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第六十五話 黒駒
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紅い髪が燃え上がる炎のように見える。
篝火を浴び、闇から浮かび上がった、その姿は、さながら一幅の絵のようだった。
イダテンが姫を背負い門の前に立っていた。
痺れを切らし、押しかけてきたのだ。
問われるままに、ここにはこやつらしかいないと答えると、イダテンは姫を背負子からおろした。
姫が、気遣うように声をかけてきた。
「信継様は?」
義久は、力なく首を振った。
姫は、その美しい眉を寄せて
「義久」と、わが名を呼び、駆け寄ろうとした。
それほどまでに顔色が悪いのだ。
震えていたのかもしれない。
頼れる男でありたかった。
自慢できる男でありたかった――それがどうだ。
「来るな!」
気がついた時には怒鳴っていた。
立ち止まった姫の表情が凍りついた。
無理もない。
悪童と呼ばれていた義久ではあったが、姫の前では一度たりとも怒りを爆発させたことはない。
早々に顔と手を洗い、館に入って代わりの水干を見繕わなければならない。
それでなくとも貴族は血を穢れとして嫌う。
「……失礼……まっすぐ進み、母屋の前でお待ちくだされ」
ふらつく足でようやく立ち上がると、遠慮する様子もなくイダテンが近づいてきた。
「ほかに聞き出したことは?」
「こやつらは出迎え要員だったようだ」
歯切れの悪い答えに、イダテンが不満げな表情を見せる。
わかっている。
明らかに義久の失態である。
「この先に砦を作ったようじゃ……何人、こもっておるかを聞き出す前に正体がばれた……すまぬ」
手柄を立てたかった。
一人前の男になりたかった。
名を騙り、仇の元に潜り込み、気に入られ、馬に乗れる身分になった――にもかかわらず、こたびの情報ひとつ取れなかった。
狼が淵に着いてようやく、落ち延びる者に備えての待ち伏せと知った。
姫の邸が襲われたと聞き、慄然とした。
遅れて到着し、国司の首を獲った様を自慢げに語る兼親を押し倒し、その首を掻き切りたかった。
それでも、姫や、母や三郎たちが落ち延びて来るわずかな可能性に賭け、かろうじて憤怒を隠した。
鬼の子が邸にいると聞いていたからだ。
――そして、姫が、その鬼の子に守られ奇跡的に落ち延びてきた――姫に、男ぶりを見せる絶好の機会を天から与えられながら、このありさまだ。
イダテンが義久を見つめていた。
――いや、こいつは出会って以降、ずっと義久の性根をはかっていたに違いない。
そのイダテンは、腹立ちを隠すように、
「様子を見てくる」
と言い捨て、館のある方向に向かった。
姫は、義久に目をやり、わずかに迷うそぶりを見せた後、イダテンを追った。
――イダテンが姫を残していったことで、ようやく信用されたとわかった。
この館を占拠していた国親側の兵に寝返ることなく、その命を奪ったことで勝ち得た信用だった。
*
義久という男を信用したわけではない。
だが、今すぐ裏切ることはないだろう。
ただし、感情の起伏が激しい。
しかも、おばば同様、すべてを一人でしょい込んでしまうたちのようだ。
ならば、おばばと同様、あきらめも早いだろう。
それを心に留めておかねばなるまい。
*
崖を伝って落ちてくる水を溜めた岩の窪みで、顔と手に浴びた血を拭った。
凍えるように冷たい水に震えながらも、ようやく人心地が着いた。
厩に足を運び、この館で一番の良馬を見つけて近づくと、気配を感じたのか目を覚ました。
名を「黒駒」という。
黒駒とは良馬を産出する甲斐の黒毛の総称である。
大伯父の身分と財で手に入れるのは、さぞ困難であったろう。
あえて名を「黒駒」としたあたりにも大伯父の喜びと自負が伺える。
男子に恵まれないこともあり、わしには甘い大伯父であったが、黒駒には乗せてくれなかった。
それでも黒駒の世話をした。
目を盗んで乗ることはできた。だが乗らなかった。
おのれの力で、これほどの馬に乗れる身分になるのだと誓った。
右側に立ち、元気であったか、と静かに声をかける。
その目に、おびえや興奮がないことを確認し、優しく首すじを撫でてやる。
相変わらず申し分のない毛並である。
黒駒は、わかっているとでも言うように首を摺り寄せてきた。
厄でも落としたかのように胸のつかえがとれた。
「おお、憶えておってくれたか。よしよし待っておれ。すぐに水と飼葉を持ってきてやるでな」
厩の左隣に馬が十頭ほど繋がれていた。
すべて宗我部側のものだろう。
馬に乗れぬ身分の者のほうがはるかに多いことを考えれば、この先に伏せた兵は五十と言うところか。
砦と山の峰と郷の境。加えて、馬木に斥候を出せば、そのぐらいにはなろう。
むろん、先ほどの門番の砦に関する大言は信じていない。
砦とは名ばかりの柵であろう。
その証に、たいした馬はいない。
名のある武将であれば乗替馬でも、もっと良い馬を持っている。
「おまえの主人の弔い合戦じゃ……一働きしてもらうぞ」
飼葉を与え、右手で鼻すじをなでてやると、黒駒は、義久の左手を軽く噛んできた。
そして、わかっているとでも言うように義久の目を見つめてきた。
