燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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メンソレータムのリップスティックとキャロットケーキと間接キス1

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 うららかで暖かい光が差しこむ日曜日の午前。こんなに気持ちが良い天気の日は久しぶりだ。

 最近秋の長雨で晴れない日が多かったから洗濯物も布団も干せずにいたからな。こんな日の光を利用しないなんてもったいない。

 僕は自分の部屋の掃除をあらかた済ませて、日が当たっているうちに布団干さなきゃと思いたち、リビングを通りベランダに掛け布団を持ち込む。

 リビングのソファーには明らかに疲れた様子のアーサンが伸びていた。

「あーさんも布団干す?」

 あーさんに尋ねると顔をしかめて手を振った。

「俺はいいや。俺、締め切り明けでちょっとくらっとしてるんだよね。布団干す元気がない」
「大丈夫? もうちょっと自分の部屋で寝てれば?」
「いや。でも今寝ると絶対体内時計狂うから寝ない。今寝たら絶対に夕方まで起きない自信がある」

 あーさんは目をギンっと光らせてこちらに視線をむけた。そんなキメ顔で言わなくとも……と思って僕は笑いをこぼしてしまう。

「あーさんて変な所頑固だよね」
「いやあ。夜型ってすごい集中できて小説も書きやすいんだけどさあ。ヒトと暮らすまでは俺も夜型生活だったし。……でも不健康だし、夜型になると学生生活してるヒトとはリズムが合わなくなるだろう?  だから今は寝ない」
 
 そんなあーさんの言葉を聞いて僕は嬉しいような切ないようなセンチメンタルな気持ちになる。
 そっか。あーさんは僕のために生活リズムを変えたんだ。夜、仕事すると机、叩いちゃうし。

 一人で暮らすのだったら夜型でも全然困らないのに僕と暮らすために生活を変えたんだなと思うとちょっと嬉しいけど、僕がいなかったら書けていたであろうお話がこの世に存在しなくなってしまったのではないかなぁと思い初めてしまうと、ちょっと微妙な気持ちになる。

 でもやっぱりあーさんは頑固でこうと決めたらそれを貫く人だからきっといつかこうなっていたんだろう。僕がいなくたってこの生活になっていたかもしれない。

「じゃあ、目が覚めるように濃いめのコーヒー入れてあげようか?」
「やったー! 俺、ヒトがいれるコーヒー大好き」

 大好き、と言う言葉がダイレクトに胸に刺さってしまい、僕の心臓はバクバクと重低音を鳴らす。慌てすぎて、キッチンの机に足をガンとぶつけた。

 あーさんはとんでもないことをいきなり言うから、心臓に悪い。

 落ち着け、あーさんの言葉に他意はない。

 キッチンの棚からいつもの湯沸用のやかんとは別のコーヒー用に注ぎ口が細くなった銅製のポットを取り出す。
 ガスコンロに火をつけ、お湯を沸かす。その間に、コーヒーフィルターを用意しなくちゃ。

 今日のコーヒーはモカ。
 ちょっと酸っぱいけど、あーさんはこの酸っぱさが好きだっていつも言っている。
 お湯が沸いた後、粉を入れたドリッパーの真ん中に人差し指で穴を開けて『コピ・ルアック』と、某映画に出てきたおまじないをしてから、お湯を注ぐ。

 ほこほこと湯気がたつ、コーヒードリッパーを眺めて泡が無くならないように、お湯を足す。

 泡を立てるコーヒーを見ていると心が和む。むにゃむにゃしながら唇をかみしめるとプチっと嫌な音と鋭い痛みが走った。

「やばっ。口、乾燥して切れた」
「大丈夫か?」
「縦に一直線。裂けちゃった」

 ポットを持っていない、左手で唇を軽く拭うと指先の腹が真っ赤に濡れる。思ったより血が出たらしい。慌てて、カウンターの上に置いてあったティッシュを押し当てて、止血する。

「あーれま……。最近ちょっと空気も乾燥してきたからなあ」
「まだ暑い日もあったから夏だと思ってたけど、もう秋になるんだ」
「で、俺が許可していないのに、勝手に冬になる」

 季節が巡るのは早いからな、といったあーさん。ちょっと待ってろよ、といって自分の作業部屋へと入っていった。

「ヒト、これ塗っとけ」

 あーさんは作業机からの上に置いてある真鍮製のトレイからメンソレータムのリップスティックを持ち出す。ほい、と投げるようにそれを手渡された。僕はそれを受け取りキャップを開けた。

 リップスティックは丸みを帯びていてあーさんが頃使っていたものだということがよくわかる。

 え、俺。本当にこれ使っていいの? 何のご褒美? 

 ……やばっこんなこと思うの、めちゃくちゃ気持ち悪いじゃん。

 湧き上がってきてしまう嬉しい気持ちを抑えながら動揺していることを悟られないように俺は口にリップを塗る。
唇がすーっとするのがなんだか恥ずかしい。

 こんな小さなことでドキドキしていたら、共同生活なんて送っていられない。
 僕は内心爆発してしまいそうな気持ちを重石で抑える。

「ありがと」
「うん。俺いつもこのトレイにリップスティック使ってて置いてあるから買うまで好きに使っていいよ」

 そう言ってあーさんはいつもみたいに優しく笑った。そうやって俺に俺を甘やかすの様子を見てまぁ俺は本当にこの人にとって家族でしかないんだなそういうことを感じさせられてしまう。

「うん。でも悪いから、早いうちに自分用、買うね」

 もしかしたらぶっきらぼうに聞こえてしまったのかもしれない。俺の顔を見たあーさんはあーと言いながら笑って

「いやさすがに俺と同じリップスティック使うのは嫌だか」

 とちょっと傷ついたみたいに笑った。

「や、やじゃないけどっ! 全然。全然やじゃないから!」

 僕は慌てて、反射的に言う。食い気味に言ったせいで、あーさんは鳩が豆鉄砲を喰らったような、なんだか気の抜けた表情をしていた。

「そ……そうか? なんか気を使わせちゃったみたいで悪いな……」

 まずい。微妙な気分と空気が部屋中に広がってしまっている。気を遣ってなんかないのに、否定をしたら余計気を遣っている感が加算されてしまった。
 こんなふうに気遣い屋さんが二人いる我が家には、たまに不幸のピタコラスイッチが起こる。

「あ! もうこんな時間じゃん。僕、軽くリビングの掃除するわ」
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