燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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禁煙の理由2

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「ああ、あいつ、ヘビースモーカーだからな。それで老けたんだろ。知らんけど」

 その言葉の意味が、一瞬理解できなかった。

「え? あーさんヘビースモーカーだったんですか? タバコ吸ってたのは知ってましたけど、すぐ辞められたっていってたから、ちょっとしか吸ってないものかと思ってました」
「またまた~。あのレベルでやめられるわけないじゃん」
「……僕、今まであーさんがタバコを吸っているところ一度もみたことないですよ?」
「一度も?」
「はい、一度も」

 赤坂先生は信じられないものを見るように、目を瞬かせた。

「あいつ、タバコやめられらんだなあ。あんなにバカバカ吸ってたのに」
「そんなに吸ってたんですか?」
「一日に最低二箱は吸うやつだったぞ?」
「えっ! そんなに?」

 今度は僕が目を瞬かせる番だった。そんなこと言われても、今のうちには灰皿すらない。

「ああ、そういえば。僕、生まれつき体が弱いから、それを気にしてやめたって言っていました」

 そういうと、赤坂先生の表情がふんわりと優しくなった。

「そうか……。周が子供を育てるって言った時はどうなるかと思ったが……覚悟を決めたんだな。その結果、名岡は立派に育った、と」

 赤坂先生は僕の成長を喜ぶ、親戚のおじさんみたいに目尻をさげた。その表情だけが、歳相応に見えた。



 放課後の帰り道。僕は水菜と豆腐を買うためにスーパーに立ち寄る。
 今日は水曜日。週の中頃、疲れがたまると、僕とあーさんは決まって鍋を囲む。
 作るのが楽だからだ。

「ただいまあ~」

 家に着くとあーさんはいなかった。もしかしたら今日は外で打ち合わせなのかもしれない。自分の部屋に入る前にキッチンに向かう。エコバッグに入っていたものを冷蔵庫に入れ終わったら、土鍋を用意する。

 土鍋に水を入れてから、あーさんが担当さんにもらったといっていた、お中元の乾燥ドンコを戸棚の奥から発見して、それを水につけて戻す。一緒に野菜室に入っていた日高昆布も五センチほどをキッチン鋏でカットして、放り投げる。

 今日の鍋はスタンダードに、昆布だしの鍋。水菜と豆腐と、椎茸が入ってるシンプルなメニューだ。

「ただいまあ」

 あーさんの声が玄関から聞こえてきた。
 いつも使っている、スペースグレーのMacBookが入る水色のストライプの布バッグを持ったあーさんは、今日は相当疲れているらしく、声が少し掠れている。

 もしかしたら、打ち合わせ後、外でそのまま作業して、筆が乗ってしまって、昼ごはんを食べていないでコーヒーだけですましちゃったのかもしれない。あーさんは調子が良すぎると、たまにそういうことをする。

 リビングのドアからひょこっと顔を出し、あーさんの様子を確認する。

「あれ? ヒト。まだ、制服? 着替えてねえの?」
「うん。今帰ってきたとこだから。今日鍋にしようと思って、先に出汁の用意を済ませてたんだ」
「そか? じゃあ、あと俺やるから着替えてこい、な?」
「えぇ……? いいよ。あーさん疲れてるでしょ?」
「いいのいいの。手ぇ洗うついでにパパッと切っちゃうから。ほら。退きやがれ」

 あーさんはそう言って、流しで手を洗いながら腰を僕にぶつけて僕を追いやろうとする。

「わわっ! 何、何!?」

 何気ないやりとりだけれど、小学生のじゃれあいみたいで、ちょっと嬉しい。
 自室に荷物を置き、ちゃっちゃか着替えを済ませてリビングに戻ると、あーさんは野菜を切り終わったところだった。

 僕はキッチンとリビングの空間を仕切っているカウンターテーブル下からカセットコンロを取りだす。
 ダイニングテーブルの真ん中にカセットコンロを置いたところで、鍋を持ってきたあーさんがその上に置く。

 あまりのタイミングの良さに二人で、ニッと笑みを交わし合う。

 何も言わなくても、行動が噛み合うこの瞬間がたまらなく好きだ。これは僕たちが一緒に暮らしてきた日々が作り出す阿吽の呼吸だから。

 材料はもう入れてあるので蓋を閉めたらやることはない。

 各自お決まりの席についた僕たちは、無言でくつくつ音を立てる鍋を見つめていた。

 暇だ。なんか喋ろう、そう思って先ほど思い立った疑問をあーさんにぶつけてみる。

「今日、あーさんのこと知ってる赤坂って人と話したよ」
「え、赤坂? なんで?」
「うちの学校に臨時教員で入ってきたの」
「あーあいつ、まだ教員やってたんだ……」

 あーさんは懐かしそうに、瞳を三日月型に細める。そこには気安さや歴史が滲んでいる気がする。ちょっとそれが気に入らない。

「赤坂先生、僕のお父さんのことも知っててびっくりしちゃった」
「だろうね。あいつ、仁和さんの金魚のフンだったもん」

 乾いた笑み。毒のある言い方だった。
 その言い方に、いつも荒っぽいけれど、本当はものすごく懐が深くて優しいあーさんから普段感じることのない排他的な雰囲気を感じる。微かにどきりと胸が高鳴った。

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