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10 学者宦官の弘徳

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 パチパチと目を瞬かせる虹淳コウシュン様に気づいた弘徳こうとく様が、わたしを見てさらに「しまった」という顔をした。竜妃様の前だということを忘れているのか、額に手を当てながら「こんなことでは駄目だ、冷静になれ」とか何とかブツブツつぶやき始める。
 そんな弘徳こうとく様をしばらく見ていた虹淳コウシュン様は、やっぱり興味がないのか再び桃を描き始めた。

(いつもどおりってことは平気ってことかな)

 わたし以外の人がいても怖がる様子はない。もし弘徳こうとく様に悪意があるなら、きっと嫌な顔をするなり顔を背けるなりするはず。

(そういう動物的な本能が竜にもあるのか知らないけど……)

 取りあえずこの人は大丈夫だと思うことにしよう。そう考え、まだブツブツ言っている弘徳こうとく様に声をかけた。

弘徳こうとく様、虹淳コウシュン様に確認したいことがあったんじゃないんですか?」
「え!? あ、いや、確かめたいというのはそういう意味ではなくて……」
「それじゃあ、新しい服は作ってもらえるんですね?」
「それは問題ありません。あぁ、そうではなくてですね……」

 また忙しなく眼鏡をクイクイと上げ始めた。そわそわと落ち着かない様子に「本当に変な宦官だな」と思っていると、「阿繰あくり」と少し固い声で名前を呼ばれた。

「竜妃様は本当に竜の化身でいらっしゃるのですか? 何か証のようなものはありましたか?」
「どういう意味ですか?」
「百年ほど前に竜妃様がお子を生んだという記録はありますが、竜の化身だという証についての詳細な記述はどこにもありません。見てわかる何かがあるのか、それとも不思議な力を使ったのか、そういった記録も残っていないのです。もし証があるのなら大変興味深く、あぁいえ、記録を残すためにも知っておきたいのです」

 また興味があると言いかけた。本当にこの宦官は大丈夫なんだろうか。そう思いながらも「竜の化身の証ねぇ」と考える。

(考えたところで、わたしにわかるはずないんだけど)

 たとえば虹淳コウシュン様が竜に化けられるのならそれが一番いい。でもそんなことはできない……たぶん。見た目はただの少女だし、竜らしい何かを見せることもなかった。

「そっか、鱗があったっけ」

 思わず口に出したものの鱗があるのは服で隠れる部分だ。宦官相手とはいえ、さすがに虹淳コウシュン様の肌を見せるのは駄目な気がする。「鱗のほかに何かあったかなぁ」とつぶやくと、虹淳コウシュン様が絵筆を止めてわたしを見た。

「うろこ、いる?」
「あるとありがたいですけど……って、虹淳コウシュン様?」

 筆を置いた虹淳コウシュン様が胸元をぐいっと引っ張り始めた。「何やってんですか!」と慌てて止めたところで、ちょうど胸がギリギリ見えない状態だということに気がつく。
 骨が浮いたような鎖骨に色っぽさはまったくない。それに見た目が少女っぽいからかいやらしい雰囲気もなかった。相手は後宮勤めの宦官だし、このくらいなら見せても大丈夫な気がする。

弘徳こうとく様が少女趣味だったら最悪だけど)

 チラッと弘徳こうとく様を見た。驚いてはいるものの下心があるようには見えない。「証なんてこれくらいしかないし」と考えたわたしは、くるりと振り返り「弘徳こうとく様、ちょっと」と手招きした。

「こちらに来てください」

 眉を寄せているのは竜妃様に近づくのが畏れ多いと思っているからだろうか。ほかの妃相手ならそうかもしれないけれど、これしか証拠らしいものはないのだ。そう思い「いいから、こっちに来てください」とやや乱暴に声をかけた。
 ようやく弘徳こうとく様が部屋に入ってきた。ところがテーブルに近づいたところで足を止めてしまう。

(もうちょっと近づいてほしいんだけど……陽が当たればギリギリ見えるかな)

 窓から差し込む朝陽がちょうど虹淳コウシュン様に当たっている。はだけた部分にも当たっているから、これならきっと光って見えるはず。そう思いながら「ここ、見てください」と虹淳コウシュン様の鎖骨あたりを指さした。

「……これは、」

 一瞬ギョッとしたものの肌が光っていることに気づいたのだろう。眼鏡をクイッと上げた弘徳こうとく様が食い入るように肌を見つめた。

「もしかして……鱗、ですか?」
「はい、鱗です」
「……鱗の生えた人なんて聞いたことがありません」
「わたしもです。でも間違いなく鱗です。触って確かめたので間違いないです」
「触った!? 竜妃様の肌に触れたんですか!?」
「そりゃあ侍女ですから、湯浴みのときに触ることもあります。……って、何で顔を赤くしてるんですか?」
「え!? あ、いえ、何でもありません」

 何か妙な想像でもしているんじゃないだろうなと睨みつつ「これが竜の証です」と改めて指をさした。まだ頬を赤らめている弘徳こうとく様は、それでも真面目な顔をして何か考えるように上目遣いになる。

弘徳こうとく様?」
「……たしかにこの方は竜妃様なのでしょう。竜像叢書りゅうぞうそうしょという古い書物に『竜の化身は輝く鱗に肌を覆われている』という記述があります。てっきりただの伝承か眉唾だと思っていましたが、まさか本当だったとは……」

