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初めて二人で迎えた発情はトータル七日間続いた。それから三日経ってようやく拓巳の中で燻っていた欲や熱が落ち着いた。優一の家に来てから久しぶりに頭も体もスッキリした拓巳は、久しぶりに豪邸の外に出ることにした。外出は実に四カ月ぶりで、一年以上ほぼ外で生活していたのに緊張するような不思議な感覚になる。
到着した都心部には懐かしさを感じるより雑多な様子に溜め息が漏れた。以前は気にすることもなかった様々な匂いがどうしても気になり、すれ違う人の匂いに顔をしかめることもあった。
(ホテルに行こうかな……)
体調が思わしくなかったら契約しているホテルへ行くようにと優一に言われたことを思い出す。「フロントでわたしの名前を言えば、すぐに部屋に通すように手配してあるからね」と言いながら見せてくれた携帯デバイスの地図画面を思い出し、すぐに頭を振った。
(どれも有名なホテルばっかりだったよな)
それに高級なところばかりだった。そんなホテルで自分が優一の名前を使うなんてできるはずがない。今日のようにそれなりの格好なら怪しまれないだろうが、この服もすべて優一が揃えてくれたものだ。
(至れり尽くせりって、こういうことを言うんだろうな)
衣食住すべてを優一の世話になっている。これじゃあヒモみたいだなと思ったところで、「つがいだからってことか?」と思い直した。拓巳はいまだにつがいについてよくわかっていない。当然αやΩについてもうまく理解できないままで、優一の話からなんとなくわかったような気になっているだけだ。
拓巳自身、もっと積極的に知ったほうがいいのではと思って携帯デバイスで調べたりはした。しかしαやΩという単語で検索しても引っかかるものはなく何もわからない。吸血鬼に至っては本や映画が出てくるだけで、空想の域を出る情報は見つからなかった。
(でも、間違いなく吸血鬼、だよな……)
優一にはもう何度も血をすすられ、首筋にはつがいの印もついている。朦朧とした意識のまま何日間にも渡って交わりもした。それらはまぎれもない事実で、αもΩも吸血鬼も存在するということだ。
(いまいち実感はないけど、もしかしたら俺も何か変わったかもしれない)
自分が本当にΩというものになったのなら変わっているはずだ。それが実感できればモヤモヤや不安も感じなくて済む。だから今日、仕事で都心部へ行く優一に「俺も一緒に行きたい」と頼んだ。ところが優一はわずかに顔をしかめ、しばらく渋っていた。
(ああいうのもアルファの特徴だって言ってたけど……)
αはつがったΩを自分の懐に囲っておきたいのだと優一が話していた。だから優一は外に出たがる自分に不満を抱いたのだろう。最近そうした束縛のようなものを感じるようになった。とくに建物から出ること自体が嫌なようで、庭を散歩するのにも付いて来るくらいだ。
(そういう変化は、まぁ、嫌じゃないけどさ)
そう思う自分に驚いた。高校のときは束縛する先輩が嫌で仕方がなかった。卒業してもそうされるのが嫌で逃げ出した。それなのに優一にそうされるのはうれしいと思ってしまう。
これもΩに変わったからだろうか。ほかにももっと変わったところがあるのかもしれない。だから、かつて自分がいた場所を見て自分がどう感じるか確かめようと思った。Ωとして、吸血鬼である優一のつがいとして変わった自分を知りたかった。
(……で、シンジュクからイケブクロまで来たのはいいんだけど……)
シンジュクはあまりの人の多さに目眩がしそうだった。つい四カ月前までは夜通し過ごしていた街なのに知らない街のような気さえした。
(いや、見た目は同じなんだけど何か違うっていうか……あー、よくわかんねぇ)
頭をガシガシと掻きながら周りを見る。ここイケブクロの北口も拓巳がよく利用していた場所だ。客と待ち合わせてホテルに行くことがほとんどだったが、たまに仲良くなった売り専の男と会ったりもした。同じくらいの歳の男だったからか、まるで高校時代のやり直しのように感じていたことを思い出す。
