燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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待望の新刊と作家の答え1

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 月日はたって、僕はあっという間に高校三年生になった。

 夏は苦手だ。蒸し暑いし、べったりとした汗がシャツと肌の間をゼロ距離にしてしまうから。

 建物が作る階段上に伸びた日陰をできるだけたどりながら、下校する。

「ただいまあ」

 家に帰ると、お帰りの声が帰ってこない。あーさんは留守みたいだ。
 多分、取材だろう。

 嬉しい気持ちが半分、寂しい気持ちが半分、アンニュイな気分で僕はため息をつく。
 最近、あーさんはとっても忙しいのだ。
 


 あーさんが僕のラブレターの返信になる『果て』が出版されたのは翌年の夏のことだった。

 純文学系の雑誌に掲載されたが、終始美しくもとっつきやすい文体で描かれた『果て』は、エンタメ小説を好む層にも広く受け入れられ、その評判は瞬く間に広がった。

 僕は『果て』を読んで、ただただびっくりした。

 『果て』はただただ、美しかったからだ。

 共依存状態になっていた恋人を事故で失った主人公が、恋人によく似た顔をもつ子供を引き取るという、まるで僕とあーさんの出会いをなぞったような、自伝的小説だった。

 生きるために必要なエネルギーを失い、体が空になってしまった主人公は大きくなるにつれ恋人に似た顔になっていく子どもに次第に心を奪われていく過程が丁寧に描かれていた。まるで瑞々しい感性を使って文字で緻密な刺繍を作り上げているかのようだった。

 その中でも、養育した子供と夜を共にするシーンは圧巻だった。えっちなシーンなのに、一切の低俗さを感じることはなかった。
 それはあまりにも、純粋で、綺麗で。まるで細部まで書き込まれた、精巧な宗教画を見た時のような高まりを感じた。

 読み終わって、本を閉じる瞬間、僕は走り出したくなるような、わあ~! っと叫び出したくなるような感情を覚えた。

 雪崩のような深い愛が書き綴られた文章は僕の体を簡単に熱くたぎらせた。
 読み手の目を、ここまで惹きつけて、かつ、読み終わりたくなくて。そこは確実に、あーさんの地道な執筆活動の『果て』に作り上げた世界だった。

 叶わないよ。
 僕なんかじゃ、絶対に叶わない。

 僕は自分が書いていたものの質の低さが、恥ずかしくてパソコンに入っているデータを全て消してしまいたくなるような衝動に追われた。

 あーさんの筆力は土砂降りの雨みたいだった。マンホールから溢れて、道を雨で満たし、足に雨水が染み込んで、いつの間にか体ごと飲み込まれて、身動きが取れなくなってしまっている。

 圧巻だ。

 自分のちょろちょろとしか水が流れない、壊れた蛇口のような文章力とつい比較をしてしまって、その差に愕然とする。

 僕が書いた濃いめだと思っていて書いた渾身の濡れ場だって、あーさんの書いたものと比べると、ものすごく薄味に感じられた。

 それもこれも全部、あーさんが文章を書き続けてきた積み重ねがあったからこそ書けたものだ。

 本業の純文学だけじゃない。
 あーさんが灰色の箱の中に入っていた、お金のためにプライドを捨てて書いた、あの官能小説を書いていなかったら、書けなかった文章だ。
 あの、灰色の箱がずっしりと重くなるくらいの量の本達は、あーさんを作家として一皮剥けた存在へと成長させたのだ。

 直接的な表現を出さなくても、読む人に想像力で補完されることで、より情景が鮮やかに描かれる。

 もちろん『果て』に描かれていることは僕たちのことをモチーフにしていたとしても、フィクションだ。

 他の人が僕とあーさんの実際の関係を知ったら、行為の正当化だと罵るかもしれない。

 でも、だからなんだと僕は思う。

 これがラブレターの返信だってことは僕と、 あーさんだけが知っていればいいことだから。

 きっとこんな熱烈なラブレターの返信をもらった人、この世にいないんじゃないかな。


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