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28 重い空気
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暗く重い空気のなか、ひとまず夕餉を先に済ませることを提案した。このままでは虹淳様がお腹を空かせてしまうだろうし、立ち話で済むような話じゃないと思ったからだ。
弘徳様には煮卵を届けてくれるように頼んでから、わたしも急いで自分の夕餉を取りに行き虹淳様の部屋に向かった。いつも一緒に食べているのに急に一人にしたら不安がるかと思ったからだ。
ところがそんな心配は必要なかったようで、部屋に入るとニコニコした美少女が箸を使って煮卵をぱくりと食べていた。それを少し離れたところから見つめる弘徳様は感極まっているのか、眼鏡を外して何度も袖口で目元を拭っている。わたしはというとテーブルの向かい側に膳をおいてから、「箸を使うのもすっかり慣れてきたなぁ」と感心しつつ肉を載せた粥を食べながら皇子様のことを考えた。
(もしかして紅花さん以外にも探ってた人がいたってことなのかな)
新しい妃を後宮に入れることに熱心だったみたいだから、ほかにも手足になる侍女を送り込んでいるのかもしれない。そのうちの誰かが何か見つけて紅花さんのお父さんに報告したのだろう。
四年前に亡くなった双子の皇子様が当時一歳だったということは、生きている皇子様はいま五歳ということだ。皇帝陛下にはほかに皇子様がいないから、その皇子様が皇太子になるに違いない。
(そうなると新しい妃が来ても皇太子のお母さんにはなれないってことよね)
それを何とかするために皇子様を探し出しているに違いない。
これじゃまるで後宮の争いみたいだ。これまでいろんな噂話は聞いてきたけれど、まさか自分がそんな争いに関わることになるなんて思ってもみなかった。「関わりたくはないけど、でもなぁ」と思いながら行儀悪く粥をかき込む。
「それじゃあ虹淳様、しばらく書物を読んでいてください」
お腹いっぱいで満足げな虹淳様にそう話すと、読みかけの書物を手に取り「うん」と頷いた。
「あとで水蜜桃のお茶を持って来ますね」
「……桃のお茶」
煮卵をたらふく食べた直後だというのに虹淳様の目が光っているように見える。水蜜桃のお茶は甘い桃の香りがするからか、最近はこのお茶をとくに好んで飲むようになった。
ほかに月餅や芝麻球も気に入ったみたいで、この間はサンザシの飴かけも満面の笑みを浮かべながら食べていた。どれも紅花さんが作るもので、わたししかいなかったらこんなふうにいろんなものを食べることもなかっただろう。
(紅花さんがいてくれるから虹淳様も毎日楽しそうにしてる。紅花さんだってようやく平穏に暮らせるようになったのに、それを壊すようなことが起きるなんてあってほしくない)
そう願いながら膳を持って台所へと向かった。後ろには神妙な顔に戻った弘徳様がついて来る。
「紅花さん、食事終わりました」
声をかけながら台所に入ると、いつもどおり片付けを終えた紅花さんの後ろ姿があった。自分の使った食器を洗い、その隣で明日の朝餉の仕込みを紅花さんがやる。隣の休憩室で弘徳様が待っていること以外はいつもどおりだ。
片付けや仕込みが終わると、お茶を用意して休憩室に入った。わたしと紅花さんは隣同士で座り、向かい側に難しい顔をした弘徳様が座っている。
「皇子様のことが知られたって本当なんですか?」
重苦しい空気をどうにかしたくてそう尋ねた。一瞬眉を寄せた弘徳様が小さく頷く。
「それって、やっぱり……」
「あの男の仕業でしょうね」
紅花さんがそう答えた。
「断言はできませんが、陽候王氏に繋がる縁者の誰かから情報提供があったらしいという話を耳にしました。いま上層部は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっています」