ほんの少し前のことなのに懐かしいなと思いながらチャイナストリートを眺めていた拓巳の耳に、「あれ? タクミじゃん」という声が聞こえてきた。
「あ、」
名前を呼ばれて振り返ると、いま思い出していた売り専の男が立っていた。相変わらずユニセックスな格好をしているからか、声を聞かなければ女に見える風貌だ。
「メイ」
「どうしたの? こんな昼間から客と待ち合わせ? ……って、この匂い……」
笑いながら近づいてきたメイが、鼻をクンとさせて立ち止まった。どうしたんだろうかと拓巳が見ていると、ゆっくりとメイの眉が寄っていく。
「メイ?」
「この匂いって、丹桂さんだよね? ってことは、やっぱり捕まっちゃったのか」
「え? 丹桂さんって、優一さんのこと?」
「そう、その丹桂優一。ごめんね、それたぶん僕のせいだ」
「は……?」
驚く拓巳に、メイが顔の前で両手を合わせ申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「でもさ、吸血鬼に『さっさと言え』って脅されたら答えるしかないじゃん? 僕らみたいな下級夢魔じゃあ、上級αの吸血鬼には逆らえないし」
最近まで聞いたことがなかった言葉が次々と飛び出し、拓巳は大いに戸惑った。メイのことは売り専の男だということしか知らなかったが、どうしてαだの吸血鬼だのという言葉が彼から出てくるのだろうか。驚き目を見開く拓巳にメイと呼ばれた男がニコッと笑う。
「ごめんごめん、驚いたよね。丹桂さんに捕まったってことはタクミもこっち側の人になったってことだろうから、もういいか」
スッと近づいたメイが視線だけで左右を確認し、囁くように顔を近づけた。
「僕さ、夢魔なんだ」
「むま……って、」
言葉が詰まった。ますます目を見開く拓巳にメイがニコッと笑いかける。
「それって、優一さんが言ってたやつか……?」
「あの人が何て説明したかわかんないけど、たぶんあってる。タクミには夢魔より淫魔って言うほうがわかりやすそうだけど」
「淫魔……って、」
「ほら、前にネットカフェで『悠久の螺旋』ってネトゲやってるって言ってたじゃん? あれにも淫魔、出てきてたでしょ?」
『悠久の螺旋』というのは、ネットカフェを使うときに拓巳がやるネットゲームのタイトルだ。何人かの客の話に出てきたのが気になって、たまにだがプレイしている。ファンタジー色の強いゲーム世界で、たしかに淫魔と呼ばれる種族も登場した。
「淫魔って、たしか……」
口に出していいものかためらってしまい、それ以上の言葉が続かなかった。それにニコッと笑ったメイが「セックス好きの淫魔であってるよ」と続ける。
「セックス好きっていうか、人の精力が僕らのご飯なだけなんだけどさ。あ、でもそれ抜きでもセックス好きっていうのは間違いないか」
アハハと笑うメイの顔に自虐的な気配はない。それでも拓巳はどう反応していいのか困惑した。
「やだなぁ。僕は夢魔だからって自分を卑下したりしないって。ほら、ゴキブリって人に嫌われてるけど、だからってあいつらが自分のことを嫌だって思わないのと一緒」
「さすがにそれはなんか違うだろ」
「そうかなぁ? まぁいいや。とにかく、僕は自分が夢魔であることを情けないとか嫌だとか思ったことはないから、タクミも気にしないで」
「まぁ、メイがそう言うなら……」
うんうんと頷くメイと並んで駅前ロータリーの隅に置かれたベンチに座る。
「あっ! ってことは、タクミってばやっぱりΩだったってことか!」
「え?」
「だって丹桂さん、最上位のαでしょ? その丹桂さんの匂いがこれだけ付いてるってことは、めちゃくちゃマーキングされてるってことだもんね。ってことはΩってことだよね? ……うん、ほんの少しだけどΩっぽい匂いがするし」
「って、ちょっと、何匂ってんだよ」
「しかも、これは最近発情した感じだ。……はっはーん、そこでつがいになったか」
「つ、がい、って」
「アハハ! 真っ赤になって、タクミかわいーんだ! 大丈夫、僕もΩだから発情とかつがいとか、よ~くわかってるから」
