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第六十九話 悪童
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「ふん、無愛想なやつじゃ」
櫓を降り、腹立ちまぎれにつぶやいた。
後ろから苦しげな声が聞こえてくる。
姫が口元を袂で隠し、涙を溜めている。
先ほど襲われたときに、どこか痛めたのだろうか。
「どうされました。どこか痛むところでも」
あわてる義久をしり目に、姫は鈴を転がすように笑った。
「邸にいたときは、義久も、そう言われていたのではありませんか」
不本意ではあったが、事実であった。
愛想を振りまくなど、男の風上にも置けぬと思っていた。
加えて当時の覚悟も想い出した。
なんとしても、この笑顔を守らねばならない。
イダテンと組めば、あの巨大な砦の柵もこじ開けることができよう。
根拠などないが、そう思った。
何より、出たとこ勝負は自分の性にあっている。
義久は口端を上げてにやりと笑った。
「ところで、あやつは、姫様の遊びに付きおうたのですか」
自分のことは棚に上げて、あえて、そう尋ねた。
姫は、笑顔で応じた。
「ええ、読み書きを教えました。もともと知識はあったようですが、とても覚えが良かったのですよ」
思わず鼻を鳴らした。
期待した応えではなかった。
「ふん、頭も良いのか、かわいげのないやつじゃ……それにしても、よくまわりが許しましたな。まあ、うちのおじじ……忠信様が手を回したのでしょうが」
姫は、淋しそうに微笑んだ。
「……じいは、よくやってくれました」
あの性根である。
どれほど兵力に差があろうとも孤軍奮闘したに違いない。
姫にとっては、実の父母より遥かに近しい存在だったはずだ。
雰囲気を変えようと声を張り上げ、自慢げに口にした。
「わたしとて、いつまでも悪童のままではありませぬぞ。九九(※掛け算)も多少は覚えましたゆえ」
続けて、少々節をはずしながら歌を詠んだ。
『若草の 新手枕を 巻き初めて――』
「誰に教わったのです」
眉をひそめた姫が、ぴしゃりと制した。
「いや、それは……」
『万葉集』とやらには『九九』を利用した読み方がいくつかある、と言う。
この歌も『憎く』を『二八十一』と表記しているらしい。
だが、女と情を交わしたあとの歌である。
裳着も済ませていない姫を前に披露する歌ではなかった。
機嫌を損ねたかと、そっと顔色をうかがうと、姫は笑いをこらえていた。
その襟元から紐のようなものが覗き、その先に何か小さな物がついていた。
イモリのように見えた。
今にも動き出しそうだったからだ。
姫が気づく前に払おうとして、そうではないことが分かった。
細工物のようだ。
「何です。それは? ずいぶんとやせた獣ですな。山猫ですか?」
「『唐猫』です。名を『美夜』といいます」
姫が目じりをさげて微笑んだ。
「イダテンが彫ったのですよ」
*
なんと言っても、多勢に無勢。
しかも砦の柵は固く閉じられていよう。
イダテンの力と知恵には兜を脱ぐ。
とはいえ、今日の今日まで、あいつが人と争ったという話は聞いたことが無い。
こたびも、崖の上から岩や材木を落とし、矢を射かけただけだ。
血しぶきを浴びるほどの修羅場をくぐったわけではない。
つまらぬことで頓挫するやもしれぬ。
ここは、山賊たちと幾たびも刃を交えてきた、わしが力を貸してやらねばなるまい。
だてに悪童と呼ばれていたわけではない。
それも、姫の前で披露できよう。
さて、と義久は頭をひねる。
馬は黒駒で決まりだが――闇雲に走らせれば何とかなるというものではない。
「義久」
と、呼ぶ声に、われに返る。
姫が松明を抱えて立っていた。
火はついていないが、姫が持つと、いかにも重たげである。
門番が近くに用意していたのだろう。
「篝火が消えると砦の者が不審に思いましょう。薪を足そうとしたのですが熱くて近づけません。これなら届きそうですが……たくさんありますか?」
松明か。
しかし、松明を掲げて突入したところで効果はあるまい。
むしろ、目立って的になるだけだ。
「松明ならば、裏の納屋にありましょう。薪ならわたしが……」
姫から松明を受け取ろうとして、頭の隅に何かが引っかかった。
姫は、それを待っていたかのように、
「まさか、あの時のようなことを考えているのではないでしょうね」
と、続けた。
「ああ、山犬の尾に……あれは傑作でありましたなあ」
「思い出しましたか?」
姫は何かをうながすように義久を見つめてきた。
「あの時でしたかなあ。薪小屋に閉じ込められたのは」
「……杉の木に縛りつけられたのですよ」
ため息をつかせてしまった。
姫の期待した答えではなかったようだ。
義久は、腕を組み、天を仰いだ。
「ああ、そうでしたかな? 姫様の記憶のほうが確かでしょう」
「まあ、本当に忘れているのですか――まさか、わたしを山中に置き去りにしたことも?」
幼い童のように唇を、つんと尖らせて詰め寄る姫に、義久は腰を引いた。
「……いや、あれは」
忘れてなどいるものか。
二年と八月前、卯月の二十日のことだ。
あれが家を出るきっかけとなったのだ。
義久は元服前の十四歳。姫は八歳だった。
それまでも、母が姫の乳母であり、祖父の忠信が姫の警護役を兼ねていたことで、時折、遊び相手をしていた。
身分を考えればありえないことだった。
田舎のことで、貴族の姫君はおろか、地下役人の姫君でさえ数えるほどしかいなかったということもある。
いたところで齢も離れていた。
訪れるのであれば何日も前に先触れを出し、約束をとりつけるのが貴族としての礼儀だ。
体が弱く、頻繁に熱を出す姫は、約束を守れぬのを嫌って他家の姫君と会わなくなった。
代わりに、義久ら近くにいる者が遊び相手になった。
忠信が、小太郎と呼ばれていた義久を中心に据えたのだ。
むろん、当初は、地下役人の姫君を女房としてそばに置こうとした。
だが、何かと理由をつけて断ってきた――流罪となった元内大臣と日の出の勢いの左大臣。
どちらの機嫌を損ねないほうがよいかは誰の目にも明らかだった。
おじじから脅し半分で、引き受けさせられた遊び相手だったが、すぐに姫に会うのが楽しみになった。
義久とて大人とは言えぬ年で、恋と呼ぶには早すぎたかもしれぬ。
まだまだ幼いとは言え、この姫のためならと思う愛らしさと、朝になれば消えてしまう露のような儚さを備えていた。
その姫に雛遊びに誘われたのだ。
幾度かは適当なことを言ってごまかしたが、さすがに断り続けることはできなかった。
主従の関係だからではない。
好いたおなごの頼みだからだ。
しかも、雛遊びである。
仮とはいえ夫婦役なのだ。
ほかの男に、その役が振られることになったら一生後悔するだろう。
どうして断り続けることができようか。
が、やっては見たものの、むずがゆくてできるものではない。
「温品郷で川の漁業権をめぐって揉めておる。わししか収められぬ」
「すぐに帰る」
と、いって逃げ出した。
むろん、雛遊びのなかのことである。
後悔したが帰れるはずもない。
そして、あとでなじられたのだ。
あれは二度目のことだった。
「わが妻のために山桃を採ってこよう」
と、席をはずそうとしたのだ。
姫はついて行くと言ってきかなかった。
さすがに察したのだろう。
潤んだ瞳で、すがるように見つめられ、白く細い指で袂を掴まれた。
振り切ることなどできようはずもない。
やむなく、女房の目を盗み、壁に梯子をかけて姫を連れ出した。
そして、山に入って虫取りに夢中になって姫を置き去りにした。
――間違ってはいない。
間違ってはいないが、言い分はある。
雑木林に入った途端、見たこともない美しく大きい蝶が、まるで、誘うように目の前を横切ったのだ。
心が震えた。
あれを見せたら、どれほど姫が喜んでくれるかと。
だが、蝶は義久をあざ笑うかのように舞い踊り、山の奥へ奥へと入っていた。
結局、見失った。
蜘蛛の巣を枝に絡め、網を作る暇さえなかった。
姫を残していった場所に戻るまでにどれだけの時を要しただろう。
そこに、姫の姿はなかった。
扇が落ちていた。
血の気が引いた。
生きた心地がしなかった。
*
櫓を降り、腹立ちまぎれにつぶやいた。
後ろから苦しげな声が聞こえてくる。
姫が口元を袂で隠し、涙を溜めている。
先ほど襲われたときに、どこか痛めたのだろうか。
「どうされました。どこか痛むところでも」
あわてる義久をしり目に、姫は鈴を転がすように笑った。
「邸にいたときは、義久も、そう言われていたのではありませんか」
不本意ではあったが、事実であった。
愛想を振りまくなど、男の風上にも置けぬと思っていた。
加えて当時の覚悟も想い出した。
なんとしても、この笑顔を守らねばならない。
イダテンと組めば、あの巨大な砦の柵もこじ開けることができよう。
根拠などないが、そう思った。
何より、出たとこ勝負は自分の性にあっている。
義久は口端を上げてにやりと笑った。
「ところで、あやつは、姫様の遊びに付きおうたのですか」
自分のことは棚に上げて、あえて、そう尋ねた。
姫は、笑顔で応じた。
「ええ、読み書きを教えました。もともと知識はあったようですが、とても覚えが良かったのですよ」
思わず鼻を鳴らした。
期待した応えではなかった。
「ふん、頭も良いのか、かわいげのないやつじゃ……それにしても、よくまわりが許しましたな。まあ、うちのおじじ……忠信様が手を回したのでしょうが」
姫は、淋しそうに微笑んだ。
「……じいは、よくやってくれました」
あの性根である。
どれほど兵力に差があろうとも孤軍奮闘したに違いない。
姫にとっては、実の父母より遥かに近しい存在だったはずだ。
雰囲気を変えようと声を張り上げ、自慢げに口にした。
「わたしとて、いつまでも悪童のままではありませぬぞ。九九(※掛け算)も多少は覚えましたゆえ」
続けて、少々節をはずしながら歌を詠んだ。
『若草の 新手枕を 巻き初めて――』
「誰に教わったのです」
眉をひそめた姫が、ぴしゃりと制した。
「いや、それは……」
『万葉集』とやらには『九九』を利用した読み方がいくつかある、と言う。
この歌も『憎く』を『二八十一』と表記しているらしい。
だが、女と情を交わしたあとの歌である。
裳着も済ませていない姫を前に披露する歌ではなかった。
機嫌を損ねたかと、そっと顔色をうかがうと、姫は笑いをこらえていた。
その襟元から紐のようなものが覗き、その先に何か小さな物がついていた。
イモリのように見えた。
今にも動き出しそうだったからだ。
姫が気づく前に払おうとして、そうではないことが分かった。
細工物のようだ。
「何です。それは? ずいぶんとやせた獣ですな。山猫ですか?」
「『唐猫』です。名を『美夜』といいます」
姫が目じりをさげて微笑んだ。
「イダテンが彫ったのですよ」
*
なんと言っても、多勢に無勢。
しかも砦の柵は固く閉じられていよう。
イダテンの力と知恵には兜を脱ぐ。
とはいえ、今日の今日まで、あいつが人と争ったという話は聞いたことが無い。
こたびも、崖の上から岩や材木を落とし、矢を射かけただけだ。
血しぶきを浴びるほどの修羅場をくぐったわけではない。
つまらぬことで頓挫するやもしれぬ。
ここは、山賊たちと幾たびも刃を交えてきた、わしが力を貸してやらねばなるまい。
だてに悪童と呼ばれていたわけではない。
それも、姫の前で披露できよう。
さて、と義久は頭をひねる。
馬は黒駒で決まりだが――闇雲に走らせれば何とかなるというものではない。
「義久」
と、呼ぶ声に、われに返る。
姫が松明を抱えて立っていた。
火はついていないが、姫が持つと、いかにも重たげである。
門番が近くに用意していたのだろう。
「篝火が消えると砦の者が不審に思いましょう。薪を足そうとしたのですが熱くて近づけません。これなら届きそうですが……たくさんありますか?」
松明か。
しかし、松明を掲げて突入したところで効果はあるまい。
むしろ、目立って的になるだけだ。
「松明ならば、裏の納屋にありましょう。薪ならわたしが……」
姫から松明を受け取ろうとして、頭の隅に何かが引っかかった。
姫は、それを待っていたかのように、
「まさか、あの時のようなことを考えているのではないでしょうね」
と、続けた。
「ああ、山犬の尾に……あれは傑作でありましたなあ」
「思い出しましたか?」
姫は何かをうながすように義久を見つめてきた。
「あの時でしたかなあ。薪小屋に閉じ込められたのは」
「……杉の木に縛りつけられたのですよ」
ため息をつかせてしまった。
姫の期待した答えではなかったようだ。
義久は、腕を組み、天を仰いだ。
「ああ、そうでしたかな? 姫様の記憶のほうが確かでしょう」
「まあ、本当に忘れているのですか――まさか、わたしを山中に置き去りにしたことも?」
幼い童のように唇を、つんと尖らせて詰め寄る姫に、義久は腰を引いた。
「……いや、あれは」
忘れてなどいるものか。
二年と八月前、卯月の二十日のことだ。
あれが家を出るきっかけとなったのだ。
義久は元服前の十四歳。姫は八歳だった。
それまでも、母が姫の乳母であり、祖父の忠信が姫の警護役を兼ねていたことで、時折、遊び相手をしていた。
身分を考えればありえないことだった。
田舎のことで、貴族の姫君はおろか、地下役人の姫君でさえ数えるほどしかいなかったということもある。
いたところで齢も離れていた。
訪れるのであれば何日も前に先触れを出し、約束をとりつけるのが貴族としての礼儀だ。
体が弱く、頻繁に熱を出す姫は、約束を守れぬのを嫌って他家の姫君と会わなくなった。
代わりに、義久ら近くにいる者が遊び相手になった。
忠信が、小太郎と呼ばれていた義久を中心に据えたのだ。
むろん、当初は、地下役人の姫君を女房としてそばに置こうとした。
だが、何かと理由をつけて断ってきた――流罪となった元内大臣と日の出の勢いの左大臣。
どちらの機嫌を損ねないほうがよいかは誰の目にも明らかだった。
おじじから脅し半分で、引き受けさせられた遊び相手だったが、すぐに姫に会うのが楽しみになった。
義久とて大人とは言えぬ年で、恋と呼ぶには早すぎたかもしれぬ。
まだまだ幼いとは言え、この姫のためならと思う愛らしさと、朝になれば消えてしまう露のような儚さを備えていた。
その姫に雛遊びに誘われたのだ。
幾度かは適当なことを言ってごまかしたが、さすがに断り続けることはできなかった。
主従の関係だからではない。
好いたおなごの頼みだからだ。
しかも、雛遊びである。
仮とはいえ夫婦役なのだ。
ほかの男に、その役が振られることになったら一生後悔するだろう。
どうして断り続けることができようか。
が、やっては見たものの、むずがゆくてできるものではない。
「温品郷で川の漁業権をめぐって揉めておる。わししか収められぬ」
「すぐに帰る」
と、いって逃げ出した。
むろん、雛遊びのなかのことである。
後悔したが帰れるはずもない。
そして、あとでなじられたのだ。
あれは二度目のことだった。
「わが妻のために山桃を採ってこよう」
と、席をはずそうとしたのだ。
姫はついて行くと言ってきかなかった。
さすがに察したのだろう。
潤んだ瞳で、すがるように見つめられ、白く細い指で袂を掴まれた。
振り切ることなどできようはずもない。
やむなく、女房の目を盗み、壁に梯子をかけて姫を連れ出した。
そして、山に入って虫取りに夢中になって姫を置き去りにした。
――間違ってはいない。
間違ってはいないが、言い分はある。
雑木林に入った途端、見たこともない美しく大きい蝶が、まるで、誘うように目の前を横切ったのだ。
心が震えた。
あれを見せたら、どれほど姫が喜んでくれるかと。
だが、蝶は義久をあざ笑うかのように舞い踊り、山の奥へ奥へと入っていた。
結局、見失った。
蜘蛛の巣を枝に絡め、網を作る暇さえなかった。
姫を残していった場所に戻るまでにどれだけの時を要しただろう。
そこに、姫の姿はなかった。
扇が落ちていた。
血の気が引いた。
生きた心地がしなかった。
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