「そんなにすごいんですか?」
「一見すると普段どおりに見えますが、陛下の側近たちは情報収集に走り回っています。箝口令が敷かれているものの、普通じゃない雰囲気に何かを感じている人たちも多いでしょう。後宮でも宦官の一部、それに各宮の妃たちの耳にも入っていると考えておいたほうがよいでしょうね」
ちらっと隣を見ると紅花さんがクッと唇を噛んでいた。きっと黄妃様のことを考えているに違いない。黄妃様には恩を感じているようだったし、そのために命を投げだそうとしていたくらいだ。内心穏やかじゃないことは想像できる。
「あの男が知ってしまったということは、皇子殿下はきっとお命を狙われるわ」
「その懸念は上層部も気づいていると思います」
弘徳様の言葉に「え?」と視線を向けた。
「それなら偉い人たちが紅花さんのお父さんを止めればいいんじゃ……」
「それができるなら後宮の争いは生まれないわ」
「どういうことですか?」
わたしの質問に紅花さんが「それが貴族社会なのよ」と表情を変えることなく答えた。
「たとえ陛下のご命令があったとしても、あの男は目的を果たすまで諦めないわ。それに間者はいくらでもいる。誰かに汚れ仕事をさせても自分は捕まらないように用意もしているわ」
「そんな……」
「それが貴族というものなの。力を持てば持つほど、そういうことに用意周到になるものよ」
「西方域節吏使である陽候王氏は帝国内でも有数の大貴族です。一族の長は西方にいても、帝都内には弟をはじめ身内がしっかりと目を光らせています。陛下の側近や宦官の中には彼らに懐柔されている者もいるでしょう。そういった者たちはよからぬ企みに気づいても口をつぐむでしょうし、捕らえるのは難しいでしょうね」
「でも、何か証拠があれば」
「いいえ、無理です。たとえ決定的な証拠が見つかったとしても、紅花が言ったとおり身代わりの首を切って終わりにするだけです」
弘徳様の説明に段々と腹が立ってきた。悪いことをしても捕まるどころか見逃されたり、捕まっても身代わりを立てて終わりだなんて酷い話だ。わたしたち庶民は大して調べられることもないまま捕まることもしょっちゅうだというのに、貴族は捕まるどころか平気で悪いことができるなんて、そんなおかしな話があっていいはずがない。
そう思っていても現実がそうなら、どうにもならないことは理解できた。それが悔しくて両手で拳を握る。
「それじゃあ皇子様は……」
「御子のお命がどうなるかは正直わかりません。どなたにかくまわれているのかまでは突き止められていないようですが、それも時間の問題でしょう。黄妃様は……さぞおつらい状況でしょうね」
「……黄妃様」
掠れた声でそうつぶやいた紅花さんがそっと目を閉じた。きっと黄妃様のことを思っているのだろう。
(大変な状況だってことはわかった。それでも何とかしないと)
まだ五歳の皇子様が命を狙われている状況も嫌だし、紅花さんが苦しむのを見るのもつらかった。それに何かが起きたとき紅花さんが巻き込まれないとも限らない。紅花さんも虹淳様も平穏な日々を過ごしているだけなのに、それが一瞬にして壊れてしまうかもしれないと思うと、やっぱり無性に腹が立った。
(とにかく皇子様を助けないといけないってことよね)
紅花さんのお父さんたちは身内の娘を新しい妃にしたがっている。それなのに追い出すはずの黄妃様に皇子様がいたら追い出せなくなる。もしその皇子様が皇太子になれば黄妃様が皇后様になるのだろうから、それも気に入らないに違いない。
(黄妃様を追い出して、さらに皇太子になりそうな皇子様をどうにかしたいってことか。……待って、もし皇子様が黄妃様の子どもじゃなかったら何とかできるんじゃないの?)
