ちはやぶる

八神真哉

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第二話  赤目の男

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放たれた矢は、狙った場所に寸分たがわず打ち込まれた。
だが、矢が届いたときには、その場所にイダテンの姿はなかった。

誤算といえば、目の前を何かがさえぎり、わずかに矢を放すのが遅れたことだろう。
一間ほど先の地面には、野鼠の死骸が落ちており、上空には鷹の姿があった。

従者が崖下を覗いて、「殿」と声をかけてくる。
従者が指し示した先に、渓流を流れていくイダテンと鹿の姿があった。

二の矢を放とうとするが、渦巻く川の流れは早く、あっという間に遠ざかった。
「くそっ!」
 顔が紅潮していくのがわかる。

従者どもは、兼親の怒りに気づかず、口々に騒ぎたてた。
「なんという素早さじゃ、信じられぬ」
「鹿を担いであの動きか。まるで手妻ではないか」

「猿(ましら)のごとく樹上を飛び、疾風のように駆けるとは聞いておったが」
「さすがに、鬼の子じゃ」
「それよりも、あの髪じゃ。まさに赤鬼と呼ぶにふさわしい、燃えるような髪であったぞ」
「角が無いように見えたが?」
「あの髪の中に隠れておったのだろう。角のない鬼など聞いたこともない」

「ええい、うるさい! 黙れ、黙れ!」
兼親の怒りに従者どもはようやく口をつぐむ。
「おのれ、一体何じゃ、あの鷹は。邪魔をしおって……にしても鹿をかついでは動けまいと油断した自分が情けないわ」

兼親や従者の興奮をよそに、兄者は一人違う方向を見ていた。
イダテンが流されていく下流に向かって飛んでいく鷹に目をやり、
「偶然ではあるまい」
と、つぶやいた。

「どういうことじゃ?」
兄者は、その問いに答えようともせず、手にしていた馬に使う鞭で、不機嫌そうに、兼親の右の手の甲をぴしりとたたいた。
従者の間に過剰なほどの緊張が走った。

「力に頼るな、手の内を整えろと何度言わせるのじゃ……弓などやめて薙刀でも振り回しておれ。おまえには、それが似合いじゃ」
兼親は髭に手をやり、眉を寄せた。
「たしかに兄者の腕には比ぶべきもないが……このままでは気がおさまらぬ。やつのねぐらを襲いたい。二日ほどもらえぬか、兄者」

兄者が、その鋭い眼光でにらみつけてきた。
「わしが何も知らぬと思っておるのか、兼親」

問い詰められ、肩肌脱ぎの胸元をぼりぼりとかいた。
間をはずすように天を仰ぎ、肩をゆすって高笑いをして見せる。
「さすがは兄者。長きにわたり床についておっても沙汰は逐一届くとみえる」

胸もとの大数珠を揺らしながら両腕を広げて言葉を続けた。
「あやつが敵に回ることはない。放っておけと言われたものの、どうにも目障りでなあ……自ら手を下したのは初めてじゃが」

兄者は、ふん、と鼻を鳴らした。
「わしのような目に遭いたくなかっただけであろう」

「その通りじゃ」
兼親の言葉に従者どもの顔色が変わった。
兄者の逆鱗に触れた者が、どのような最後を迎えたかを知らぬものはなかった。

兄者は、かつて実の父を放逐し、自害に追い込んでいる。
不興を買えば、血を分けた兼親と言えど無事にはすむまい。

兼親とて、それは重々承知している。
が、そろそろ兄者の真意を問わねばならなかった。

かつての兄者は、兼親の指針であった。憧れであった。誇りであった。
弓馬に優れ、策謀に優れ、恐れを知らなかった。

近隣の領主から、猫の額と揶揄された、宗我部家の領地をここまでにしたのは兄者である。
家督を継いでわずか一年で保を、三年で郷を平らげた。
さらに二年のちには阿岐国の半数の領主が宗我部家の影響下に入った。

毎日が面白くて仕方がなかった。
向かうところ敵なしであった。

それほどの兄者といえども避けられぬものがあった。
呪詛である。

この地には、その昔、皇子が滞在したという神社がある。
名を多祁(たけ)理宮(りのみや)という。

この宮の巫女であった小夜は、その美しさと才気で、男たちの懸想を一身に集めていた。
その小夜に、郡司である兄者、宗我部国親が言い寄った。

色よい返事を求め、ありとあらゆる手を使い、圧力もかけたが、小夜は首を縦にふらなかった。
わが一族に敵対するものや、反感を持つ者たちは陰で喝采したに違いない。

むろん、それであきらめるような兄者ではなかった。
罰当たりにも多祁理宮の境内で襲わせ、攫って運ばせるというやり口に出たのだ。

いかに呪法にたけた巫女といえど、手と口の自由を奪われては何もできない――が、偶然、甲越峠でその一団と出くわした鬼のシバに邪魔をされたのだ。
それが縁で、巫女とシバは夫婦となった。

兄者の怒りはシバにも向いた。
一年後、巫女の余命がわずかと知ると、シバに濡れ衣を着せ、執拗な拷問の末、命を奪った。

怖ろしいおなごであった。
都から来た陰陽師も、あの巫女の前では、赤子扱いだったと耳にはしていた。
が、死を目前にして、あれほどの呪詛を行えると、誰が考えよう。

兄者は、その呪詛で死線を彷徨った。十年前のことだ。
白目が鮮やかな血の色に変わったのもその時からだ。
床から離れることができるようになったのが三年ほど前。
人並みに動けるようになったのは、わずか二年前である。

巫女が逝ったのち、兼親は、残ったばばと鬼の子に報復しようとした。
だが、できなかった。
ようやく口をきけるようになった兄者が、放っておけ、と答えたからである。

兼親自身も躊躇した。
あの巫女であれば祟るのではないか、と。

兼親にとって、兄者は生きるよすがであった。
兄者のいない今生など考えられなかった。
兄者の命こそ、唯一護らねばならないものだった。

だが、かつての兄者であれば、放っておけ、などとは決して口にしなかっただろう。
事実、兄者の面目をつぶした男の一族は皆殺しの憂き目にあっている。
生まれたばかりの赤子にも情けをかけなかった。

兄者は、いまだに巫女の呪詛に怯えているのではないか――ならば許せなかった。
それは、兼親が憧れた兄者ではなかった。

床から離れられるようになった三年前に再度、兄者に伺いをたてた。
しかし、答えは変わらなかった。
反発し、密かに郎党どもに襲わせていた。

「長年にわたり酒も飲めず女も抱けず、何より戦に出ることもできぬ、そのような目に遭うなど、ご免こうむる……とはいえ、ひとつだけ、羨ましゅうてたまらぬことがある」
 兄者を睨みつけた。
「誰もが恐れる、その血色の目じゃ。その目だけは羨ましゅうて仕方がない。その目を手に入れ、戦場で敵を蹴散らすわが雄姿を幾度、夢想したことか」

兼親の言葉に、従者どもが凍りついた。
陰ではだれもが「赤目様」と呼んでいたが、面と向かって、その言葉を発するような愚か者はいなかった――万一、いたとしても、そやつは、すでにこの世にはいないだろう。
震えあがった従者どもは巻き添えを食うまいと、あわてて距離をとった。

だが、奇妙なことに兼親の言葉に兄者は怒りを見せなかった。
それどころか思わぬことを口にした。
「名を売りたくば、兵法を学べ。おのれが先頭に立ち、敵を蹴散らしているようでは、いつまでたっても十万の兵を率いることはできぬぞ」

開いた口がふさがらなかった。
この国で、十万もの兵を率いることはできるのは征夷大将軍しかいない。

将軍は帝が任命する。
言うまでもなく名門の貴族の家に生まれた者に限られる。
われら成り上がりの土豪には縁のない話だ。

阿岐国を、ほぼ手中に収めたとはいえ、われらの敵は多い。
近隣の領主を邸に招き、兄者が今の言葉を口にしようものなら、朝廷に対し謀反の疑いあり、と訴えられるだろう。

それとも、本気でそれを考えているのか――いや、それならそれで面白い。
むしろ、そうあって欲しいものだ。
大それた野望こそ、わが兄者にはふさわしい。

「さすが、兄者。言うことが豪気じゃ。学問と聞くと虫唾が走るが、兄者の期待には応えたいものよ」
「おまえの師は、明日にも館に到着する」

その言葉に息をのんだ。
我が一族の命運を左右するであろう大事を抱えるこの時期に、次の手を打っているというのか。

兄者が、その赤い目で値踏みするかのようにわしを見つめてきた。
十年前の兄者がそこにいた。
「無駄にした歳月を取り戻さねばなるまい」

その言葉に涙腺が緩んだ。
兄者はおのれを取り戻したのだ。

今宵は側近どもと酒宴を張らねばなるまい。
わが目からこぼれ落ちるものが、笑いすぎたゆえの涙であると見えるよう豪快に笑って見せた。
「いやいや、面白う、なりそうじゃのう」

兼親の野太い笑い声が耳に入らぬかのように兄者は峡谷の上流に目をやった。
その方向にイダテンの住処がある。
かつては、あの巫女も住んでいた。

袖で目元を拭い、兄者に聞こえるよう、声を張り上げた。
「あの鹿を街で売るつもりであろう。このようなこともあろうかと、あやつの、ばばが毛皮を売りに来ておった場所を押さえておるのじゃ。前にいたあこぎな商いをする男は追いだしてやったで、つなぎもたやすい」

巻き添えを恐れ、距離をとっていた信雅に声をかける。
「信雅、頼平に伝えろ。イダテンが来たら、毒入りの芋粥でもふるまってやれ、と」
わしの馬を使え、と言いそえる。

売りに来た馬喰によると都でも十指に入るという馬である。
立派な馬に乗れる喜びと乗りこなせるだろうかという不安を隠せない信雅に、にやりと笑いかけ、遅れたら承知せんぞ、とつけくわえた。

ところが、鐙に足をかけた信雅に、
「待て!」
と、声がかかった。
兄者だった。
「毒は使ってはならぬぞ」
と、つけ加えた。

たしかにここ一年で三人ほどを毒で葬った。
毒殺が続けば不審に思う者もいよう。
だが、兄者の力をもってすればどうにでもなることだ。

やはり臆しているのか。
とうにあの世に逝った巫女を恐れているのか?
「兄者!」

兄者は、兼親に構うことなく続けた。
「信雅、イダテンを国守の姫君の前で死なぬ程度に痛めつけて見せよ。うまくやりおおせたら褒美に馬をやろう。兼親に次ぐほどの馬だ……殺してはならんぞ」

今朝早くに、国衙近くの道で国司の姫君の牛車を見たのだ。
車副に銭を握らせて行き先を聞き出した。

多祁理宮への参拝であれば、帰りもあの道を通るだろう。
兄者は、そこでイダテンを襲えと言っているのだ。
信雅は蒼白になった。
しくじったときのことが頭をよぎったのだ。

「待ってくれ、兄者。やつは思った以上に素早い。手段など問わず、けりをつけるべきじゃ」
「あやつは崖を落ちるときに足を痛めておる」
唖然とした。
兄者にはいつも驚かされる。

「さすがは兄者。相手の弱みを見逃さぬ、その眼力……日本六十余州広しと言えども、兄者の右に出る者はおるまい」
「それで誉めているつもりか?」
「むろんじゃ。わしにとって兄者は神も同然よ。事実、兄者の手足となって働いてきたではないか」
「ならば、その神に従うことだ。面白い見世物が観たくば、な」

おぼろげながら兄者の思惑が掴めてきた。
イダテンを国司のもとに送り込もうというのだろう。
いかにも兄者らしいやり口だ。

「しかし、兄者。やつはわれらを憎んでいる……思惑通りに事は進むまい」
「二年前のようにか?」
何もかも承知しているようだ。
ばばを質に国司の命を狙わせようとしたことも、イダテンに毒を盛り、失敗に終わったことも。

「兄者であれば、こうするのではないかと、な……しかし、ばばが死んでも涙ひとつ流さなかった、と聞いておのれの見る目のなさを嘆いたものじゃ」
「血は争えぬものよ。あやつの父のことを想い出せ」

確かに、やつの父、シバは情にもろかった。
だが、兄者の見立てが正しかったところで、今や、やつは天涯孤独。
質にとる身内一人いないのだ。
国司のもとに送り込んだところで、言うことなど聞くまい。

反論しようとしたができなかった。
背すじが粟だったからだ。
兄者の血色に染まった双眸が鬼火でも宿っているように怪しく揺らいでいたからだ。

目を離したくても離せなかった。
それどころか魂ごと引き込まれそうになる。

「あやつには、この世の地獄を存分に味あわせてやりたいのよ……」
兄者が言葉を発し、ようやく呪縛が解けた。

同時に身震いした。
兄者の思惑が読めたからだ。
「いやはや怖ろしい……兄者の敵として生まれなかったことを神仏に感謝せねばならぬのう」

「軽口をたたく前にやることがあろう」
「おおっ、そうじゃ、そうじゃ。今日の目的を忘れるところであったわ。そのための視察であった……とはいえ、丸太と板切れが積み上がっているだけであろう。それが、わずか一日で組みあがるのか」

「そのために腕の良い宮大工を呼び寄せたのじゃ」
兄者が残忍な笑みを浮かべた。

兼親は、兄者が馬に乗るのを待って、従者たちにも聞こえぬようにつぶやいた。
「一日で組みあがらねば、どのような目にあうことか……いや、そもそも生かして帰そうという気はあるまいのう。しかも、そういった汚れ仕事は、大概わしに回ってくる……くわばら、くわばら」

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