笑いながら肩を叩くメイに拓巳は何も言えなかった。なにより「僕もΩだから」という言葉に驚き、食い入るようにメイを見つめる。
「夢魔は半分くらいがΩだから珍しくはないけど、人のΩに会ったのはタクミが初めてだ。それで丹桂さんのつがいになったってことは、もしかして運命ってやつ?」
「……俺にはよくわからないけど、優一さんはそうだって言ってた」
「そっか~、運命か~。……いいなぁ」
「メイ?」
「運命って、いまじゃほとんど出会えないって言われてるからさ。自分だけのαなんて、Ωにとっては出会いたい最高の相手だけど……。ま、僕はそんな高望みはしないけどね」
ニコッと笑うメイだが、拓巳にはどこか淋しそうに見えた。きっとΩとして自分の知らない苦労や何かがあるのだろう。売り専をしているのだって本当に好きでしているのかわからない。どう答えればいいのかわからず拓巳が視線を外すと、「それよりも!」と明るい声がした。
「ね、携帯デバイスもらった?」
「え? あ、うん、もらったけど……」
「だよね! αが何も持たせないでΩを外に出してくれるはずないもんね。じゃあ、連絡先交換しようよ!」
「は?」
「僕はΩだから、連絡先の交換くらい大目に見てくれるって。っていうかさ、タクミもΩの知り合いがいたほうが心強いでしょ? 体調のこととか発情のこととか……あと、子どものこととか含めて」
「あ……」
初めて交わったときに「子を孕ませる」といった言葉を聞いたことを思い出した。あのときもこの前の発情のときも、なぜかそれを不思議に思うことはなく深く考えることもなかった。
でも、自分は生まれたときから男だ。Ωが子どもを生める存在だとしても拓巳には想像がつかないし実感もない。
(でも、もし本当に子どもができるとしたら……)
自分の腹に子が宿るかもしれない現実に、急に怖さが芽生えた。思わず腹部に手を当ててさするように撫でる。
「いくら運命でも、さすがにΩになったばかりで子どもはできないって。それに、そういうところは丹桂さんがいろいろ考えてるだろうしね。っていうかほら、連絡先!」
「え、あ、うん」
取り出した携帯デバイスを奪ったメイが、軽快に画面をタッチしてあっという間に連絡先の交換を終える。「はい、これが僕の連絡先ね」と差し出された画面には“芽衣”と表示されていた。
「おまえ、こういう字書くんだ」
「うん。だから“メイ”ね。あ、でも本当は“ヤーイー”って読むんだけど、まぁどっちでもいいかな」
「やーいー?」
「僕、一応華人系だからさ。でもってこれ、女の子につける名前なんだよね。僕がかわいかったからよかったものの、すんごいマッチョに育ってたらって思うと笑えるよね~」
夢魔にも国籍というのがあるのだろうか。華人系と聞き、拓巳はロータリーから続くチャイナストリートを見た。そこは多くの華人系の人たちが住み、いつの間にか“チャイナストリート”と呼ばれるようになった場所だ。
「僕、この辺りをねぐらにしてるから、いつでも遊びに来て……って、丹桂さんが許せばだけど」
「どういうことだよ?」
「αは基本、Ωを外に出したがらないからさ。まぁ、あの人なら携帯デバイスなしでもタクミのこと探せそうだけど。っていうか、たぶんいまタクミがここにいることもわかってると思うよ?」
「……なんか、αってすごいんだな」
「そのαが唯一夢中になる相手がΩってわけ」
αとΩをよく知らなくても、そう言われると両方ともとんでもない存在のように思えてくる。自分がそのΩだと言われても実感はないが、とりあえず「そっか」と答えるとニコッと笑ったメイが「そうそう」と相づちを打った。
「ま、気が向いたら連絡してよ」
「わかった。あ、でも夕方以降はしないようにするから」
「アハハ! 気にしなくていいって。そもそも売り専してるのだって食事のためだし。それに、客を取って食事するのも一旦お休みかなぁって思ってるところなんだよね」
「……もしかして変な客に捕まったのか?」
以前、メイも拓巳が使っていたSNSに書き込んで客を見つけていると話していた。手軽だが客はピンキリで、中にはとんでもない奴もいる。そういう客に出くわしたのかと心配顔で見る拓巳に、メイは「違う違う」と右手を振った。
「一カ所に留まらないように間隔を開けてねぐらを変えてたんだけど、この間うっかり昔の客に姿を見られちゃってさ。面倒なことになったら嫌だから、しばらく客取るのはやめようと思って」
「昔の客?」
「うん。たぶん二十年くらい前の客じゃないかなぁ。結構貢いでくれたから、僕もなんとなく顔を覚えてたんだよね。でもって向こうはギョッとしてたから、昔の客で間違いないと思う」
「ギョッとって……」
「何年経っても同じ姿してるのって、人から見たら不気味に見えるってことでしょ?」
なんでもないことのようにメイが話した内容に、拓巳は再び驚いた。優一は十歳くらい若返ることができると言っていたが、もしかしてメイもそうなのだろうか。
「……おまえも姿、変えられるのか?」
小声でそう訊ねると、メイがきょとんとした顔をした。
「姿は変えられないけど……って、そっか。吸血鬼は変えられるもんね。僕らは死ぬまでピチピチの姿ってだけ。そういや丹桂さん、ここ十年くらいは同じ姿だった気がするなぁ」
「……そう、なんだ……」
実際に見たことはないが、どうやら優一は本当に見た目を変えることができるらしい。そして目の前にいるメイも見た目と実年齢が違うらしいことにショックを受けた。てっきり自分と同じくらいの年齢だと思っていたが、優一と同じようにとんでもなく年上なのかもしれない。そう思った拓巳は、恐る恐る「おまえ、ほんとはいくつなんだ?」と訊ねた。
「うーん、四十年は過ぎてるかなぁ。歳なんていちいち数えないから忘れちゃった」
「……そうなんだ」
「僕がトウキョウをねぐらにしたのって、生まれて十四年目くらいからなんだけど……あっ! そういやその頃、偉い人が死んだとかで街中に旗が並んだことがあったっけ。そういや、どこかの国の大きな壁が壊れたとか戦争が終わったとか、そんなことも言ってた気がする」
それが何年前の何という出来事か拓巳にはわからない。携帯デバイスで調べればすぐにわかるかもしれないが、そこまでしてメイが何歳か知りたいわけでもなかった。拓巳は携帯デバイスをそっとポケットに仕舞った。
「僕の年齢が気になる?」
「……いや、気にしないようにする」
「アハハ。でも、そのほうがいいかもね。丹桂さんもだけど、僕らと人の年齢や寿命はまったく違うからさ。ま、そのうちタクミも気にならなくなるよ」
そんなものなんだろうかと思いながらも小さく頷くだけにとどめた。
「で、メイはこれからどうするんだよ。客取らなくても平気なのか?」
「まぁ、そこはどうにかなるっていうか……」
「なんだよ、歯切れが悪いな」
「あー……うん。ちょっとね、気になる人がいてさ」
「気になる人?」
「うん……αなんだけど、ちょっとね」
「アルファって、もしかして運命ってやつか? まさか、つがいってやつ?」
拓巳の言葉にメイが慌てて「違うって」と首を振った。
「僕のことはいいからさ、タクミは自分のこと考えなよ……って、丹桂さんが相手なら考えなくても問題ないだろうけど」
「……それっていいことなのかな」
「いいんじゃない? だってタクミ、これまで大変だったんでしょ?」
三人目の客と寝た翌日、急に虚しくなった拓巳はちょうどいま座っているベンチに腰掛けチャイナストリートを眺めていた。そんな拓巳に声をかけてきたのがメイで、そのとき自分の過去について少し話したことを思い出す。
「大変っていうか……クズだなって思ってはいるけど」
「アハハ! タクミからクズって聞くの、何度目だろ。周りは全部クズだって見るとたしかにおもしろいけど、タクミはクズじゃないじゃん」
「俺だってクズだよ」
「前はクズだったかもしれないけど、いまはΩになってαとつがった。しかも運命だよ? クズどころかダイヤモンドだ。人生捨てたもんじゃなかったってことだよ」
「そうかな」
「そうだって。少なくとも僕から見ればうらやましい限りだよ」
「メイ……?」
最後のほうは声が小さくて聞き取れなかった。聞き返した拓巳にニコッと笑ったメイが立ち上がる。
「じゃ、僕そろそろ行くね。あ! せっかく連絡先交換したんだから、たまにはメッセージくらい送ってよね」
