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第一話 鬼の子
しおりを挟む第一話 鬼の子
厠から帰ってきて、わが目を疑った。
どこから湧いて出たのだというほどの童どもが、武器庫の前に群がり、中にある物を根こそぎ持ち出そうとしていた。
荷車を持ち込んで盾を積み込む者までいる始末だ。
鍵はかかっていたはずだ。
こんなことで責任を問われたのではたまらない。
「やめろ! 何をしている。糞餓鬼どもが!」
怒鳴りちらし、力ずくで手前の二、三人を引きずり倒したが、童どもは怯むどころかにらみつけてくる。
それどころか、たたみかけるような口上で、次々と責めたててきた。
「兵(つわもの)どもは、なにをぐずぐずしておるのじゃ。宗我部国親が攻めて来るぞ!」
「赤目じゃ、赤目の国親が攻め入るぞ。髭の兼親が先陣を切るぞ。弓を取れ! 矛を持て!」
勢いに押され、差し出された矛を思わず受け取ってしまい、舌打ちする。
「馬鹿を言うな。ここをどこだと思っておるのだ。われらが主は、代々、帝を支え続けてきた摂関家の嫡流ぞ。いかに横紙破りの国親と言えど……」
――最後まで告げることができなかった。
どん、と下腹に響く太鼓の音が、法螺貝の音が。
そして大地を揺るがす鬨の声が上がった。
*
昔々、まだ、この地に龍や物の怪が棲みついていたころ。
都から遠く離れた国の山奥に、イダテンと呼ばれる鬼の子がたった一人で住んでいた。
*
この地の国府は、小島の浮かぶ穏やかな海と連なる山々に囲まれた場所にある。
国衙後方にそびえる高尾山の頂に鎮座する巨大な岩の上から眺めると、それがひと目でわかる。
その岩の下の窪みに小さな御堂がひっそりと建っていた。
格子越しに中を覗くと、地元の漁師が網にかけたという、一尺ほどの観音菩薩像が慈愛に満ちた表情を浮かべている。
差し込んだ朝日が磨き上げられた銅製の香炉に反射し、尊顔の後方を丸く照らし出した。
それはまるで後光が射しているように見えた。
底冷えのする朝にもかかわらず、この場所だけは暖かく柔らかい光で満ちていた。
*
陽も差し込まぬ、切り立った峡谷の崖の岩場を踊るように進むものがある。
堂々とした体躯と雄々しい角を持つ牡鹿だった。
その牡鹿が足を止めた。
気配を感じたのだ。
油断なく、ゆっくりと辺りを見回した。
だが、その目に映ったのは紅葉が点在する対岸の崖と岩の転がる渓流だけだった。
考えてみれば、自分の身を脅かすものがこのような場所にいるはずがない。
人は自分たちの餌の収穫に忙しかろうし、なにより、この崖は登れまい。
やっかいなのは狼だが、この場所であれば取り囲まれることはない。
落ち着きを取り戻し、ふと、空を仰いだ。
翼を広げた鷹の姿が目に入った。
見る間に姿勢を変え、正面から挑むように降下してくる。
崖から追い落とそうというのだろう。愚かな行為だ。
狙うなら、うさぎか鼠に絞るべきだ。
たとえ、餌が取れず、追い詰められているのだとしても後方から忍び寄るべきである。
とはいえ、降りかかる火の粉は払わねばならない。
自慢の角で迎え撃とうと頭を下げた
その時、対面の崖から、何かがうなりをあげて飛んできた。
首をひねった途端、視界がぶれ、目の前が赤く染まった。
*
それが自分の首から噴き出す血で、飛んできた手斧が自分の喉をかき切ったのだと理解する前に、牡鹿は意識を失った。
そして、岩場に降り積もった紅葉を撒き散らしながら谷底に落ちて行った。
*
対岸の崖の窪みにある灌木が揺れて、異形の者が姿を現した。
それは、まさしく異形だった。
それは、地獄の炎を思わせる、燃え上がるような紅い髪の毛を持っていた。
その鮮やかさは、とてもこの世のものとは思えなかった。
しかも、伸びるにまかせた髪の毛の量は常人の十倍はあった。
峡谷から吹き上がる朝風に煽られ、腰まで伸びた、その髪が生きてでもいるかのように膨らんだ。
紅いのは髪の毛だけではない。
今は衣に隠れているが、肘から先と膝から下にも獣のような紅い毛がびっしりと生えていた。
朽葉色の小袖の上から打ち掛けた真っ黒な熊の毛皮が、紅い髪をさらに映えさせていた。
腰には鹿の毛皮をなめした行縢を巻きつけている。
右腕にはユガケと呼ばれる革手袋を、背には箙代わりの革製の筒袋と小さな弓を背負っている。
そばまで寄って顔を見れば、それは人に見えた。
年の頃は十前後。への字に結んだ口。
つりあがった大きな目の上に、すすきの穂を貼り付けたような形の眉がのっている。
口を開くと、人より長い犬歯がのぞく。
少々癖はあるが、顔だけ見ればただの童だ。名をイダテンという。
*
顔は妙に火照り、足もとがふらついた。
ここ二、三日の寒さで風邪をこじらせたようだ。
上空で弧を描いている鷹が、きゅーきゅーと鳴く。褒美をねだっているのだ。
