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 紅花ホンファさんの告白に、わたしも弘徳こうとく様もしばらく何も言えなかった。わたしには遠い世界のような話で何を言ったらいいのかわからないし、逆に弘徳こうとく様は状況がよくわかるせいで何も言えないに違いない。
 そんなわたしたちを見た紅花ホンファさんが、もう一度「もう疲れたわ」と口にした。

「後宮から逃げ出せたとしても、どうせわたしに行くところなんてない。それに逃げ出したことをあの男が知ればすぐに追っ手が来る。その後どうなるかなんて火を見るより明らかよ。それならこのまま後宮で捕らえられたほうがましかもしれないわね」
「帝室の方々への暗殺は、たとえ未遂や計画段階であっても極刑になります。上級侍女のあなたなら当然知っていますよね?」
「えぇ、知ってるわ」
「わかっていて、敢えて話したということですか?」
「だって、この命がある限りあの男からは逃れられないんだもの。そんな命、後生大事にしていても仕方がないじゃない。それならあなたたちに何もかもぶちまけて終わりにしたほうがいいかと思ったのよ」

 紅花ホンファさんが「あの男と関わるのはもう疲れたわ」と上級侍女らしからぬ笑みを浮かべている。

(そんなふうに笑うしかないくらい追い詰められてたってことなんだ)

 わたしが生まれ育った街もそこそこ酷い環境だった。金銭を得るために子どもを売る親もいれば、犯罪の片棒を担がせる親もいた。それでも紅花ホンファさんのように、売った先でまで犯罪をさせようという親はいなかった気がする。

(その日食べることに精一杯で先のことなんて考える余裕がなかったってのもあるんだろうけど)

 貧しい民でさえそうなのに、紅花ホンファさんの父親は母親ごと捨てた娘を自分たちの欲のために連れ戻した。そして捕まれば命を失う役目を負わせて後宮に押し込めたのだ。父親だという男の行為も、そんな男に使われることに疲れて命を終える方向に自ら動こうとしている紅花ホンファさんも、わたしには愚かで悲しい人にしか見えない。

(貴族も後宮も全然幸せそうに見えないじゃない)

 毎日ご飯が食べられて上等な服を着て、寒くない綺麗な家に住むことができるのに幸せには見えなかった。皇帝陛下の次に大事だと言われている虹淳コウシュン様だってあんな状態で、皇帝陛下も想像していたような強い人じゃなかった。

(妃たちだって子どもを生まないといけないだとか皇帝陛下のお渡りがないといけないだとか、いつも大変そうだし)

 そんな妃に仕える侍女も、準備をしたり駆け引きをしたりと大変そうだ。そうなると何も考えなくていい下っ端下女が一番幸せな気がしてくる。

(やっぱり下女のままが一番よかったってことかぁ)

 下っ端下女から侍女になるなんてすごい出世なんだろうけれど、こういう面倒くさいことに巻き込まれるのは最悪だと思った。主が手のかからない美少女で、皇帝陛下のお渡りだとか妃同士のあれこれだとかに巻き込まれないだけましなものの、このままじゃ絶対に面倒くさいことになる。

(後宮の墓場って呼ばれるようなここが一番平和だったはずなのに)

 ふと思ったことに「そっか、墓場か」と閃いた。

(ここには後宮の誰も近づかない。ってことは、後宮の外の人もここの中のことはわからないってことよね)

 つまり、ここは秘密を隠すのに最適な場所ということだ。

(それに、どうせ巻き込まれるなら少しでも自分に都合がいいほうがいいし)

 この状況でそんなことを考えるのはよくないのかもしれないけれど、一生を後宮で暮らしていくためには平和な後宮勤めが続くようにしなくてはいけない。
「よし」と思ったところで「阿繰あくり」と低い声で呼ばれた。弘徳こうとく様を見ると、なぜか盛大に眉を寄せている。

「あなた、まさかまたとんでもないことを考えたりしていませんよね?」
「わたしがいつ、とんでもないことを考えたりしたりしたって言うんですか」

 わたしの言葉に弘徳こうとく様がじろりと鋭い視線を投げてくる。

「陛下を地面に転がそうと考えた挙げ句、本当にやってのけたことを忘れたんですか?」

 弘徳こうとく様の言葉に紅花ホンファさんがギョッとしたような目でわたしを見た。慌てて「誤解ですから」と首を横に振る。

「コソコソ覗き見してた不審人物を捕まえようとしただけです。それにあんな覗き見野郎が皇帝陛下だなんて誰も思ったりしません」
「わからない振りをして『知りませんでした』と押し通そうとしただけでしょう?」

 白々しいと言わんばかりの弘徳こうとく様に「もういいじゃないですか」と少しだけ頬を膨らませる。

「結局お咎めもなかったんですし、いまさら蒸し返さないでください。それにあのことがあったおかげで虹淳コウシュン様の身の回りが改善されたんですから、よかったってことでいいじゃないですか」
「それは結果論です。一応あなたは虹淳コウシュン様の侍女なんですから、あんなふうに後先考えずに行動するのはよくありません。そもそも、あなたという人は……」

 延々と続きそうな説教を「わかってますって」と無理やり遮った。そうして「だから、侍女はわたし一人じゃ駄目だなぁと反省したんです」ともっともらしいことを口にする。

「どういうことです?」

 訝しむようにわたしを見る弘徳こうとく様に、「だから、ちゃんとした侍女に来てもらったほうがいいんじゃないかと思ったんです」と答えた。

「ということで、紅花ホンファさんに虹淳コウシュン様の侍女になってもらったらどうかと思うんですけど」
「……何ですって?」
「だから、上級侍女の紅花ホンファさんに虹淳コウシュン様の侍女になってもらうんです。そのほうがわたし一人よりずっといいはずですし、侍女が二人いれば虹淳コウシュン様を一人きりにする時間も少なくなると思うんです」

 わたしの提案に、弘徳こうとく様はずり落ちた眼鏡を慌てて押し上げた。

阿繰あくり、何を言っているのかわかっているんですか?」
「もちろんです。そもそもわたし一人で虹淳コウシュン様のお世話を続けるのは難しいと思ってたんです。いまはいいかもしれませんけど、虹淳コウシュン様が何も知らないままでいいはずありませんしね。でも、下っ端下女だったわたしじゃ虹淳コウシュン様に何か教えるのは無理です。いまみたいな後宮の話もわたしにはわからないです。それに髪の毛だってわたしじゃうまく結えないし、行儀作法も字も教えることはできないし……」

 挙げればきりがない。それに、このままではよくないと弘徳こうとく様だってわかっているはずだ。

「だから、上級侍女の紅花ホンファさんに虹淳コウシュン様の侍女になってもらうのが一番だと思うんですけど」

 わたしの提案に弘徳こうとく様がグッと眉を寄せた。そうして小さく唸りながら口元に拳を当てて考え始める。

「少しいいかしら」

 それまで黙っていた紅花ホンファさんが、そう言ってわたしたちを見た。

「先ほどから口にしている『こうしゅんさま』というのは、どなたのことかしら?」
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