「わかった」
もう一度ニコッと笑ったメイの後ろ姿を見ながら、拓巳は自分がこれまでとまったく違う世界に入り込んだような気分になっていた。
到着した都心部には懐かしさを感じるより雑多な様子に溜め息が漏れた。以前は気にすることもなかった様々な匂いがどうしても気になり、すれ違う人の匂いに顔をしかめることもあった。
(ホテルに行こうかな……)
体調が思わしくなかったら契約しているホテルへ行くようにと優一に言われたことを思い出す。「フロントでわたしの名前を言えば、すぐに部屋に通すように手配してあるからね」と言いながら見せてくれた携帯デバイスの地図画面を思い出し、すぐに頭を振った。
(どれも有名なホテルばっかりだったよな)
それに高級なところばかりだった。そんなホテルで自分が優一の名前を使うなんてできるはずがない。今日のようにそれなりの格好なら怪しまれないだろうが、この服もすべて優一が揃えてくれたものだ。
(至れり尽くせりって、こういうことを言うんだろうな)
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拓巳自身、もっと積極的に知ったほうがいいのではと思って携帯デバイスで調べたりはした。しかしαやΩという単語で検索しても引っかかるものはなく何もわからない。吸血鬼に至っては本や映画が出てくるだけで、空想の域を出る情報は見つからなかった。
(でも、間違いなく吸血鬼、だよな……)
優一にはもう何度も血をすすられ、首筋にはつがいの印もついている。朦朧とした意識のまま何日間にも渡って交わりもした。それらはまぎれもない事実で、αもΩも吸血鬼も存在するということだ。
(いまいち実感はないけど、もしかしたら俺も何か変わったかもしれない)
自分が本当にΩというものになったのなら変わっているはずだ。それが実感できればモヤモヤや不安も感じなくて済む。だから今日、仕事で都心部へ行く優一に「俺も一緒に行きたい」と頼んだ。ところが優一はわずかに顔をしかめ、しばらく渋っていた。
(ああいうのもアルファの特徴だって言ってたけど……)
αはつがったΩを自分の懐に囲っておきたいのだと優一が話していた。だから優一は外に出たがる自分に不満を抱いたのだろう。最近そうした束縛のようなものを感じるようになった。とくに建物から出ること自体が嫌なようで、庭を散歩するのにも付いて来るくらいだ。
(そういう変化は、まぁ、嫌じゃないけどさ)
そう思う自分に驚いた。高校のときは束縛する先輩が嫌で仕方がなかった。卒業してもそうされるのが嫌で逃げ出した。それなのに優一にそうされるのはうれしいと思ってしまう。
これもΩに変わったからだろうか。ほかにももっと変わったところがあるのかもしれない。だから、かつて自分がいた場所を見て自分がどう感じるか確かめようと思った。Ωとして、吸血鬼である優一のつがいとして変わった自分を知りたかった。
(……で、シンジュクからイケブクロまで来たのはいいんだけど……)
シンジュクはあまりの人の多さに目眩がしそうだった。つい四カ月前までは夜通し過ごしていた街なのに知らない街のような気さえした。
(いや、見た目は同じなんだけど何か違うっていうか……あー、よくわかんねぇ)
頭をガシガシと掻きながら周りを見る。ここイケブクロの北口も拓巳がよく利用していた場所だ。客と待ち合わせてホテルに行くことがほとんどだったが、たまに仲良くなった売り専の男と会ったりもした。同じくらいの歳の男だったからか、まるで高校時代のやり直しのように感じていたことを思い出す。
ほんの少し前のことなのに懐かしいなと思いながらチャイナストリートを眺めていた拓巳の耳に、「あれ? タクミじゃん」という声が聞こえてきた。
「あ、」
名前を呼ばれて振り返ると、いま思い出していた売り専の男が立っていた。相変わらずユニセックスな格好をしているからか、声を聞かなければ女に見える風貌だ。
「メイ」
「どうしたの? こんな昼間から客と待ち合わせ? ……って、この匂い……」
笑いながら近づいてきたメイが、鼻をクンとさせて立ち止まった。どうしたんだろうかと拓巳が見ていると、ゆっくりとメイの眉が寄っていく。
「メイ?」
「この匂いって、丹桂さんだよね? ってことは、やっぱり捕まっちゃったのか」
「え? 丹桂さんって、優一さんのこと?」
「そう、その丹桂優一。ごめんね、それたぶん僕のせいだ」
「は……?」
驚く拓巳に、メイが顔の前で両手を合わせ申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「でもさ、吸血鬼に『さっさと言え』って脅されたら答えるしかないじゃん? 僕らみたいな下級夢魔じゃあ、上級αの吸血鬼には逆らえないし」
最近まで聞いたことがなかった言葉が次々と飛び出し、拓巳は大いに戸惑った。メイのことは売り専の男だということしか知らなかったが、どうしてαだの吸血鬼だのという言葉が彼から出てくるのだろうか。驚き目を見開く拓巳にメイと呼ばれた男がニコッと笑う。
「ごめんごめん、驚いたよね。丹桂さんに捕まったってことはタクミもこっち側の人になったってことだろうから、もういいか」
スッと近づいたメイが視線だけで左右を確認し、囁くように顔を近づけた。
「僕さ、夢魔なんだ」
「むま……って、」
言葉が詰まった。ますます目を見開く拓巳にメイがニコッと笑いかける。
「それって、優一さんが言ってたやつか……?」
「あの人が何て説明したかわかんないけど、たぶんあってる。タクミには夢魔より淫魔って言うほうがわかりやすそうだけど」
「淫魔……って、」
「ほら、前にネットカフェで『悠久の螺旋』ってネトゲやってるって言ってたじゃん? あれにも淫魔、出てきてたでしょ?」
『悠久の螺旋』というのは、ネットカフェを使うときに拓巳がやるネットゲームのタイトルだ。何人かの客の話に出てきたのが気になって、たまにだがプレイしている。ファンタジー色の強いゲーム世界で、たしかに淫魔と呼ばれる種族も登場した。
「淫魔って、たしか……」
口に出していいものかためらってしまい、それ以上の言葉が続かなかった。それにニコッと笑ったメイが「セックス好きの淫魔であってるよ」と続ける。
「セックス好きっていうか、人の精力が僕らのご飯なだけなんだけどさ。あ、でもそれ抜きでもセックス好きっていうのは間違いないか」
アハハと笑うメイの顔に自虐的な気配はない。それでも拓巳はどう反応していいのか困惑した。
「やだなぁ。僕は夢魔だからって自分を卑下したりしないって。ほら、ゴキブリって人に嫌われてるけど、だからってあいつらが自分のことを嫌だって思わないのと一緒」
「さすがにそれはなんか違うだろ」
「そうかなぁ? まぁいいや。とにかく、僕は自分が夢魔であることを情けないとか嫌だとか思ったことはないから、タクミも気にしないで」
「まぁ、メイがそう言うなら……」
うんうんと頷くメイと並んで駅前ロータリーの隅に置かれたベンチに座る。
「あっ! ってことは、タクミってばやっぱりΩだったってことか!」
「え?」
「だって丹桂さん、最上位のαでしょ? その丹桂さんの匂いがこれだけ付いてるってことは、めちゃくちゃマーキングされてるってことだもんね。ってことはΩってことだよね? ……うん、ほんの少しだけどΩっぽい匂いがするし」
「って、ちょっと、何匂ってんだよ」
「しかも、これは最近発情した感じだ。……はっはーん、そこでつがいになったか」
「つ、がい、って」
「アハハ! 真っ赤になって、タクミかわいーんだ! 大丈夫、僕もΩだから発情とかつがいとか、よ~くわかってるから」
笑いながら肩を叩くメイに拓巳は何も言えなかった。なにより「僕もΩだから」という言葉に驚き、食い入るようにメイを見つめる。
「夢魔は半分くらいがΩだから珍しくはないけど、人のΩに会ったのはタクミが初めてだ。それで丹桂さんのつがいになったってことは、もしかして運命ってやつ?」
「……俺にはよくわからないけど、優一さんはそうだって言ってた」
「そっか~、運命か~。……いいなぁ」
「メイ?」
「運命って、いまじゃほとんど出会えないって言われてるからさ。自分だけのαなんて、Ωにとっては出会いたい最高の相手だけど……。ま、僕はそんな高望みはしないけどね」
