82 / 91
第八十二話 苺を摘みに
しおりを挟む
呪符に文字を書き終えると、姫は自分の袿の袖を義久に引きちぎるように言った。
イダテンは怪訝な表情をうかべたが、意図を察した義久は、にやりと笑った。
昔、義久が肘をすりむいたとき、姫は同じことをしようとしたのだ。
そして先ほどのように「血(あせ)が……」と言ったのだ。
貴族が血を穢れとして嫌い、「あせ」と呼ぶことを初めて知った。
むろん、その時は、とんでもないと断りはしたが。
姫が、イダテンの額に鴇色の袖をあてた。
義久は自らの直垂の胸紐を切りとり、姫の袖がずれぬように巻きつけた。
「にあうぞイダテン」
義久は、イダテンが姫から受け取った血文字の呪符一枚を残し、奪うようにむしり取った。
三枚あった。
これだけあれば敵を攪乱できるだろう。
「おまえは姫様を守って先を急げ。やつらはわしが引き受ける」
イダテンは、義久の意図が理解できないようだった。
ささらが姫も同様に眉根を寄せた。
「なぜ、そのようなことを? 崖から風に乗せて流せばよいのでしょう?」
姫の問いに答える義久の額から汗がこぼれ落ちた。
「追手はさらに増えるでしょう」
イダテンが小さく頷いた。
今でこそ、様子をうかがっているが、動ける者も残っていよう。
殺傷力の弱い矢だということにも、すぐに気づくだろう。
イダテンに問わずとも見当がつく。
風切音の割に矢の速度が遅い。
鏃どころか矢羽さえついていないかもしれない。
闇の中だからこそ効果があるのだ。
問題なのは、その追手が馬で現れたということだ。
それは、崖崩れや焼け落ちた砦の残骸が取り除かれたことを意味する。
じきに、これまでとは比べ物にならぬほどの兵が押し寄せてくるだろう。
ならば、追手の足を止めるか、分散させなければならない。
もはや、イダテンが馬より早く走れるとは思えなかった。
「われらが山頂や峰にたどりつく前に、やつらは追いつくでしょう。といって、このあたりで風に乗せれば、川に落ち、血文字はにじみ、役に立たぬでありましょう……ならば、人が持って動き回り、ここぞという時に使うのが最良かと」
心配げに見つめてくる姫を安心させようと続けた。
「いざとなれば、谷底へ投げ込み、姫の後を追いますれば」
姫は首を振った。
「……そのような危うい真似は」
「なに、この姿です。先ほど同様、味方を装い、なんとでも言いくるめられましょう」
余裕ありげに笑って見せた。
「ですが……」
姫の目には脅えがあった。
足元に生えている小さな白い花を右手で摘んだ。
今の季節に花は珍しい。
花冠が星型に五裂したわびしい花だ。
姫の前に跪く。
和歌など添えればよいのだろうが、才覚もなければ作法も知らない。
扇の上に載せて差し出した、
その扇が小さく震えている。
情けないとは思うが、やり直しはきかない。
意味がわからず、とまどっている姫に、
「幸運をもたらす花と聞いています」
と、でまかせをいった。
適当な男だ、と自嘲する。
薬草として使われている千振せんぶりだ。
邸に植えるような花ではないから姫は知らないだろう。
いずれ、知る機会があれば、義久らしいと笑ってくれるに違いない。
――そうだ。姫の前では、これでよい。
姫は、助けを求めるようにイダテンを見た。
だが、イダテンは腕を組んで一言も発しない。
この機を逃してはならない。
姫の目をひたと見据え注進する。
「この義久に……男としての働き場所を与えてくだされ」
イダテンが鬼神のごとき力を失ったと言っても、姫を背負って走ることはできるだろう。
だが、自分は違う。
足手まといになることは目に見えていた。
姫を危険にさらすわけにはいかなかった。
姫は、瞼を閉じ、迷うそぶりを見せた。
義久に合流する気がないことは薄々感じていよう。
このような目をしたときの義久が本意を翻さないことも。
姫は、懐から錦の袋に入った細長いものを取り出すと、両手に乗せて義久に差し出した。
「ではこれを」
義久は、戸惑いながらも花をのせた扇を横に置き、衣で手を拭い、うやうやしく受け取った。
「これは……」