*
篝火を浴び、闇から浮かび上がった、その姿は、さながら一幅の絵のようだった。
イダテンが姫を背負い門の前に立っていた。
痺れを切らし、押しかけてきたのだ。
問われるままに、ここにはこやつらしかいないと答えると、イダテンは姫を背負子からおろした。
姫が、気遣うように声をかけてきた。
「信継様は?」
義久は、力なく首を振った。
姫は、その美しい眉を寄せて
「義久」と、わが名を呼び、駆け寄ろうとした。
それほどまでに顔色が悪いのだ。
震えていたのかもしれない。
頼れる男でありたかった。
自慢できる男でありたかった――それがどうだ。
「来るな!」
気がついた時には怒鳴っていた。
立ち止まった姫の表情が凍りついた。
無理もない。
悪童と呼ばれていた義久ではあったが、姫の前では一度たりとも怒りを爆発させたことはない。
早々に顔と手を洗い、館に入って代わりの水干を見繕わなければならない。
それでなくとも貴族は血を穢れとして嫌う。
「……失礼……まっすぐ進み、母屋の前でお待ちくだされ」
ふらつく足でようやく立ち上がると、遠慮する様子もなくイダテンが近づいてきた。
「ほかに聞き出したことは?」
「こやつらは出迎え要員だったようだ」
歯切れの悪い答えに、イダテンが不満げな表情を見せる。
わかっている。
明らかに義久の失態である。
「この先に砦を作ったようじゃ……何人、こもっておるかを聞き出す前に正体がばれた……すまぬ」
手柄を立てたかった。
一人前の男になりたかった。
名を騙り、仇の元に潜り込み、気に入られ、馬に乗れる身分になった――にもかかわらず、こたびの情報ひとつ取れなかった。
狼が淵に着いてようやく、落ち延びる者に備えての待ち伏せと知った。
姫の邸が襲われたと聞き、慄然とした。
遅れて到着し、国司の首を獲った様を自慢げに語る兼親を押し倒し、その首を掻き切りたかった。
それでも、姫や、母や三郎たちが落ち延びて来るわずかな可能性に賭け、かろうじて憤怒を隠した。
鬼の子が邸にいると聞いていたからだ。
――そして、姫が、その鬼の子に守られ奇跡的に落ち延びてきた――姫に、男ぶりを見せる絶好の機会を天から与えられながら、このありさまだ。
イダテンが義久を見つめていた。
――いや、こいつは出会って以降、ずっと義久の性根をはかっていたに違いない。
そのイダテンは、腹立ちを隠すように、
「様子を見てくる」
と言い捨て、館のある方向に向かった。
姫は、義久に目をやり、わずかに迷うそぶりを見せた後、イダテンを追った。
――イダテンが姫を残していったことで、ようやく信用されたとわかった。
この館を占拠していた国親側の兵に寝返ることなく、その命を奪ったことで勝ち得た信用だった。
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義久という男を信用したわけではない。
だが、今すぐ裏切ることはないだろう。
ただし、感情の起伏が激しい。
しかも、おばば同様、すべてを一人でしょい込んでしまうたちのようだ。
ならば、おばばと同様、あきらめも早いだろう。
それを心に留めておかねばなるまい。
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崖を伝って落ちてくる水を溜めた岩の窪みで、顔と手に浴びた血を拭った。
凍えるように冷たい水に震えながらも、ようやく人心地が着いた。
厩に足を運び、この館で一番の良馬を見つけて近づくと、気配を感じたのか目を覚ました。
名を「黒駒」という。
黒駒とは良馬を産出する甲斐の黒毛の総称である。
大伯父の身分と財で手に入れるのは、さぞ困難であったろう。
あえて名を「黒駒」としたあたりにも大伯父の喜びと自負が伺える。
男子に恵まれないこともあり、わしには甘い大伯父であったが、黒駒には乗せてくれなかった。
それでも黒駒の世話をした。
目を盗んで乗ることはできた。だが乗らなかった。
おのれの力で、これほどの馬に乗れる身分になるのだと誓った。
右側に立ち、元気であったか、と静かに声をかける。
その目に、おびえや興奮がないことを確認し、優しく首すじを撫でてやる。
相変わらず申し分のない毛並である。
黒駒は、わかっているとでも言うように首を摺り寄せてきた。
厄でも落としたかのように胸のつかえがとれた。
「おお、憶えておってくれたか。よしよし待っておれ。すぐに水と飼葉を持ってきてやるでな」
厩の左隣に馬が十頭ほど繋がれていた。
すべて宗我部側のものだろう。
馬に乗れぬ身分の者のほうがはるかに多いことを考えれば、この先に伏せた兵は五十と言うところか。
砦と山の峰と郷の境。加えて、馬木に斥候を出せば、そのぐらいにはなろう。
むろん、先ほどの門番の砦に関する大言は信じていない。
砦とは名ばかりの柵であろう。
その証に、たいした馬はいない。
名のある武将であれば乗替馬でも、もっと良い馬を持っている。
「おまえの主人の弔い合戦じゃ……一働きしてもらうぞ」
飼葉を与え、右手で鼻すじをなでてやると、黒駒は、義久の左手を軽く噛んできた。
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