ニコッと笑うメイだが、拓巳にはどこか淋しそうに見えた。きっとΩとして自分の知らない苦労や何かがあるのだろう。売り専をしているのだって本当に好きでしているのかわからない。どう答えればいいのかわからず拓巳が視線を外すと、「それよりも!」と明るい声がした。
「ね、携帯デバイスもらった?」
「え? あ、うん、もらったけど……」
「だよね! αが何も持たせないでΩを外に出してくれるはずないもんね。じゃあ、連絡先交換しようよ!」
「は?」
「僕はΩだから、連絡先の交換くらい大目に見てくれるって。っていうかさ、タクミもΩの知り合いがいたほうが心強いでしょ? 体調のこととか発情のこととか……あと、子どものこととか含めて」
「あ……」
初めて交わったときに「子を孕ませる」といった言葉を聞いたことを思い出した。あのときもこの前の発情のときも、なぜかそれを不思議に思うことはなく深く考えることもなかった。
でも、自分は生まれたときから男だ。Ωが子どもを生める存在だとしても拓巳には想像がつかないし実感もない。
(でも、もし本当に子どもができるとしたら……)
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「いくら運命でも、さすがにΩになったばかりで子どもはできないって。それに、そういうところは丹桂さんがいろいろ考えてるだろうしね。っていうかほら、連絡先!」
「え、あ、うん」
取り出した携帯デバイスを奪ったメイが、軽快に画面をタッチしてあっという間に連絡先の交換を終える。「はい、これが僕の連絡先ね」と差し出された画面には“芽衣”と表示されていた。
「おまえ、こういう字書くんだ」
「うん。だから“メイ”ね。あ、でも本当は“ヤーイー”って読むんだけど、まぁどっちでもいいかな」
「やーいー?」
「僕、一応華人系だからさ。でもってこれ、女の子につける名前なんだよね。僕がかわいかったからよかったものの、すんごいマッチョに育ってたらって思うと笑えるよね~」
夢魔にも国籍というのがあるのだろうか。華人系と聞き、拓巳はロータリーから続くチャイナストリートを見た。そこは多くの華人系の人たちが住み、いつの間にか“チャイナストリート”と呼ばれるようになった場所だ。
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「どういうことだよ?」
「αは基本、Ωを外に出したがらないからさ。まぁ、あの人なら携帯デバイスなしでもタクミのこと探せそうだけど。っていうか、たぶんいまタクミがここにいることもわかってると思うよ?」
「……なんか、αってすごいんだな」
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「ま、気が向いたら連絡してよ」
「わかった。あ、でも夕方以降はしないようにするから」
「アハハ! 気にしなくていいって。そもそも売り専してるのだって食事のためだし。それに、客を取って食事するのも一旦お休みかなぁって思ってるところなんだよね」
「……もしかして変な客に捕まったのか?」
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「一カ所に留まらないように間隔を開けてねぐらを変えてたんだけど、この間うっかり昔の客に姿を見られちゃってさ。面倒なことになったら嫌だから、しばらく客取るのはやめようと思って」
「昔の客?」
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「ギョッとって……」
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「姿は変えられないけど……って、そっか。吸血鬼は変えられるもんね。僕らは死ぬまでピチピチの姿ってだけ。そういや丹桂さん、ここ十年くらいは同じ姿だった気がするなぁ」
「……そう、なんだ……」
実際に見たことはないが、どうやら優一は本当に見た目を変えることができるらしい。そして目の前にいるメイも見た目と実年齢が違うらしいことにショックを受けた。てっきり自分と同じくらいの年齢だと思っていたが、優一と同じようにとんでもなく年上なのかもしれない。そう思った拓巳は、恐る恐る「おまえ、ほんとはいくつなんだ?」と訊ねた。
「うーん、四十年は過ぎてるかなぁ。歳なんていちいち数えないから忘れちゃった」
「……そうなんだ」
「僕がトウキョウをねぐらにしたのって、生まれて十四年目くらいからなんだけど……あっ! そういやその頃、偉い人が死んだとかで街中に旗が並んだことがあったっけ。そういや、どこかの国の大きな壁が壊れたとか戦争が終わったとか、そんなことも言ってた気がする」
それが何年前の何という出来事か拓巳にはわからない。携帯デバイスで調べればすぐにわかるかもしれないが、そこまでしてメイが何歳か知りたいわけでもなかった。拓巳は携帯デバイスをそっとポケットに仕舞った。
「僕の年齢が気になる?」
「……いや、気にしないようにする」
「アハハ。でも、そのほうがいいかもね。丹桂さんもだけど、僕らと人の年齢や寿命はまったく違うからさ。ま、そのうちタクミも気にならなくなるよ」
そんなものなんだろうかと思いながらも小さく頷くだけにとどめた。
「で、メイはこれからどうするんだよ。客取らなくても平気なのか?」
「まぁ、そこはどうにかなるっていうか……」
「なんだよ、歯切れが悪いな」
「あー……うん。ちょっとね、気になる人がいてさ」
「気になる人?」
「うん……αなんだけど、ちょっとね」
「アルファって、もしかして運命ってやつか? まさか、つがいってやつ?」
拓巳の言葉にメイが慌てて「違うって」と首を振った。
「僕のことはいいからさ、タクミは自分のこと考えなよ……って、丹桂さんが相手なら考えなくても問題ないだろうけど」
「……それっていいことなのかな」
「いいんじゃない? だってタクミ、これまで大変だったんでしょ?」
三人目の客と寝た翌日、急に虚しくなった拓巳はちょうどいま座っているベンチに腰掛けチャイナストリートを眺めていた。そんな拓巳に声をかけてきたのがメイで、そのとき自分の過去について少し話したことを思い出す。
「大変っていうか……クズだなって思ってはいるけど」
「アハハ! タクミからクズって聞くの、何度目だろ。周りは全部クズだって見るとたしかにおもしろいけど、タクミはクズじゃないじゃん」
「俺だってクズだよ」
「前はクズだったかもしれないけど、いまはΩになってαとつがった。しかも運命だよ? クズどころかダイヤモンドだ。人生捨てたもんじゃなかったってことだよ」
「そうかな」
「そうだって。少なくとも僕から見ればうらやましい限りだよ」
「メイ……?」
最後のほうは声が小さくて聞き取れなかった。聞き返した拓巳にニコッと笑ったメイが立ち上がる。
「じゃ、僕そろそろ行くね。あ! せっかく連絡先交換したんだから、たまにはメッセージくらい送ってよね」
「わかった」
もう一度ニコッと笑ったメイの後ろ姿を見ながら、拓巳は自分がこれまでとまったく違う世界に入り込んだような気分になっていた。
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しかし鷹倫が惹かれた人は、運命どころかΩでもないβの電気工事士の苳也(とうや)だった。
※こちらの作品は「男子高校生マツダくんと主夫のツワブキさん」内で腐女子ズが文化祭に出版した同人誌という設定です。


白い部屋で愛を囁いて
氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。
シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。
※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。
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