張り?)
つがいになってからそう感じることはこれまでも何度かあったが、さらに上回ってきているような気がする。なにより毎日のように出掛けていたことをやめ、ほとんど拓巳のそばにいるようになった。いくつか会社を経営しているようなことを話していたが大丈夫なんだろうかと心配になってくる。
「あの、優一さん」
「なんだい?」
プライベートなことは聞かないほうがいいだろうと思っていた拓巳だが、気になって訊ねることにした。一人掛けのソファでいつものように本を読んでいた優一が、呼びかけに応えて顔を上げる。
「あー……その、毎日家にいるけど、仕事は大丈夫なのかなと思って」
「大丈夫だよ。わたし一人がいなくても業務が滞ったりはしないからね」
「……そう、ですか」
会社で働いたことのない拓巳には、経営者がいなくても問題ないのかさっぱりわからない。しかし優一がそう言うのならそうなのだろう。
「それに、そろそろ表から身を引こうと思っていたところだからいい機会だと思っている」
「身を引く……?」
拓巳の言葉に優一がふわりと笑った。
「いまの会社も十分軌道に乗った。あとは人に任せても問題ないだろう」
「それって……」
「起業したときから三十年は経っているからね。表舞台に立ち続けるのも無理が出てくる頃合いだ」
話の内容から、優一が会社経営から手を引こうとしていることはわかった。肉体的にも年齢的にもまだまだ働けそうなのに、どうしてそんなことを言い出すのだろうか。
拓巳が首を傾げていると、ソファから立ち上がった優一が拓巳の隣にやって来た。大きな掃き出し窓を開けて床に座っていた拓巳が立ち上がろうと腰を上げるが、微笑みながら優一がそれを制する。
「わたしの見た目は十歳ほどしか変えられない。起業当時、わたしは二十代の新星と社会で大いに騒がれた。メディア露出も多く、当時のわたしをよく知る人物も大勢いる。人なら五十代になっているはずだが、いまのわたしを見てもそうは思えないだろう?」
「あ……」
「すでに大勢に違和感を抱かれている。ここが引き際ということだ」
そう言いながら優一が拓巳の隣に座った。庭を眺める横顔は穏やかで、優一が何を思っているのか拓巳にはわからない。
「あの……、残念だとかもったいないだとかは思わないんですか?」
「うん? 会社を手放すことがかい?」
「はい。だって一から作った会社なら、思い入れもあるのかなと思って……」
せっかく作り上げたものを手放すのは惜しくないのだろうか。自分なら、せっかく手に入れたものを手放したいとは思わない。ようやく手に入れた父親という存在を失いたくなくて、じっと我慢していた小学生の頃の自分を思い出す。
「ふむ、そういう考えはなかったな。人の世で生活するために手っ取り早く稼ごうと思い、起業してきただけだ。思い入れがなくはないが、ものというものはいずれ失われる。それがいまか未来かという違いでしかない」
優一の視線が庭から拓巳へと向けられた。碧色にも灰色にも見える目は普段どおりで、いまの言葉は優一の本心なのだろう。
(俺からすれば、もったいない気がするけど……)
しかし当の本人が惜しくないと思っているのなら外野がとやかく言うことではない。
「それに、これまで作ってきた会社からの利益も十分入ってくる。若い会社をいくつか手放したところで生活に困ることはない。もちろん拓巳くんを養っていくことも問題ないよ。それとも、経営者でなくなるわたしは頼りないかい?」
「まさか! ……っていうか、俺のほうこそ何もなくて、あの、養ってもらうばっかりで、すみません……」
よく考えれば、衣食住のすべてを優一に任せている拓巳に意見できる話ではなかった。申し訳ないやら恥ずかしいやらで項垂れる。
「嫌味ではないから気にしなくていい。それに、αにとってΩの世話を焼くというのは至上の喜びでもある。いや、わたしが拓巳くんにそばにいてほしくて勝手に世話を焼いているだけだ」
優一の左手が、膝にあった拓巳の手を包み込んだ。
「あの、優一さん、」
「こうして手を握り……」
左手はそのままに、冷たい右手が拓巳の頬をするりと撫でる。
「頬に触れ、唇に触れ……」
「ん……っ」
顎を取られ、触れるだけのキスをされた。
「いつでも触れていたいと思っている。もう何人たりともきみに触れさせたりはしない。きみはわたしだけのΩだ」
「あ、」
すっかり薄着になったTシャツの襟元をずらされ、つがいの印にキスを落とされた。それだけで拓巳の体がフルッと震える。大きな手に背中を支えられながら、そのままゆっくりと床に押し倒された。
「わたしのΩ」
「んっ」
首筋を吸われただけで期待で肌が粟立つ。拓巳は広い背中に腕を回し、自分もそばにいたいのだという思いを込めてギュッと抱きしめた。
数日後、久し振りに優一が朝から出掛けることになった。なんでも会社の重要な会議があるとかで、デバイスを使ってのリモートではどうにもならなかったらしい。渋々準備をする優一からは、出掛ける間際に二度も「敷地の外に出てはいけないよ」と注意された。
(俺ってそんなに心配そうに見えるのかな)
もうすぐ二十歳になるというのに、あそこまで言われると少し情けなくなる。
(まぁ、八十年くらい生きてるっていう優一さんから見たら、俺なんて子どもみたいなものなんだろうけど)
そんなことを思いながら、久しぶりに一人きりで庭に出た。梅雨の晴れ間だからか少しだけ蒸している。この季節になると、これからやって来る夏を思ってうんざりしたのを思い出した。
(去年は毎日シャワー浴びたいなぁなんて思ってたっけ)
汗をかくたびに嫌になった。しかし毎日コインシャワーを使えるほど懐に余裕はない。だから、夏場はできるだけラブホテルを使うようにした。ホテル代を渋る客もいたが、結局客のほうもシャワーを浴びたくなるからか何とかやり過ごすことができた。
それが、いまでは毎日風呂に入ることができる。栄養満点のおいしい食事が用意され、大きなベッドで寝ることもできる。なにより好きな人と一緒にいられることが一番の幸せだった。「初めて好きになった人と一緒に住むなんて」と気恥ずかしく思ったところでハッと我に返る。
「好きな人って……」
間違いじゃないが、そう思いながら優一を思い浮かべるとなんだかこそばゆい。あと一カ月もすれば次の発情がやって来る。好きな人と……つがいと、すべてを忘れて交わる日が、またやって来る。そう考えるだけで体の熱が上がる気がした。
(ってことは、あれからもう半年経つってことか)
ふと、そのことに気がついた。もちろん半年の契約という話はとっくの前に破棄され、拓巳はこの先もずっと優一のそばにいることを決意している。優一にもそう望まれた。まさか半年前のあのときには思ってもみなかった展開だ。
(もう半年か)
半年という時間をこれほど短く感じたのは初めてだった。そんなふうに思いながら優一と出会った頃のことを考えていると、ほのかに甘い香りが漂っていることに気がついた。
(これは……花の匂い?)
拓巳は花の種類に詳しいわけではない。しかし、いま匂っているのが花の匂いだろうということはなんとなく予想できた。
(庭に咲いてる花かな)
辺りを見たが、それらしき花は咲いていない。周囲を囲む木々にも花は咲いていなかった。じゃあいったい何の匂いだろうと首を傾げたところで、首筋にチリッとした視線を感じて慌てて振り返った。
「え……?」
少し離れたところに着物姿の……おそらく男性と思われる人が立っている。一瞬男かどうかわからなかったのは、見た目で判断できないほど美しい容姿をしていたからだ。
そのせいで拓巳は警戒することを忘れてしまった。優一と自分以外いるはずのない豪邸の庭に知らない人が立っているのだから、本来ならすぐに訝しむべきだ。ところが、あまりの美しさに「なぜここにいるんだろう」と思うこともなく惚けてしまったのだ。美しすぎると夢か現実かわからなくなるということを、このとき拓巳は初めて体験した。
「やっぱり、可愛らしい子ですね」
「……え?」
美しい人が言葉を発したことで、拓巳はようやく現実に戻ることができた。
「本当に部屋に入れてよかったのかな」と思いながらチラッと隣を見る。すると相手も自分を見ていたようで、にこりと微笑まれてしまった。慌てて庭のほうに視線を向けたものの、やけに心臓がドキドキと鼓動を速めている。
(だって、こんな綺麗な人見たことないし)
優一にも出会って早々ドキドキしたが、優一の男性的な美しさとは違い、隣に座る人物は性別がわからない不思議な美しさをしている。そんな人と縁側代わりに床に座り、掃き出し窓の外に広がる庭を一緒に眺めているのは奇妙な感じがした。そもそもこの美しい人が誰なのか拓巳は知らない。それでもこうして並んで座っているのは、この人が優一の名前を口にしたからだ。
「すぐに優一さんが帰って来るでしょうから、それまでのんびり庭でも眺めていましょう」
また優一の名前を口にした。「丹桂さん」ではなく「優一さん」と呼ぶということは、それなりに親しい間柄ということだろう。拓巳はモヤッとするものを感じながらも小さく頷き、もう一度謝罪を口にした。
「あの、お茶とかわからなくて……すみません」
普段から至れり尽くせりの生活を送っているせいで、お茶やコーヒーがどこにあるのかわからなかった。こういうときお茶を出すのが普通なのだろうが、それに気づいても用意することができない。
「大丈夫ですよ。それに、優一さんがそういったことをさせないのでしょう?」
「……すみません」
そうだと認めるのもどうかと思い、もう一度頭を下げる。
(それにしても、優一さんのことよく知っているっぽいよな)
二人はどういう関係なのだろうか。そう思いながら再び隣を窺いながらあれこれ考える。
美しい容姿のせいか年齢はさっぱりわからない。着物を着ているから年上かもしれないと思ったものの、自分とあまり変わらないようにも見えた。黒髪黒目であることや顔立ちから、この国の人だということはわかる。背は相手のほうが少しだけ高かった。声は少し低めで、穏やかな口調だからか耳に心地いい。
(そのあたりは優一さんに似てるかも)
優一の低く穏やかな声を思い出し、もう一度隣を見た。
(……もしかして、優一さんの……)
元恋人だろうか、と思い慌てて打ち消した。しかし、一度思ったらそれが真実のような気がして胸がざわついてしまう。そもそも八十年ほど生きているという優一に、これまで恋人がいなかったはずがない。
(吸血鬼も恋人とか作るのかは知らないけど)
本人にその気がなくても周囲が放っておかなかっただろう。それに昔からいくつも会社を経営していたと聞いた。おそらく当時からセレブで、いまと同じようにイケメンで、もしかしたら十歳ほど若い姿だったかもしれない。
(……そんなの、女も男も放っておくはずがない)
十歳若い優一を想像する。そして着物姿の人物が隣に立つのを思い浮かべた。
(……なんていうか、すごくお似合い、だよな)
平凡な自分は見た目からして絶対に敵わない。まとっている雰囲気も敵わないと思った。
「もしかして、発情が近いですか?」
「……え?」
「いえ、ほんのわずかですけど甘い香りがしたので」
「……あの、もしかしてあなたも、オメガ、なんですか?」
「はい。あなたと同じ人のΩです」
にこりと微笑む姿はあまりに美しく、「そっか、これが本物のオメガなんだ」と拓巳は思った。
「あぁ、やっぱり少しだけ香りがするような……。いえ、勘違いですね。もしそうだとしたら、優一さんが出掛けるはずがありませんから」
そのとおりだ。昨日も「もし発情が近ければ出社を断固拒否したんだけどね」と眉尻を下げていた。ということは、この人はΩとしてαの優一を知っているということになる。
(まさか……つがいだった人、とか)
いまだに拓巳はつがいについてよくわかっていない。もし結婚相手のような関係なら、かつてそういう相手がいたとしても不思議ではないだろう。むしろいないほうがおかしいとも思った。
(……俺、優一さんのこと、ほとんど知らないや)
というより教えられたことしか知らない。話の流れで訊ねることはあっても、優一の過去を自分から聞いたことはなかった。それでかまわないと思っていたが、隣の美しい人を見ると段々と不安になってくる。
気がつけば、拓巳は半分ほど俯いていた。これ以上隣の美しい人を見ていられなくて自分の足元に視線を向ける。それでも目の端に着物が映り込み、胸の奥がズキンと痛んだ。
(俺、やっぱり優一さんにふさわしくないよな)
鼻の奥がツキツキ痛んだ。どうしようもなく不安になり膝の上で拳を握る。クズでしかない自分が優一の隣にいるのはおかしいとわかっていたのに、優一に愛を囁かれたことで勘違いしてしまった。
(いくら俺が貴重なオメガでも、やっぱり優一さんには似合わない)
それに優一に恥をかかせてしまう。暗い考えに陥る拓巳の鼻に嗅ぎ慣れた甘いものがふわりと香った。そっと顔を上げると、思っていたとおりの人物の声が聞こえてくる。
「……まさかと思っていたが」
庭に現れたのは優一だった。おそらくガレージから直接庭に回ってきたのだろう。珍しく撫でつけた黒髪が一筋、額に落ちていた。
「優一さん、おかえりなさい」
「雪弥さん、どうやって入って……いや、それよりちゃんと断って来たんでしょうね」
ため息をつく優一に、着物姿の美しい人が「ふふ」と笑う。一連のやり取りがあまりに自然で、拓巳は無性に切なくなった。これ以上二人を見ていたくなくて視線を外そうとしたが、「拓巳くん」と優一に呼ばれてその場に踏みとどまる。
「大丈夫かい?」
「ええと、別に……」
「いやですね。息子のつがいをいびったりはしませんよ」
「……え?」
いま、何と言っただろうか。とんでもない単語が聞こえた気がして、拓巳は目を見開きながら隣を見た。
「……雪弥さん、自己紹介は?」
「そういえば、すっかり忘れていたような」
こてんと傾げる仕草も美しかったが、それを見る優一の目は若干呆れているように見える。
「あなたという人は……」
「まぁまぁ。それよりも挨拶がまだでしたね。改めまして、雪弥と申します。いまの話のとおり、優一さんの父です」
「わたしを生んだほうの父だ」
「……ええ、と……?」
優一の整った顔を見て、隣に座る美しい人の顔を見る。そうしてもう一度優一に視線を戻したところで、拓巳はぽかんと口を開いてしまった。
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BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
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