 弘徳こうとく様の言葉に白い肌を見た。朝陽が反射しているからか神々しく見えなくもない。

「応竜宮に竜妃様がいらっしゃること、たしかに確認しました」

 変な宦官ではあるけれど話が通じる人でよかった。ホッと胸をなで下ろしていると「ところで」と言葉が続いた。

「人手の希望はありますか?」
「人手って、新しい侍女が必要かってことですか?」
「侍女でも下女でもかまいませんが」
「あー……」

 本当は必要に違いない。なんたって竜の化身のお世話だ。この先もずっとわたし一人というのは無理がある。
 それでも「必要ないです」と答えた。もし本物の侍女が来ればわたしはお払い箱になる。下女として引き続き働くことはできるかもしれないけれど、そばにいられなくなるのは何となく嫌だった。

虹淳コウシュン様のことをちゃんと考えてくれる侍女ならいいけど、どんな人が来るかなんてわからないし)

 そもそも虹淳コウシュン様に仕えたい侍女がいるとも思えなかった。後宮の墓場に自ら好んで来る侍女はいないだろうし、そんなところに無理やり来てもらったところで虹淳コウシュン様のためになるとも思えない。

(また食事は必要ないとか変なことを吹き込まれても困るしね)

 食事のことは結局何だったのかわかっていない。誰かに言われたのか、それとも本当に竜の化身だから食事をしなくてもいいと思い込んでいたのかわからないままだ。でも、嬉しそうに果物を食べる虹淳コウシュン様を見る限り食べたほうがいいと思っている。それをまた邪魔されるのはやっぱり嫌だ。

「それはよかった」
「はい?」

 弘徳こうとく様の言葉に首を傾げた。わたしより後宮のことを知っている宦官が、竜妃様の侍女がわたし一人でいいなんて判断するとは思えないからだ。

「竜妃様のことはまだ公にしないほうがよいと思います」
「どういうことですか?」
「こうして実際に竜妃様がいらっしゃるのに、何の記録もないというのは本来あってはならないことです。そもそも後宮には歴代の妃たちに関する詳細な記録を残す義務があるというのに、竜妃様に関するものだけやけに少なすぎる。なぜだろうと疑問に思っていましたが、おそらく意図的に隠されているか破棄されたのでしょう」
「意図的にって」
「竜妃様は陛下の次に大事な存在です。それなのに記録がないということは意図してそうなっているということです。なぜそんなことになっているのか判明するまで、竜妃様が存在していることはできるだけ周囲に知られないほうがいいでしょう。万が一、ということがないとも言い切れませんからね」
「……なるほど」

 まるで後宮みたいな話になってきた。いや、ここは後宮なのだからそういう恐ろしい話は山のようにある。

(ただの下女なんだから、そういうのとは一生縁がないと思ってたんだけどなぁ)

 ところが気がつけばがっつりしっかり巻き込まれかけている。

(まぁ、もう知ってしまったわけだし、ここで放り出すのも何だしね)

 わたしたちの話にもまったく興味がないのか、虹淳コウシュン様はひたすら桃を描いていた。そんな姿を見ていると、せめて食事を満足に取れるようになるまで何とかしてやりたいと思ってしまう。それに不穏な状況だと知っているのに放り出すのは後味が悪い。

「わかりました。でも、もう食材のこととか宦官に話してしまいましたけど」
「それは大丈夫です。あなたはちょっとアレな侍女だと思われていますから」
「あれな侍女?」
「鳳凰宮で蛇を素手で捕まえたでしょう? あれにいろいろと尾ひれがついているんですよ」
「……最悪」

 顔をしかめるわたしに「衣服のことは任せてください」と弘徳こうとく様が断言した。

「大丈夫なんですか?」
「言い訳は何とでもなります。たとえば竜妃様への捧げ物だとか、そこに伝承の言葉をつけ加えれば大抵どうにかなるものです。後宮の内側のことには案外緩いんですよ」

 それでいいんだろうかと思わなくもないけれど、毎日食材が届くということはそういうことなんだろう。それに、今後は弘徳こうとく様に頼めば何とかしてくれるということだ。

(話が通じる人でよかった)

 それはよかったと思うけれど気になることもある。

弘徳こうとく様はこういうことして大丈夫なんですか? もし本当に何か理由があって虹淳コウシュン様の存在が隠されているんだとしたら、弘徳こうとく様も危なくないですか?」

 わたしの質問に弘徳こうとく様が眼鏡をクイッと押し上げた。

「わたしは小さい頃から竜の化身についてずっと調べてきました。わたしにとって竜の化身は憧れの存在、生きる目的と言ってもいい。帝都のあらゆる学問所に通い、学者の地位を得て皇宮の書庫にも通い詰めました。しかし満足できる書物にはたどり着けなかった。そこで後宮に所蔵されている書物を調べようと思って宦官になったのです」

 またもやクイッと眼鏡を上げ、キリッと前を見る。

「そして、ついに本物の竜の化身をこの目で見ることができました。ようやくです。ここからがわたしにとって本当の人生。竜妃様の身を守るための努力をするのは当然のことです」
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