別の妃の子どもにすれば何とかなるんじゃ……そう閃いたものの、やっぱり駄目だと思った。皇帝陛下にはほかに皇子様がいないから、どっちにしても皇子様の命は危険にさらされる。それにいまさら皇子様じゃなかったなんて言ったところで、何人もの間者を送り込むような人が納得するとも思えない。
(命を狙うのを諦めさせる方法ってないのかな……。皇子様が皇帝陛下くらい大事な子どもだったら、きっとどんな貴族も命を狙うことはできなくなるはずなのに)
皇帝陛下くらい大事な存在……。
「って、いるじゃない」
突然そうつぶやいたわたしに弘徳様が眉をひそめた。「阿繰」と訝しんでいるような顔でわたしを見ている。
「とにかく皇子様の命が狙われないようになればいいんですよね?」
「それはそうですが……って、あなた何を考えているんです?」
「たとえば皇子様が皇帝陛下くらい大事な存在なら、いくら紅花さんのお父さんでもさすがに命を狙うなんてことはできなくなると思うんです」
わたしの話に弘徳様がますます眉を寄せた。紅花さんも意味がわからないというような顔をしている。
「それなら、竜妃様が生んだ皇子様にすればいいんじゃないですか?」
弘徳様には煮卵を届けてくれるように頼んでから、わたしも急いで自分の夕餉を取りに行き虹淳様の部屋に向かった。いつも一緒に食べているのに急に一人にしたら不安がるかと思ったからだ。
ところがそんな心配は必要なかったようで、部屋に入るとニコニコした美少女が箸を使って煮卵をぱくりと食べていた。それを少し離れたところから見つめる弘徳様は感極まっているのか、眼鏡を外して何度も袖口で目元を拭っている。わたしはというとテーブルの向かい側に膳をおいてから、「箸を使うのもすっかり慣れてきたなぁ」と感心しつつ肉を載せた粥を食べながら皇子様のことを考えた。
(もしかして紅花さん以外にも探ってた人がいたってことなのかな)
新しい妃を後宮に入れることに熱心だったみたいだから、ほかにも手足になる侍女を送り込んでいるのかもしれない。そのうちの誰かが何か見つけて紅花さんのお父さんに報告したのだろう。
四年前に亡くなった双子の皇子様が当時一歳だったということは、生きている皇子様はいま五歳ということだ。皇帝陛下にはほかに皇子様がいないから、その皇子様が皇太子になるに違いない。
(そうなると新しい妃が来ても皇太子のお母さんにはなれないってことよね)
それを何とかするために皇子様を探し出しているに違いない。
これじゃまるで後宮の争いみたいだ。これまでいろんな噂話は聞いてきたけれど、まさか自分がそんな争いに関わることになるなんて思ってもみなかった。「関わりたくはないけど、でもなぁ」と思いながら行儀悪く粥をかき込む。
「それじゃあ虹淳様、しばらく書物を読んでいてください」
お腹いっぱいで満足げな虹淳様にそう話すと、読みかけの書物を手に取り「うん」と頷いた。
「あとで水蜜桃のお茶を持って来ますね」
「……桃のお茶」
煮卵をたらふく食べた直後だというのに虹淳様の目が光っているように見える。水蜜桃のお茶は甘い桃の香りがするからか、最近はこのお茶をとくに好んで飲むようになった。
ほかに月餅や芝麻球も気に入ったみたいで、この間はサンザシの飴かけも満面の笑みを浮かべながら食べていた。どれも紅花さんが作るもので、わたししかいなかったらこんなふうにいろんなものを食べることもなかっただろう。
(紅花さんがいてくれるから虹淳様も毎日楽しそうにしてる。紅花さんだってようやく平穏に暮らせるようになったのに、それを壊すようなことが起きるなんてあってほしくない)
そう願いながら膳を持って台所へと向かった。後ろには神妙な顔に戻った弘徳様がついて来る。
「紅花さん、食事終わりました」
声をかけながら台所に入ると、いつもどおり片付けを終えた紅花さんの後ろ姿があった。自分の使った食器を洗い、その隣で明日の朝餉の仕込みを紅花さんがやる。隣の休憩室で弘徳様が待っていること以外はいつもどおりだ。
片付けや仕込みが終わると、お茶を用意して休憩室に入った。わたしと紅花さんは隣同士で座り、向かい側に難しい顔をした弘徳様が座っている。
「皇子様のことが知られたって本当なんですか?」
重苦しい空気をどうにかしたくてそう尋ねた。一瞬眉を寄せた弘徳様が小さく頷く。
「それって、やっぱり……」
「あの男の仕業でしょうね」
紅花さんがそう答えた。
「断言はできませんが、陽候王氏に繋がる縁者の誰かから情報提供があったらしいという話を耳にしました。いま上層部は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっています」
「そんなにすごいんですか?」
「一見すると普段どおりに見えますが、陛下の側近たちは情報収集に走り回っています。箝口令が敷かれているものの、普通じゃない雰囲気に何かを感じている人たちも多いでしょう。後宮でも宦官の一部、それに各宮の妃たちの耳にも入っていると考えておいたほうがよいでしょうね」
ちらっと隣を見ると紅花さんがクッと唇を噛んでいた。きっと黄妃様のことを考えているに違いない。黄妃様には恩を感じているようだったし、そのために命を投げだそうとしていたくらいだ。内心穏やかじゃないことは想像できる。
「あの男が知ってしまったということは、皇子殿下はきっとお命を狙われるわ」
「その懸念は上層部も気づいていると思います」
弘徳様の言葉に「え?」と視線を向けた。
「それなら偉い人たちが紅花さんのお父さんを止めればいいんじゃ……」
「それができるなら後宮の争いは生まれないわ」
「どういうことですか?」
わたしの質問に紅花さんが「それが貴族社会なのよ」と表情を変えることなく答えた。
「たとえ陛下のご命令があったとしても、あの男は目的を果たすまで諦めないわ。それに間者はいくらでもいる。誰かに汚れ仕事をさせても自分は捕まらないように用意もしているわ」
「そんな……」
「それが貴族というものなの。力を持てば持つほど、そういうことに用意周到になるものよ」
「西方域節吏使である陽候王氏は帝国内でも有数の大貴族です。一族の長は西方にいても、帝都内には弟をはじめ身内がしっかりと目を光らせています。陛下の側近や宦官の中には彼らに懐柔されている者もいるでしょう。そういった者たちはよからぬ企みに気づいても口をつぐむでしょうし、捕らえるのは難しいでしょうね」
「でも、何か証拠があれば」
「いいえ、無理です。たとえ決定的な証拠が見つかったとしても、紅花が言ったとおり身代わりの首を切って終わりにするだけです」
弘徳様の説明に段々と腹が立ってきた。悪いことをしても捕まるどころか見逃されたり、捕まっても身代わりを立てて終わりだなんて酷い話だ。わたしたち庶民は大して調べられることもないまま捕まることもしょっちゅうだというのに、貴族は捕まるどころか平気で悪いことができるなんて、そんなおかしな話があっていいはずがない。
そう思っていても現実がそうなら、どうにもならないことは理解できた。それが悔しくて両手で拳を握る。
「それじゃあ皇子様は……」
「御子のお命がどうなるかは正直わかりません。どなたにかくまわれているのかまでは突き止められていないようですが、それも時間の問題でしょう。黄妃様は……さぞおつらい状況でしょうね」
「……黄妃様」
掠れた声でそうつぶやいた紅花さんがそっと目を閉じた。きっと黄妃様のことを思っているのだろう。
(大変な状況だってことはわかった。それでも何とかしないと)
まだ五歳の皇子様が命を狙われている状況も嫌だし、紅花さんが苦しむのを見るのもつらかった。それに何かが起きたとき紅花さんが巻き込まれないとも限らない。紅花さんも虹淳様も平穏な日々を過ごしているだけなのに、それが一瞬にして壊れてしまうかもしれないと思うと、やっぱり無性に腹が立った。
(とにかく皇子様を助けないといけないってことよね)
紅花さんのお父さんたちは身内の娘を新しい妃にしたがっている。それなのに追い出すはずの黄妃様に皇子様がいたら追い出せなくなる。もしその皇子様が皇太子になれば黄妃様が皇后様になるのだろうから、それも気に入らないに違いない。
(黄妃様を追い出して、さらに皇太子になりそうな皇子様をどうにかしたいってことか。……待って、もし皇子様が黄妃様の子どもじゃなかったら何とかできるんじゃないの?)
別の妃の子どもにすれば何とかなるんじゃ……そう閃いたものの、やっぱり駄目だと思った。皇帝陛下にはほかに皇子様がいないから、どっちにしても皇子様の命は危険にさらされる。それにいまさら皇子様じゃなかったなんて言ったところで、何人もの間者を送り込むような人が納得するとも思えない。
(命を狙うのを諦めさせる方法ってないのかな……。皇子様が皇帝陛下くらい大事な子どもだったら、きっとどんな貴族も命を狙うことはできなくなるはずなのに)
皇帝陛下くらい大事な存在……。
「って、いるじゃない」
突然そうつぶやいたわたしに弘徳様が眉をひそめた。「阿繰」と訝しんでいるような顔でわたしを見ている。
「とにかく皇子様の命が狙われないようになればいいんですよね?」
「それはそうですが……って、あなた何を考えているんです?」
「たとえば皇子様が皇帝陛下くらい大事な存在なら、いくら紅花さんのお父さんでもさすがに命を狙うなんてことはできなくなると思うんです」
わたしの話に弘徳様がますます眉を寄せた。紅花さんも意味がわからないというような顔をしている。
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