燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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遺影によく似た顔の僕5

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「ヒト、お前はお前の人生を生きろ。誰かのために、自分を犠牲にする必要はちっともないんだから」

 そう言ってあーさんは僕の頭に手をおき、そのまままた、ぐしゃりと撫で回した。

「わー! せっかく朝、綺麗にセットしたんだから、ぐしゃぐしゃに崩さないでよー!」
「ははっ! セットしたんか。色気付きやがって」

 くしゃくしゃに笑うあーさんの顔を見て僕の心の奥底はなんだか切なくなって、きゅっとしてしまう。

 ねえ、僕は同じセリフをあーさんに返してやりたいよ。
 
 あーさんの人生は僕を引き取ったことで、どれだけ失われたの?

 きっと僕を引き取るにあたって、いろんなことを諦めたはずだ。

 ……そういえば、この家に来てから、あーさんに恋人がいた気配を感じたことって全くないや。それどころか、出版社の編集さん以外の人が家にやってくるのも一切見たことがない。

 もしかしたら、僕に気を使ってうまく隠しているのかもしれないけど、それにしたって、気配がない。

 僕はこれでも、境遇的にいろんなことを気にして生きてきたから、勘は鋭い方だと思う。多分、あーさんがいいなと思っている人がこの部屋にきたらその雰囲気に気がつくはずだ。

 なのに、なのにだ。

 あーさんのことを好いている僕としてはこんなにありがたいことはないけど、それがあーさんが得るべき幸せを奪っていたのであれば、それは心が痛んでしまう。

「なんか、僕。わかってたけどあーさんに迷惑ばっかりかけてるよなあ……」

 ため息まじりにいうと、あーさんはパチリと目を開く。長く黒いのまつ毛がファサリと動いた。

「俺がヒトから何も得てないとでも思っているのか?」
「僕、何にもあげてないと思うんだけどなあ……」
「俺はヒトからいろんなもんを貰ってんだよ」
「例えば何?」

 あーさんは指折りながら楽しげに数える。

「まず、俺はヒトと出会ってからタバコをやめただろう? それだけで、大分金が貯まるようになったから、好きだったインテリア家具も揃えられるようになったし……。あとは、貧弱なヒトの体調が少しでもよくなるようにバランスのいい食事を作ろうと努力するようになったから、自分も体調が良くなったな」

 あーさんはいたずらな笑顔で八重歯を見せてにっと笑う。

「でもそれは『僕のせい』とも言えるでしょう?」
「『せい』じゃない。そういうのはおかげっていうんだ。誰かとの出会いが、少なからず自分の何かを変えて、少しずつ影響を与えていくんだ。誰かを大切にするってことは自分を大切にすることに繋がるから」
「理屈としてはわかるけれど、体感としてはイマイチ理解できないかも」

 僕がブー垂れて眉を寄せる。

「ヒトはまだそういうものに出会った数が少ないのかもしれないな。たくさん出会っていろんな感情を知って、成長すれば良いんだよ」

 それは年をそれなりに重ねてきた大人の言葉だった。そういわれてしまうと、途端にあーさんが遠くに行ってしまったような気分になる。

 あーさんは大人だ。そして僕は子供だ。

 僕が大人になったとしてもその分、あーさんは歳をとってしまう。この歳の差は永遠に埋まることはない。きっと僕が大人になった! と胸を張って言おうと思った時には、あーさんはこの世の全てを知り尽くした、仙人になっているに違いない。

 そうやって僕はずっと、追いつかないあーさんの背中を追い続けていくしかないのだ。

 ……なんか、途方もないな。泣きたくなる。

「ヒト。何泣きそうな顔してんだよ? ……学校、遅れるぞ?」

 時計を見ると、とうに登校予定時間を過ぎていた。

「あ! やばっ! 行ってきます!」

 椅子の横に置いてあった学校用の鞄を雑に持ち上げ、僕は玄関へと急ぐ。

「無理して走るなよ。遅刻してもいいから、体調が崩れないようにゆっくり行けよ」
「うん」

 すぐに調子が悪くなる僕のことを気遣うあーさんの言葉は優しかった。
 まだ朝食のトーストも食べ切っていないのにあーさんは玄関まで見送ってくれる。

「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」

 壁によりかかりながら、ゆったりと手を振るあーさん。
ああ、ずっと家の中であーさんと過ごせたらいいのに。学校行きたくないな、そんな気持ちを押しこんで、玄関を出て、外の世界へと進んでいく。

 通学路、見上げると空は気持ちよく晴れ渡っているのに、僕の心はどんよりしてしまう。

 あーあ。あーさんが同級生だったら良かったのに。そうしたら、一緒に学校に行ったり、勉強したり同じ目線で時間を共にできたのにな。

 そんな幻想じみたことを一人で考える。

 ……でも、もしそうだったら僕は両親が亡くなった時点で露頭に迷ってしまうけれどね。

 あーさんが大人だったから、僕は今一緒に暮らすことができている。それは確かな事実なのだ。

 今僕にできることは、この奇跡みたいな二人暮らしが、長く続くように願うことだけだ。



 でも今、僕は高校二年生。卒業なんか、もうすぐそこだ。

 僕が立派な大人になって、あーさんを支えられるようになるまで、あーさんに恋人ができなければ良いのに。

 醜い僕は、心からそう願ってしまうのだ。


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