36 / 91
第三十六話 急転
しおりを挟む
西に総社、東に国衙が見える。
何層もの郭に囲まれ、砦のごとく高台にそびえ立つ邸の東二の門の前から国府を見渡す。
国司である阿岐権守は、その天辺に立って何を思うのだろう。
邸から南西に半里ほど離れた天神川の船着き場近くの川原から煙が上がっている。
野焼きだろうか。
この時期、野焼きは珍しくないが、これほど黒くはっきりした煙は見たことがない。
なにを燃やせば、あのような色になるのだろう。
イダテンは、熊の毛皮を打ち掛け、鹿皮の行縢を腰にした姿でヨシと老臣を待っていた。
首には三郎が手に入れてくれた濡羽色と竜胆色の布が、背には、ヨシのくれた紙や矢を入れた革の筒袋がある。
弓は、その筒袋に括り付けた。
ヨシに麻の袋を持たされたからだ。中には壷に入った塩と銭が入っている。
まずは住処に戻り、これに加えて、旅立ちに必要な物を用意しなくてはならない。
ミコが、ぽろぽろと涙をこぼし、鼻水をすすっている。
泣き腫らした目は赤い。先ほどから三郎にすがりついて、顔をうずめ、振り返ろうともしない。
「ミコはのう、自分で作った料理をおまえに食べてもらいたいと、おかあに習っておったのじゃ」
三郎の目は寂しげだった。
「なぜじゃ。姫様や忠信様もおまえのことを買っておる。腕の良い工匠のもとに弟子入りするというのであればともかく、ただ、ただ、帰る、では納得がいかぬぞ」
そこへ、姫とヨシが駆けつけてきた。
いつもの女房がいれば、みっともないと許さなかっただろう。
「じいもすぐに来るからと……」
姫は、息を切らせながら続けた。
「なぜなのです? 山に帰ったのでは、天から与えられた才能を活かせないではありませんか」
「わしも得心がいかぬ……が、おまえのことじゃ、気は変わらぬであろう。ならばせめて忠信様とこれから先のことを話すべきであろう。何かしら道があるはずじゃ」
三郎が、門を何度も振り返る。
イダテンの性分から、いつまでも待ちはせぬと思っているのだろう。
確かにその通りだ。
だが、老臣には伝えておかねばならぬことがある。
姫の顔色が悪いことに気がついた。
もともと体が丈夫ではないと聞いている。
具合が悪いのかと聞くと、
「……もう、大丈夫です」
と、言葉を濁した。
そこへ、何ともあわただしい足音とともに真っ蒼な顔をした雑仕女が息を切らし、駆け寄ってきた。
あせりからか足がもつれ、足駄を飛ばしながら派手に転んだ。
砂と血にまみれた雑仕女の手を取ろうとする姫を遮るようにヨシが間に入る。
すがりつくような表情の雑仕女の目から涙がこぼれた。
「姫様、『美夜』殿が……」
誰のことを言っているのかと思ったが、黒い唐猫に、そのような名をつけたと言っていたことを思い出した。
雑仕女の取り乱しように、姫も不安を隠せなかった。
「なにごとです」
「……毒を、毒を盛られたと」
その場にいたすべての者の表情が凍りついた。
ヨシや姫の怯えはミコにも伝わったようだ。
ヨシの後ろに回り込んで腰にしがみついた。
遅れて女房の一人が到着した。
それが事実であることは顔色が物語っていた。
*
何層もの郭に囲まれ、砦のごとく高台にそびえ立つ邸の東二の門の前から国府を見渡す。
国司である阿岐権守は、その天辺に立って何を思うのだろう。
邸から南西に半里ほど離れた天神川の船着き場近くの川原から煙が上がっている。
野焼きだろうか。
この時期、野焼きは珍しくないが、これほど黒くはっきりした煙は見たことがない。
なにを燃やせば、あのような色になるのだろう。
イダテンは、熊の毛皮を打ち掛け、鹿皮の行縢を腰にした姿でヨシと老臣を待っていた。
首には三郎が手に入れてくれた濡羽色と竜胆色の布が、背には、ヨシのくれた紙や矢を入れた革の筒袋がある。
弓は、その筒袋に括り付けた。
ヨシに麻の袋を持たされたからだ。中には壷に入った塩と銭が入っている。
まずは住処に戻り、これに加えて、旅立ちに必要な物を用意しなくてはならない。
ミコが、ぽろぽろと涙をこぼし、鼻水をすすっている。
泣き腫らした目は赤い。先ほどから三郎にすがりついて、顔をうずめ、振り返ろうともしない。
「ミコはのう、自分で作った料理をおまえに食べてもらいたいと、おかあに習っておったのじゃ」
三郎の目は寂しげだった。
「なぜじゃ。姫様や忠信様もおまえのことを買っておる。腕の良い工匠のもとに弟子入りするというのであればともかく、ただ、ただ、帰る、では納得がいかぬぞ」
そこへ、姫とヨシが駆けつけてきた。
いつもの女房がいれば、みっともないと許さなかっただろう。
「じいもすぐに来るからと……」
姫は、息を切らせながら続けた。
「なぜなのです? 山に帰ったのでは、天から与えられた才能を活かせないではありませんか」
「わしも得心がいかぬ……が、おまえのことじゃ、気は変わらぬであろう。ならばせめて忠信様とこれから先のことを話すべきであろう。何かしら道があるはずじゃ」
三郎が、門を何度も振り返る。
イダテンの性分から、いつまでも待ちはせぬと思っているのだろう。
確かにその通りだ。
だが、老臣には伝えておかねばならぬことがある。
姫の顔色が悪いことに気がついた。
もともと体が丈夫ではないと聞いている。
具合が悪いのかと聞くと、
「……もう、大丈夫です」
と、言葉を濁した。
そこへ、何ともあわただしい足音とともに真っ蒼な顔をした雑仕女が息を切らし、駆け寄ってきた。
あせりからか足がもつれ、足駄を飛ばしながら派手に転んだ。
砂と血にまみれた雑仕女の手を取ろうとする姫を遮るようにヨシが間に入る。
すがりつくような表情の雑仕女の目から涙がこぼれた。
「姫様、『美夜』殿が……」
誰のことを言っているのかと思ったが、黒い唐猫に、そのような名をつけたと言っていたことを思い出した。
雑仕女の取り乱しように、姫も不安を隠せなかった。
「なにごとです」
「……毒を、毒を盛られたと」
その場にいたすべての者の表情が凍りついた。
ヨシや姫の怯えはミコにも伝わったようだ。
ヨシの後ろに回り込んで腰にしがみついた。
遅れて女房の一人が到着した。
それが事実であることは顔色が物語っていた。
*
4
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
おぼろ月
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
「いずれ誰かに、身体をそうされるなら、初めては、貴方が良い。…教えて。男の人のすることを」貧しい武家に生まれた月子は、志を持って働く父と、病の母と弟妹の暮らしのために、身体を売る決意をした。
日照雨の主人公 逸の姉 月子の物語。
(ムーンライトノベルズ投稿版 https://novel18.syosetu.com/n3625s/)
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
仇討ちの娘
サクラ近衛将監
歴史・時代
父の仇を追う姉弟と従者、しかしながらその行く手には暗雲が広がる。藩の闇が仇討ちを様々に妨害するが、仇討の成否や如何に?娘をヒロインとして思わぬ人物が手助けをしてくれることになる。
毎週木曜日22時の投稿を目指します。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる