燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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メンソレータムのリップスティックとキャロットケーキと間接キス2

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 僕はなんとかこの空気を変えなければと言う気持ちで話題を変える。
 あーさんもそれを察したのか軽快なリズムで会話に乗ってきてくれる。

「あ……ありがとー。わーい。部屋が綺麗になっていいなあ」

 僕は好意を会話に滲ませないようにしなくちゃと深く反省した。

 僕がリップを塗り終わると、あーさんは僕の顎に親指と人差し指を添えて、くいっとあげるようにしながら唇を観察した。

 その後が問題だった。
 あーさんは親指の腹を僕の口に押し当てて、横にスライドさせた。まるで検分するみたいな眼差しだった。けれども、それが恋人にするような仕草に思えて、やたらと鼓動が早くなる。

 何、何、何!? 一体、なんのつもりなの。僕を殺すつもりなの!?

「……ん。ちゃんと塗れたな」

 あーさんは子供がきちんと塗布薬を塗れているか確認するみたいな言い方で言った。多分、そういう意味しかないんだと思う。

 でも、あーさんのことが大好きな僕にとって、その行為は恋人同士の親密さを連想させてしまう、攻撃力が高い動作だ。

「ねえ、あーさん……僕を殺すつもり? 心臓に悪いんだけど」
「心臓に⁉︎ なんだ、どうしたんだ、ヒト⁉︎ 大丈夫か」

 いや、自分がどんなときめきシチュエーションを作ったのか、何もわかってないんかーい。
 無自覚もここまでくると、へこむ。だってそれは、僕のことを家族だと、子供だと、養育すべき立場の人間だと思っているってことだから。

「何もわからないならいいよ……」

 僕は力が抜けた声で言う。

「なんだよ~ヒト。急にご機嫌斜めかよ。今日は随分めんどくせえな」

 ケラケラと笑いながら言うあーさん。めんどくさい……。好きな人の口から語られるマイナスな言葉は僕の思春期ハートに深く突き刺さった。

「めんどくさくてごめんなさいね」

 わかりやすく、不貞腐れる。多分、こう言うところが子供っぽいと言われる由縁だ。わかっている。わかっているけれど、感情が泡立って、それをうまく抑えられるだけの能力が僕にはない。

 僕A「今、どう切り返せばよかったですか?」
 僕B「大人の対応がふさわしかったでしょう」
 僕C「でもうまいやり方が思いつきません」

 ……はあ。十秒ほど自分会議を繰り返していると、怒りを通り越して悲しくなってきた。

 涙がじんわりと滲んできたので、あーさんにバレないようにストライプ柄のシャツの裾で拭う。

 あーさんは、このやりとりが面白かったのか、妙にニコニコしながら、キッチンへと向かっていく。
 あーさんの耳には今日もガーネットが鈍く光っていた。

 ——あのピアスをあーさんに渡した人はきっと僕みたいにめんどくさい子供じゃなくて、ちゃんと自分で生計を立てる、大人だったんだろうな。

 自己嫌悪に陥りながら、掃除機をかける。

 ぶおーという凄まじい音に思考が掻き消されてちょうどいい。一通り綺麗にした後、リビングのソファの上で膝を抱えてうだうだとしていると、パンッと冷蔵庫を閉める小気味のいい音が聞こえてきた。

「ほれ。ヒト。キャロットケーキ。掃除してくれた人にご褒美だ。朝焼いてアイシングが綺麗に固まるように冷やしておいたんだ」

 自慢げにあーさんは言う。自慢したくなく気持ちもわかるくらい、キャロットケーキのアイシングは変な段差もなく均一でプロみたいな仕上がりで、表面は真珠みたいに、美しい艶を放っていた。

 キャロットケーキは美味しい私をぜひ食べて、と主張しているに見える。僕はゴクリと唾を飲む。

「機嫌、直せよ。めんどくさいって言ってごめんな。これ、ヒトの大好物だろ」

 あーさんの言う通り、キャロットケーキは僕の大好物だった。だからこそ、あーさんが僕の機嫌をとったみたいで、ちょっとだけムカつく。

 そんな僕の心中を知る由もない、あーさんはケーキ皿と真鍮でできたフォークを手際良く用意する。
 朝、入れたコーヒーが入ったポットも持ってきて、理想的なおやつセットが目の前に展開される。

「食わねえの? こんなに美味そうなのに?」

 あーさんはニヤッと片口をあげ、悪い笑いを作る。

「食べるよ。……いただきます」

 僕は黙々とケーキを口に運ぶ。それをあーさんは嬉しそうに見ていた。
 本当に、本当に嬉しそうに穏やかに目線を下げて見ているのだ。
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