ちはやぶる

八神真哉

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第五十八話  追手

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「放っておくのですか」
イダテンは姫の言葉にかまわず、先ほど渡ってきた蔓橋を見つめている。

イダテンの態度に納得がいかない様子の姫を見て義久が答えた。
「助かる見込みがあるのでしょう」
「ならば、手当てを」
「獣の生命力と運にかけたのでしょう」
「ですが……」

姫とて、ここで時を費やすことなどできないことはわかっているはずだ。
イダテンの境遇についても聞いているだろう。
「あやつにとって、裏切らぬのは獣たちだけだったはずです。助けたいと言う気持ちは誰より強いでしょう」

裏切らぬのは、と言う言葉に姫は黙り込んだ。
自ら、そう口にした義久にとっても、じくちたるものがある。

父の敵を討ちたかった。
船越満仲謀反が、宗我部国親の捏造である証をつかみ、都に上り訴え出ようと考えた。
その後、宗我部兄弟に取って代わるつもりだった。

身元をいつわり、宗我部のもとに潜り込んだ。
兼親に仕え二年たらずで馬に乗れる身分になった。
破格の扱いである。
兼親にしてみれば、信じがたい裏切りであっただろう。

それでも、兼親ら宗我部一族が行ってきた数々の所業から見れば可愛いものである。
問題は、それを姫の面前でやったことである。

名乗りをあげての一騎打ちであれば救いもある。
信頼を良いことに背後から主人を襲ったのだ。

命を失ったのは兼親だけではない。
苦楽を共にし、出世を誓い合った信高も喉笛を裂かれ、血まみれになって倒れていた。
家柄を鼻にかけるでもない気のいい奴だった。
その友に声ひとつかけるでもなく戦場から逃げ出したのだ。

たとえどのような事情を抱えていようが、男として、やってはならぬことだった――もはや、武士として名乗る資格はない。
姫を隆家様のもとに届けたのちに身の振り方を考えねばなるまい。

――と、橋の向こうから蹄の音が響いてきた。
伝令だろう。
三騎の武者が一列に並んで進んでくる様子を月の光が映し出す。
イダテンと姫は草むらに身をひそめた。

対岸に立つ義久に気づいた騎馬武者の一人が手綱をしぼり、声を張り上げた。
「どこの手の物じゃ?」
「阿部義光と申す。兼親様とともに、この先で伏せております」

「木俣秀遠じゃ。戸谷範綱様にお仕えしておる」
「国司の姫君が落ち延びようとしていると聞きましたが……」
と、とぼけた。

「こたびの戦に、はせ参じた半数以上が、探索に参加しておろう」
千五百、いや二千もの兵が追っているというのか。

宗我部の側に立って考えれば当然のことにもかかわらず、驚きを隠しきれなかった。
「それほどの者が……」

相手は、わからぬのも無理はないという顔で喋りだした。
「まさか、あの囲みを突破するとはな……とはいえ、時間の問題よ。追手にしろ、探索にしろ人手は十分すぎるほどある」

対岸で幸いだった。
顔色が変わっていただろう。

「このあたりは、比治山の田巻様が担われるらしい……が、先ほど、姫君と鬼の子の姿を鹿籠こごもりで見かけたという報告が届いた。追いつめられ、方向違いの道を行くしかなくなったのであろう……すでに辻や要所には兵も配置しておる。ここまで来ることはあるまいよ」

山道、獣道は言うに及ばず、近隣の家屋敷、納屋、草地、藪にいたるまでしらみ潰しにあたるのだろう。
隠れてやり過ごすというわけにはいかぬようだ。

「おう、用件を忘れるところじゃった。範綱様より伝言がある。兼親様に取り次いでいただきたい」
逃走経路に頭を巡らせていた義久は失態を犯した。
「わしから、お伝えしよう」

義久の返答に、騎馬武者はさすがに、むっとした顔で声を上げた。
「そのようなことができるか」
残りの二人と目配せをして馬を降りた。
様子がおかしいことに気がついたのだ。

主人の威勢を笠に着て、口の利き方を知らぬ郎党もいないではない。
だが、大事のさなかに訪れた使者を主人に会わせようともしない――そのような男を兼親ともあろうものがそばに置くだろうか。

近くに来られたくない理由があるのだ――そう判断したのだろう。

しかも、葛橋の向こうには一頭の馬がつながれていた。
通清とかいう男の物だろうが、それも不審を買ったようだ。

近くの木に馬をつなぎ、二人が葛橋を渡り始めた。
残った一人は、構えてこそいないが弓を手に義久の様子をうかがっている。

兼親も矢を射かければよかったのだ。
一騎打ちがしたいなどというから命を落とすことになる。

そもそも国親には、道隆寺で待てと言われていたらしい。
山賊や赤の他人に罪を擦り付けるにしても、宗我部家の次男が目立たぬに越したことはない。
そう配慮したのだろう。

橋を渡りきる寸前に矛で突くのが一番簡単だろう。
だが、相手は甲冑を身に着け、対岸には弓を手にした男が残っている。
もたもたしていると、こちらの身が危うい。

イダテンの力を借りようと振り返った。
が、そこにイダテンの姿はなかった。

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