花降る夜の相談室

因幡咲耶

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三夜目・花地蔵 其の二

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 夜の世界は好きではない。
 独りぼっちの夜の世界は冷たくて、酷く寂しいからだ。

 月明かりすらなくなった夜の世界は、ある程度夜目が利くはずの僕でも苦労するほど周りがよく見えなかった。本当に厄介だと思いながら、僕は目を凝らして周囲を見渡す。
 幸いにも、探し人はすぐに見付けることができた。真っ黒な電柱のシルエットにもたれかかるようにして、小さな影が蹲っていたのだ。
 試しに近付いてみれば、見覚えのある子供の姿が浮き彫りになる。彼のことは知っていた。以前、今にも泣きだしそうな顔で相談室を訪ねてきたことがあるのだ。名前は、確か──。

「ヒビヤ君」

 声を掛ければ、彼はびくりと肩を揺らして恐る恐る顔を上げた。

「……つぐみせんせぇ、」

 涙で濡れた顔に安堵が浮かんで、彼はふにゃりと眉根を下げる。初めて相談室に来てくれたあの日のように、どうしたらいいのかわからないというような途方に暮れた表情だった。

「つぐみ先生、なんでここに……?」

「レオ君が相談しに来てくれたんだ。君を連れ戻してほしいって」

「レオが……?」

 ヒビヤ君はしゃくりあげながら、戸惑ったように呟く。一体何時間この闇の中に居たのだろう、彼の顔はすっかり恐怖で青ざめてしまっていた。

「さ、帰ろう。いつまでもこんなところに居てはいけないよ」

 僕はヒビヤ君に手を差し伸べたが、予想に反して彼はかぶりを振った。帰りたくないのかと尋ねれば、帰りたいけど、と悲しそうに言われる。

「僕、帰り方、わからなくなっちゃった」

 ヒビヤ君の視線の先を追って、僕は息を呑む。彼の両足は闇と同化して黒く染まり、地面に縫い付けられてしまっていたのだ。

「僕、レオに酷いことを言ってしまったんだ」

 嗚咽を漏らしながら、ヒビヤ君は後悔を吐き出す。

「うっとうしいって、どっか行ってくれって言ってしまった。レオが傷付くってわかってたのに」

「ヒビヤ君……」

「学校で沢山友達ができて、嬉しくて、レオが寂しい思いをしているのに気付かないふりをしてしまったんだ。でも僕、間違ってた。レオには僕しか居ないのに。あんなこと言わないで、もっとレオと遊んでやればよかった」

 きっとレオ、怒ってる。ボロボロと零れる涙を拭って、ヒビヤ君はまた膝に顔を埋めてしまった。

「もう許してもらえないかもしれない。そう思ったら、足が動かなくなってしまった。僕、もうレオのところに帰れないんだ」

 ヒビヤ君が泣きじゃくるたびに、足の黒ずみが広がっていく。このままではさらに闇と同化して、本当に夜に囚われてしまうことだろう。
 そんなこと、許せるはずがなかった。ヒビヤ君には待っているものが居る。彼には、ちゃんと帰れる場所があるのだから。

「帰れるよ。君が望むなら」

 帰れないと泣きじゃくるヒビヤ君を、僕は優しく諭す。
 持ち上がった顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて、初めて会ったあの日と重なった。

「ねえ、ヒビヤ君。僕は、君がレオ君を相談室に連れてきたときのことをよく覚えているよ」

 彼の涙を拭ってやりながら、僕はあの日に思いを馳せる。

「怪我をしてぐったりしていたレオ君を助けたくて、君は僕を頼ってくれた。レオ君が元気になったとき、君はまるで自分のことのように喜んでくれたね。そんな君だから、レオ君もきっと、ヒビヤ君のことが大好きになったんだと思う」

 僕の言葉に、ヒビヤ君は声もなくレオ君の名を呼ぶ。それは大好きな友達の姿を思い描いて、会いたいと叫んでいるようだった。
 きっと彼は怖くなってしまっただけなのだ。もしかしたらレオ君に嫌われてしまったかもしれないと、帰るのに怖気づいてしまっているだけ。
 だけど、少しでも帰りたいと思っているのなら。もう一度レオ君に会って、謝りたいと思っているのなら。それを叶えるのが、僕の仕事だ。

「ほら、見て」

 そう言いながら空を仰げば、ヒビヤ君は泣きじゃくるのも忘れてぽかんと口を開ける。
 いつの間にか、僕達の頭上からは星屑が降り注いでいたのだ。

「星……?」

 呆然としながら落ちてくる星屑を手に取ったヒビヤ君は、その正体に瞠目する。
 星屑だと思っていたものは、小さな橙色の花だったのだ。

 僕達の体に降り積もる花は、金木犀と呼ばれるものだった。それがまるで流れ星のように、空からはらはらと落ちてきていた。
 鼻をくすぐる甘い花の匂い。僕の帰る場所から漂っている柔らかな幽香。
 そして花香に混じるのは、兄が愛用するタバコの苦い匂い。


 いつだって僕の道標になってくれる、ひたき兄さんの匂い。


「さあ、行こうヒビヤ君。レオ君が、君の帰りを待ってる」

 僕が手を差し伸べれば、ヒビヤ君は恐る恐る掌を重ねて。
 まるで呪いが解けたように、一歩を踏み出すのだった。






 ヒビヤ君の手を引いて、僕は金木犀の匂いを頼りに闇夜を突き進む。
 ヒビヤ君を連れ戻し始めた途端、闇夜はあからさまに存在感を増した。さらに重たく体にまとわりついてくる闇は、まるでヒビヤ君を帰すまいとしているようで、繋がれている彼の手が震えるのがわかる。

「大丈夫。前だけ向いて。振り返ってはいけないよ」

 僕が忠告すれば、慌てた様子で手にこもる力が強くなる。僕はしっかりと手を繋ぎ直して、金木犀の匂いだけに集中していた。
 闇夜は深くなる一方で、もはや一寸先も見えない。すぐ後ろに居るはずのヒビヤ君の姿も認識できないほどだ。どうやら余程彼を帰らせたくないようだと、僕は内心舌打ちする。
 気の遠くなるような長い長い道のりと、心を重たくさせる光のない世界。だけど僕は、必ず学校に帰れると信じ切っていた。

「つ、つぐみ先生は怖くないの?」

 ビクビクしながら尋ねてくるヒビヤ君に、怖いさ、と笑い返す。

「夜は好きじゃない。嫌なことを思い出すし、独りぼっちで取り残された気分になる。……でも平気だよ。絶対に兄弟が助けに来てくれるって、僕は知ってるから」

 僕達は帰れる。だって、帰りを待ってくれている大切な人達が居るから。帰りを待ち望んでいる誰かが居る限り、僕達は、迷うことなどない。

「……ほら、見えてきた」

 僕が指させば、ヒビヤ君が身を乗り出す気配が伝わってくる。そして、闇夜の中で煌めいた金色に、彼は呆けた声で呟いた。

「レオ、」

 友達の存在を認めた瞬間、ヒビヤ君は駆け出した。

「レオ! レオ!」

 振り絞るように友達の名前を呼び、ヒビヤ君は赤い灯りのもとへと走っていく。
 一際強く漂う、金木犀とタバコの匂い。僕達を誘うように、体中を包み込めば。


 瞬間、世界は弾けた。



「つぐみ!」

 闇の中から飛び出したひたき兄さんが、僕の体を腕に閉じ込める。
 彼の背後には見慣れた校舎のシルエットがあって、帰ってこれたのだとぼんやりと理解した。

「よかった……無事に帰ってこれて」

 僕が帰還するまで不安で仕方がなかったのだろう、ひたき兄さんは痛いくらいに強く抱き締めてきた。僕は恥ずかしくなって、さり気なく身をよじりながら微笑みかける。

「ただいま、ひたき兄さん」

「……ああ。おかえり、つぐみ」

 安堵の息を漏らしたひたき兄さんからは、あのタバコの匂いが漂っていた。僕達が無事に帰ってこれたのは、きっと金木犀のおまじないのおかげだけじゃない。ひたき兄さんが道標になってくれたからこそ、僕は夜に怯えなくて済んだのだ。
 ありがとう。そう再び口ずさみ、僕は愛する友達の再会を喜ぶヒビヤ君へと視線を移す。

「ごめん、レオ。酷いことを言ってしまって、本当にごめん」

 レオ君の小さな体を抱き締め、ヒビヤ君は泣きじゃくっていた。

「僕、君のことが大好きだよ。もう君に会えないかもしれないと思うと、すっごく怖かった。もう一度君を、こうして抱きしめたかったんだ」

 ヒビヤ君は何度も謝りながら、レオ君の体を必死に掻き抱いた。その涙がレオ君を濡らすたび、彼の首元にある首輪の鈴がしゃらしゃらと音を立てる。
 レオ君は目に涙を浮かべて、ヒビヤ君の抱擁を受け止めた。そして顔をくしゃくしゃにさせると、僕もごめん、というように。


 にゃあ、とか細く鳴き声を響かせるのだった。







 ヒビヤ君を連れ戻してから一晩経ち、僕達は再び暇を持て余していた。
 今日もやることがなくだらだらと他愛のない話をしていると、控えめなノック音が響き渡る。

「はぁい、どなたかな?」

 いそいそと扉を開いた僕は、しゃらりと鳴った鈴の音に頬を緩ませた。
 そこには、茶トラの猫──レオ君を抱きかかえたヒビヤ君の姿があったのだ。

「よかった。ちゃんと仲直りできたみたいだね」

 僕が笑いかければ、おかげさまで、と照れ笑いが返ってくる。
 ヒビヤ君の胸に抱かれているレオ君は、機嫌が良さそうにごろごろと喉を鳴らしている。今はもう人の言葉は話さないようだったが、ヒビヤ君にはそれでも十分通じているようだった。

「つぐみ先生、ありがとう。僕をレオのもとに帰らせてくれて」

「お礼ならレオ君に言いなよ。僕はただ、ちょっと手助けをしただけだもの」

 今日はこれからなにをするのと訊けば、友達と遊ぶんだと元気な答えが返ってくる。

「レオも一緒に遊ぶんだ。皆で隠れんぼをするんだよ。レオなら最後まで見付からずに勝てるかも」

 レオは隠れるのが得意だからなぁ。そう言いながらヒビヤ君が頭を撫でれば、彼は任しておきなよとばかりに鼻を鳴らした。

「そっか。楽しんでおいでね」

「うん! あとでこの相談室にも隠れさせてね!」

 勿論だと手を振って、駆けて去っていくヒビヤ君を見送る。

「……さて。今日はどんな相談が迷い込んでくるかな」

 なんだかいい気分になってゆるゆると口が緩めば、同じ顔をした兄もまた微笑む。
 窓からは爽やかな夜風が入り込んで、僕達の頬を優しく撫でるのだった。
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