先ほど捕えた野鼠を投げてやる。
鹿と手斧を回収しようと岩場を蹴った。
そのとたんに谷底から風が吹きあがり、あおられた。
一尺以上流され、着地する場所を失った
落ちながらも崖から張り出した赤松の枝に手を伸ばし、右足の届く場所を探す。
*
気がついた時には、松の枝を掴んだまま三丈ほど下の岩棚に仰向けに倒れていた。
イダテンの重さに耐えきれなかったのだ。
叩きつけられた衝撃で息もできなかった。
痛みもひどい。だが、血の匂いはしなかった。
しばらく待てば動けるだろう。それは経験から学んでいた。
薄暗かった谷間にもわずかに明りが差し込んできた。陽が登り始めたのだ。
鷹が五尺ほど上の貧弱な松の枝に降り立ち羽根をたたむ。
その寸前に掴んでいた野鼠をイダテンの顔のそばに落としてきた。
この餌は、お前が食えといわんばかりに。
「心配はいらん。腹が減っておるのではない。熱があるのだ」
声が出れば動くこともできる。
ゆっくりと右手を引き寄せ、首にかけた三本の革紐をたぐると花緑青色と、透きとおった緋色の勾玉が、そして小さな鏡があらわれた。
緋色の勾玉は、自らを主張するような輝きを見せた。
どうやら無事だったようだ。父と母の形見である。
できることなら早く帰って横になりたかったが、そうも行かない。
ぐずぐずしていれば、せっかくの獲物も狼や鷲たちに奪われるか、川に落ちて流されるだろう。
急ぐ理由は、ほかにもあった。
こたびの獲物を塩と布に代え、この地を離れる決心をしていたのだ。
新しく住む場所は見つけているが、住処は自らの手で建てなければならない。
さらに冬になる前に木の実などを貯めこみ、干し肉などの保存食も作っておかねばならなかった。
*
大鹿の四肢を棒に括り付け、峡谷の崖沿いの道を担いで下る。
しとめるときに首をかき切っていたこともあり、血抜きはすぐに終った。
臓物はカラスたちの餌になっているだろう。
回収した手斧は腰に手挟み、小弓ほどの短く太い弓は弦巻を使ってぶら下げた。
鷹が前方で何度か旋回を繰り返すのが見えた。
飛天と名づけたこの鷹は、生まれてすぐに巣の下に落とされていた。
最初に生まれた雛が、あとから生まれてくる雛を巣から追い落とす。それが鷹の習性である。親の運んでくる餌を独占するためだ。
イダテンは傷ついた雛の手当をし、餌を与え、名をつけ、育ての親となった。
その飛天が、いつもより低く旋回したときに何かあると気づくべきだったのだ。
普段であれば、三十貫程度の荷物に苦労することはない。
だが、今日ばかりは体が動かなかった。
ちょうど目の前に祠の置かれた場所がある。
そこで休息を取ろうと足を踏み入れた。
――が、その場所は荒々しげな十人の男に占拠されていた。
黒紅色の直垂に身を包んだ男だけが床几に座って休んでいる。
黒い柄の矛を手にした従者が驚いた様子を見せる。
白い柄の矛持ちがもう一人、弓持ちが二人。馬の口取りが四人。
その横には、顔中が髭で覆われた身の丈七尺に届こうかという大男が立っていた。
齢は三十を越えているだろう。
銀鼠の地に金襴の入った花菱柄の直垂を身に着け、六尺はゆうにあろう銀装の大太刀を腰に帯びていた。
馬上で振るう大太刀は従者に持たせるか背中に背負うものだ。が、この男の腰にはぴたりとはまる。
尻鞘には虎の皮を奢っていた。ずいぶんと羽振りが良いようだ。
その、髭面の大男が、ぎょろりとした眼をむいて、にやりと笑い、床几に座っている男に声をかけた。
「なんとも珍しきものが現われたぞ、兄者」
兄者と呼ばれた男は無言でイダテンを見つめてきた。
大男と比べると小さく見えるが、背丈は人並み以上にある。
首筋や袖から覗く筋肉を見る限り、かなり鍛えてもいるようだ。
何より特徴的なのは、幼い童であれば、見ただけで泣き出してしまうであろう、その双眸だった。
目つきが鋭いというだけではない。
白目の部分が鮮やかな赤い色をしていたのだ。
間違えようがない。
この地の実質上の支配者、宗我部国親だ。
腰は金装の太刀、足もとは赤牛の毛皮の貫で固めていた。
赤目の国親が何も言わぬのを見ると、大男は満足そうに左頬の髭を右手で撫でた。
ならば、この男が国親の弟、宗我部兼親だろう。
その兼親が直垂の懐から腕を出し、肩肌脱ぎになった。
丸太のような腕と、ぶ厚い胸が現れた。腕も胸も毛むくじゃらだった。
首からふたえに掛けた大数珠が、その厚い胸元で揺れる。
従者から弓を受け取ると、矢をつがえ、ぴたりとイダテンに的を定めた。
首から肩への筋肉の盛り上がりと、弓のしなり具合から相当な強弓と知れた。
距離は約十間。腕に自信のあるものなら、はずすことはない。
兼親は、にやりと笑った。
*
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