ちはやぶる

八神真哉

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第八十四話  月の船

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義久の声が木霊する。
イダテンの足が地を蹴る音が聞こえる。
息遣いが聞こえる。

わたしを守ろうと、命をかける者がいる。
領地や利を求め、欲望のまま、人の命を奪おうとする者がいる。
今日の食べ物に事欠き、飢えて死ぬ者がいる。

気がつくと言葉を発していた。
「わたしが入内すれば、この世を変えることができるでしょうか?」
――ほんのわずかばかりでも。

     *

そのような問いに、答えられるはずもない。
だが、人の世から地位階級は永遠になくなるまい。
神や仏にも序列をつけるのが人というものなのだから。

「あれは?」
姫の言葉に振り返る。
崖沿いの斜面で、数珠つなぎになった小さな光があふれんばかりに輝いていた。

「あれは白玉ですか?」
たしかにみごとな眺めである。

だが、あれは白玉(※真珠)などではない。
蜘蛛の巣に結露した夜露だ。
月の明かりに照らされて宝玉のごとく輝いている。

邸の外に出ることさえ稀な高貴な家に生まれ育った姫は、あれほどのものを目にしたことがないのだろう。
だが、息は切れ、胸は凍え、それを言葉にする余裕がない。

構うことなく、姫は続けた。
「高子(たかいこ)様も、このような気持ちだったのでしょうね」

何を言っているのかわからなかった。
答えを期待している様子もない。

天空の月は、ますます欠けて三日月に近づいていく。
天に浮かぶ船のように。

『天(あま)の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ』
姫が歌を詠んだ。
意味など分からぬ――だが、あの船に乗ることが出来たら――と思った。

姫は義久の怪我には気がつかなかっただろう。
武門の意地とやらを、男の我儘とやらを許したのだろう。

あるいは、万事休したときは、あの口先で敵を丸め込んで、義久だけでも生き残ってほしいと願ったのだろうか。

自分の怪我もあって、血の匂いに鈍感になっていた。
必死に囮を志願する義久の様子を見て、おかしいと気がついた。
そしてようやく、座っている岩が血に濡れていることに気がついたのだ。

手当てもせずに黙っていることが覚悟を物語っていた。
ならば、生きた証がほしかろう。
好いたおなごの前で、足手まといになって死にたくはなかろう、と囮になることを認めたのだ。

手元に残った呪符一枚は対岸の赤松の枝に結んできた。
これで追手は分散するだろう。

そこへ、馬の蹄の音が響いてきた。上流からだ。
避ける場所などない。
手斧を構え、姫を乗せた背負子を崖に押し付けた。

が、馬は五間ほど手前で、どう、と前に倒れ、そのままの勢いで谷底に落ちて行った。

岩だらけの下り道だ。
足を折ったのだろう。主も乗っていなかった。
先ほど砦を突破した馬が引き返してきた、と見るのが妥当だろう。

何かに脅えているようにも見えたが、敵の気配は感じられない。
狼にでも遭遇したのだろうか。

息を整え、体に鞭打って足を踏み出したその時、ついに、月が姿を消した。
周りの星が輝きを増したように見えた。

しかし、その星さえも厚い雲が覆っていく。
寒気が、そして漆黒の闇が、この地を支配しようとしていた。
左手の崖に手を添えながら峡谷沿いの急な峠道を進んだ。

追手の兵は、いざとなれば松明を掲げてでも追ってこよう。
だが、こちらが松明を使うことはできない。

イダテンが足を引きずっていることに耐えられなくなったのだろう。
姫が降りようとしたが、イダテンは許さなかった。
足を痛めていようが姫を歩かせるより遥かに速い。

慎重な宗我部国親のことだ。この先の郷や峠の境にも兵を置いているだろう。
少しでも追手との差を広げ、挟み撃ちを避けたかったが、状況は悪くなるばかりだ。

ようやく星が顔をのぞかせ、かすかに足元を照らしだした。
ほっとしたのもつかの間、袂が翻った。

皮膚を切り裂くような寒風が砂を飛ばし、イダテンと姫を襲う。
凍てつく寒さに、胸が悲鳴をあげた。
呼吸がままらない。
足もでない。

苦痛が気力をも奪い去っていく。
時折、意識が途切れる。
明らかに限界が近づいていた。

この先を左に曲がると藪がある。
国親らが砦の材木を置いていた場所だ。
そこで一息つこう。

だが、気がついた時には、その藪の前を通り過ぎようとしていた。
何かを予見するかのように風も弱まった。

空の雲が流れ、先ほどとは向きを変えた痩せこけた月が姿を現し、イダテンと姫の姿を浮かび上がらせた。

それを待っていたかのように、禍々しい弦音が鳴った。
藪から何本もの矢が唸りをあげて襲ってきた。

「あっ」と言う姫の声が聞こえた。
「掴まっていろ」
声をかけ、一気に駆け抜けようとした。

が、眼の前に高さ二丈(※約6m)の丸太の柵がそびえ立っていた。
前後から支えた丈夫な作りだ。
常ならば――おのれだけであれば、ひと跳びで越えることができる高さである。
今とて手斧を投げ、縄を手繰れば登れぬことはない。

だが、この体では俊敏には動けまい。
後ろから姫が狙い撃ちされるだろう。
弦音から見て五人は潜んでいよう。

――逃げ切れないかもしれない。
そう思った途端に体に震えが走った。
膝が崩れそうになった。

何が起こったのかわからなかった。

これが――これが、怖ろしいということか。

死を覚悟したことは幾度もある。
冬山で雪に閉じ込められた時。
崖から落ちた時。
熊に襲われ、その爪にかかった時――食料を調達している自分が死ねば、おばばも生きては行けまい。

ゆえに、死ねない――とは思っていた。
だが、心の底では、どうだったろうか。

坊主どもの中には「死は救済」と口にする者がいる。
民百姓を煽り、おのれの領地や権益を守るための方便だ。

だが、人としてあつかわれず、いつ餓死するか、いつ悪党共に襲われるかと、日々、怯えて暮らしているおばばにとっては、救済かもしれない――いつしか、そう思うようになっていた。
だから、怖ろしくなかったのだ。

おばばは、よく泣いた。
笑ったところは見たことがない。
遠くから覗き見る人間達とは明らかに違っていた。
どこかが壊れていたのだろう。

イダテンも笑ったことがない。
物心ついてから泣いた覚えもない。
だが、これは鬼の子だからであろう。

おばばが死んだのちは、自分が生きている意味さえ見出せなくなった。

生きるため、食うために狩る。
血肉を食らい、ただ、ただ生きる。
獣たちとなにが変わろう。

いや、獣であれば仲間や家族もあろう。
自分には、それさえも与えられなかったのだ。

ゆえに、今日、生きる意味と目的を与えられたのだと思っていた――三郎の遺志を継ぐという。

自分の死は姫の死を意味する。
三郎やミコ、そしてヨシを失い。さらには三郎や義久が命を賭けてでも守りたかった、その姫をも、ここで失おうとしている。

ならば自分は一体何のために、この姿と、この力を持って生まれてきたのだ。

父と母を死に追いやり、人に蔑まれ、おばばを看取り、死んでいくためか。
この世でただ一人、おれのことを友と呼んでくれた三郎の願いひとつ叶えてやることも出来ず、ここで骸をさらすためか。

――怒りに震えた。
――これが、おれの天命だというのか。
これが、神の意志だというのか。

ぞわり、と、イダテンの中で何かが目を覚ました。

真紅の髪の毛が逆立った。
口端から犬歯が覗いた。

     *
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