背筋に震えが走った。
形を見て懐剣だろうと思った。
だが、この手触りは間違いなく笛だ。
しかも、こたびのような大事に、邸から持ち出すようなものと言えば、一つしかない。
笛の名手であった姫の祖父が帝から下賜されたという『小枝』である。
「このようなものは……」
受け取れるわけがない。
「……預けるのです」
――必ず戻ってくるのでしょう? と目で訴えてくる。
「いや、しかし……」
戸惑う義久を前に、
「こうすればよい」
と、イダテンが首にかけていた革紐を引いて懐から緋色の勾玉を取り出すと、周りの空気が一変した。
どのような珠玉とて、自らの力で輝くことはない。
だが、この透きとおった緋色の勾玉は、やせ細った月の下で鼓動でも打っているかのような怪しげな光を放っている。
イダテンは、その勾玉を姫の首にかけた。
「これは?」
と言って、姫は言葉を詰まらせた。
義久が代弁した。
「なんと言う奇妙な……まるで生きてでもいるかのような」
その輝きに目を奪われた。
「母の形見じゃ」
イダテンは、二人の様子にはかまわず、義久が先ほど兼親から奪った大太刀に手を伸ばし、下緒を背負子の横木に結びつけた。
「これでよかろう」
イダテンの機転に姫の表情がなごむ。
そして、こぼれるような微笑みを浮かべ、義久に花を所望した。
「春になったら……皆で、苺を摘みに出かけましょう」
義久も照れながら笑顔で応えた。
おそらく童のころのような無邪気な表情だっただろう。
*
イダテンは怪訝な表情をうかべたが、意図を察した義久は、にやりと笑った。
昔、義久が肘をすりむいたとき、姫は同じことをしようとしたのだ。
そして先ほどのように「血(あせ)が……」と言ったのだ。
貴族が血を穢れとして嫌い、「あせ」と呼ぶことを初めて知った。
むろん、その時は、とんでもないと断りはしたが。
姫が、イダテンの額に鴇色の袖をあてた。
義久は自らの直垂の胸紐を切りとり、姫の袖がずれぬように巻きつけた。
「にあうぞイダテン」
義久は、イダテンが姫から受け取った血文字の呪符一枚を残し、奪うようにむしり取った。
三枚あった。
これだけあれば敵を攪乱できるだろう。
「おまえは姫様を守って先を急げ。やつらはわしが引き受ける」
イダテンは、義久の意図が理解できないようだった。
ささらが姫も同様に眉根を寄せた。
「なぜ、そのようなことを? 崖から風に乗せて流せばよいのでしょう?」
姫の問いに答える義久の額から汗がこぼれ落ちた。
「追手はさらに増えるでしょう」
イダテンが小さく頷いた。
今でこそ、様子をうかがっているが、動ける者も残っていよう。
殺傷力の弱い矢だということにも、すぐに気づくだろう。
イダテンに問わずとも見当がつく。
風切音の割に矢の速度が遅い。
鏃どころか矢羽さえついていないかもしれない。
闇の中だからこそ効果があるのだ。
問題なのは、その追手が馬で現れたということだ。
それは、崖崩れや焼け落ちた砦の残骸が取り除かれたことを意味する。
じきに、これまでとは比べ物にならぬほどの兵が押し寄せてくるだろう。
ならば、追手の足を止めるか、分散させなければならない。
もはや、イダテンが馬より早く走れるとは思えなかった。
「われらが山頂や峰にたどりつく前に、やつらは追いつくでしょう。といって、このあたりで風に乗せれば、川に落ち、血文字はにじみ、役に立たぬでありましょう……ならば、人が持って動き回り、ここぞという時に使うのが最良かと」
心配げに見つめてくる姫を安心させようと続けた。
「いざとなれば、谷底へ投げ込み、姫の後を追いますれば」
姫は首を振った。
「……そのような危うい真似は」
「なに、この姿です。先ほど同様、味方を装い、なんとでも言いくるめられましょう」
余裕ありげに笑って見せた。
「ですが……」
姫の目には脅えがあった。
足元に生えている小さな白い花を右手で摘んだ。
今の季節に花は珍しい。
花冠が星型に五裂したわびしい花だ。
姫の前に跪く。
和歌など添えればよいのだろうが、才覚もなければ作法も知らない。
扇の上に載せて差し出した、
その扇が小さく震えている。
情けないとは思うが、やり直しはきかない。
意味がわからず、とまどっている姫に、
「幸運をもたらす花と聞いています」
と、でまかせをいった。
適当な男だ、と自嘲する。
薬草として使われている千振せんぶりだ。
邸に植えるような花ではないから姫は知らないだろう。
いずれ、知る機会があれば、義久らしいと笑ってくれるに違いない。
――そうだ。姫の前では、これでよい。
姫は、助けを求めるようにイダテンを見た。
だが、イダテンは腕を組んで一言も発しない。
この機を逃してはならない。
姫の目をひたと見据え注進する。
「この義久に……男としての働き場所を与えてくだされ」
イダテンが鬼神のごとき力を失ったと言っても、姫を背負って走ることはできるだろう。
だが、自分は違う。
足手まといになることは目に見えていた。
姫を危険にさらすわけにはいかなかった。
姫は、瞼を閉じ、迷うそぶりを見せた。
義久に合流する気がないことは薄々感じていよう。
このような目をしたときの義久が本意を翻さないことも。
姫は、懐から錦の袋に入った細長いものを取り出すと、両手に乗せて義久に差し出した。
「ではこれを」
義久は、戸惑いながらも花をのせた扇を横に置き、衣で手を拭い、うやうやしく受け取った。
「これは……」
背筋に震えが走った。
形を見て懐剣だろうと思った。
だが、この手触りは間違いなく笛だ。
しかも、こたびのような大事に、邸から持ち出すようなものと言えば、一つしかない。
笛の名手であった姫の祖父が帝から下賜されたという『小枝』である。
「このようなものは……」
受け取れるわけがない。
「……預けるのです」
――必ず戻ってくるのでしょう? と目で訴えてくる。
「いや、しかし……」
戸惑う義久を前に、
「こうすればよい」
と、イダテンが首にかけていた革紐を引いて懐から緋色の勾玉を取り出すと、周りの空気が一変した。
どのような珠玉とて、自らの力で輝くことはない。
だが、この透きとおった緋色の勾玉は、やせ細った月の下で鼓動でも打っているかのような怪しげな光を放っている。
イダテンは、その勾玉を姫の首にかけた。
「これは?」
と言って、姫は言葉を詰まらせた。
義久が代弁した。
「なんと言う奇妙な……まるで生きてでもいるかのような」
その輝きに目を奪われた。
「母の形見じゃ」
イダテンは、二人の様子にはかまわず、義久が先ほど兼親から奪った大太刀に手を伸ばし、下緒を背負子の横木に結びつけた。
「これでよかろう」
イダテンの機転に姫の表情がなごむ。
そして、こぼれるような微笑みを浮かべ、義久に花を所望した。
「春になったら……皆で、苺を摘みに出かけましょう」
義久も照れながら笑顔で応えた。
おそらく童のころのような無邪気な表情だっただろう。
*
5
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
おぼろ月
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
「いずれ誰かに、身体をそうされるなら、初めては、貴方が良い。…教えて。男の人のすることを」貧しい武家に生まれた月子は、志を持って働く父と、病の母と弟妹の暮らしのために、身体を売る決意をした。
日照雨の主人公 逸の姉 月子の物語。
(ムーンライトノベルズ投稿版 https://novel18.syosetu.com/n3625s/)
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
仇討ちの娘
サクラ近衛将監
歴史・時代
父の仇を追う姉弟と従者、しかしながらその行く手には暗雲が広がる。藩の闇が仇討ちを様々に妨害するが、仇討の成否や如何に?娘をヒロインとして思わぬ人物が手助けをしてくれることになる。
毎週木曜日22時の投稿を目指します。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる