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1巻
1-2
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一人はシルヴィアの『義兄』であるウィリアム・スカーレットだ。
年齢は十歳年上で、穏やかで礼儀正しい彼は現在、主に騎士団の宿舎で生活している。
将来は叔父のレオンと同じく騎士団の総帥に昇り詰めると言われる程、将来を有望視されている人物だ。
十八禁版のウィリアムの設定は大体こうだ。
ウィリアムは幼い頃、スカーレット公爵家に引き取られる。血縁関係の薄い彼がどうして公爵家に引き取られたのかというと、わたしが生まれるまで公爵家に中々子供ができなかったせいだ。
わたしの両親は貴族としては珍しく恋愛結婚であったのだが、跡取りが生まれず、親族は父に愛人を娶るように進言していた。
けれども父はそれを両断し、スカーレット家に連なる親族の子供を引き取って、その子を次期当主として育てると宣言した。
結果として公爵家に引き取られた子供――ウィリアムは養父であるわたしの父にひどく感謝していた。
ウィリアムの母親は元はただの使用人だった。しかし優れた容姿である彼女に目をつけたウィリアムの父が手を出し、愛人になったのだという。
その立場のせいでウィリアムは正妻やその子供たちから躾という名目で虐待されていた。
更にはウィリアムの母は正妻からの虐めに耐えきれず、彼を置いて屋敷を去ってしまった。
残ったのは自分に興味のない父と憎悪をたぎらせた正妻とその子供。
貴族の子息として適切な教育を受けるどころか食べ物すら殆ど与えられていない。
更に恐ろしいのは、ウィリアムが少し粗相をする度に躾と称した折檻が待っていた。
嬉々として与えられる暴力に侮蔑の言葉。
幼いウィリアムに抵抗する術なんかあるはずもない。
だからこそ彼はせめて被害を最小限に抑えようと自分に与えられた屋根裏部屋で息を潜めて過ごしていたのだという。
寒さに震えながら身を縮め込ませて、ただ暴力に耐え続ける惨めな生活――そんな生活から抜け出せたのは本当に運が良かったからだ。
たまたま公爵家夫婦に子供ができなかったゆえの代打。
別に自分じゃなくても構わない。
むしろ碌な教育を受けていない自分なんかよりも、公爵家の跡取りを目指すに相応しい人物がいくらでも居ることは、ウィリアムだって分かっている。
けれどウィリアムは知ってしまった。
温かいスープの味を。
頭を撫でられる柔らかな感触を。
頑張った分だけ認められる嬉しさを。
知ってしまったからこそ手放したくなかった。
たとえ、うるさい親族を黙らせる為の道具として引き取られたにしても、結果としてウィリアムは救われた。
だからこそ自分を救ってくれた養父と養母の役に立ちたいと願うようになる。
ウィリアムは元来賢く、学んだことはすぐに覚えたし、屋敷に来たことで食生活は大幅に改善され、健康状態だって良くなった。
正妻と子供達の顔色を窺って生活していたことで、社交術も本人の知らぬ内に磨かれていた。
周囲からの評判は上々であったけれど、彼の心中では常に不安が付き纏っていた。
どれだけ勉強しても、剣術で褒められても、優秀だと言われても、決して晴れることのない気持ち。
だって自分は所詮、公爵家に子供ができなかったから引き取られただけの替えのきく存在。
ただ運が良かっただけの紛い物。
偽物に過ぎない自分の居場所は、本当にこの屋敷にあるのだろうか。そんな疑念がいつまでもウィリアムを苦しめる。
不安を少しでも払拭しようと彼は懸命に足掻こうとした。
だというのに公爵家に子供が、シルヴィアが生まれてしまったのだ。
その翌年には、弟のミハエルまで……
公爵夫妻の『本当の』子供が生まれたことにより、ウィリアムは余計な跡目争いを起こさないように騎士学校に入り、騎士の道を目指すことを余儀なくされる。
『最愛の果てに』のゲームではウィリアムが騎士団長に就任し、貴族のパーティーで警護の指揮をしていたところ、ヒロインであるアンジュ・ヴィリエと出会うことになる。
伯爵家に引き取られたアンジュにとって初めてのパーティーだったが、上手くできるだろうかという不安から気分が悪くなり、外で体を休めようとしたところに酔っ払った貴族の男に絡まれ、そこに偶然現れたウィリアムが颯爽と助けたことがきっかけで二人は仲を深めていく。
だが、このルートでもヒロインの邪魔をするのが、わたしが転生したシルヴィア・スカーレットだ。
シルヴィアは幼い頃、ウィリアムを純粋に兄として慕っていたし、尊敬していた。
転機となったのはシルヴィアが十一歳の時。
悪意ある親戚によってウィリアムが本当の兄ではないと教えられ、幼いシルヴィアは動揺のあまり、ウィリアム本人に悪態を吐いてしまう。
そんなシルヴィアを見て義兄は『困ったフリ』をして曖昧に笑った。
もしも対峙する相手が観察力に優れたシルヴィアじゃなかったら、ウィリアムの笑みが張りぼてだと気付くことはなかっただろう。
呆然としたシルヴィアのその視線の意味を、ウィリアムだって分かっているだろうに、彼は決して表情を崩さなかった。
困ったフリ、気付かないフリ、それは言外にウィリアムにとってはシルヴィアのことなんかどうでもいいという宣言に他ならない。
ウィリアムにとって、シルヴィアはその他大勢の有象無象と同じ存在であったのだ。
大好きだったからこそ、シルヴィアはウィリアムを憎んだ。
そのくせ、結局構ってほしくて会う度に罵倒するようになる。
けれどウィリアムはやはりシルヴィアのことなんか気にする様子はない。
虚しさと悲しみでごちゃまぜになった歪な感情が年々シルヴィアの心を蝕んでいく。
そんな時だった。ウィリアムとアンジュが逢瀬を重ねている場面を見てしまったのは。
義兄がその女を見つめる瞳には確かに熱が籠っており、自分に向けるモノとはまるで違う。ひどく優しいものであった。
ウィリアムのそんな表情を初めて見たことに動揺し、シルヴィアはすぐに相手のことを調べた。
もしも相手がウィリアムと年の近い大人の女性であれば、あるいは公爵家に匹敵する程の爵位が高い貴族の女性であれば、まだ納得できた。
だけど、相手は自分と同じ年の、それも平民上がりの凡庸な女だった。
そんな女が何故義兄を誑かすことに成功したのか。
シルヴィアが手にすることができなかった義兄の『特別』。
それをなんなく手にしたアンジュが尚更憎たらしくて堪らなかった。
しかし皮肉なことに、取り巻きを使って虐めても、社交界や学園で除け者にしても、暴漢に襲わせても、失敗に終わった。
それどころかその度にウィリアムのアンジュに対する庇護欲が高まり、より二人の仲が強固なモノへと変わっていくだけだった。
どれだけ彼らの仲を引き裂こうとしても上手くいかないことに痺れを切らしたシルヴィアは、最後には自らナイフを手にし、アンジュの顔を切り刻もうと襲い掛かる。
それを制したのもまた、ウィリアムだった。
二人の間に割り込んだウィリアムは、アンジュの顔すれすれに振りかざしたナイフをその手で受け止めた。
抜き身のナイフは彼の硬い掌を切り裂き、ダラダラと血が流れ出る。だというのにウィリアムはこれでやっとシルヴィアを粛清する証拠ができた、と嬉しそうに笑ったのだ。
ウィリアムの宣言通り、シルヴィアはその後。庶民の子供のお小遣いでも買える程の最底辺の娼婦に成り下がって、何人もの客を休む間もなく相手にしなければならなくなった。
そんな日々を送るシルヴィアの元に一度だけウィリアムがやってくる。
公爵家令嬢だったシルヴィアが平民どころか貧困民の住人に犯される姿を見たウィリアムは、それはそれは愉快そうに高笑いする。
そこには義妹への情なんて欠片もない。むしろようやく邪魔な荷物を片付けることに成功したという達成感の悦びに満ち溢れていた。
――だって、シルヴィアがアンジュを追い詰める度に、ウィリアムの神経が密かにすり減っていったから。
本当はアンジュを危険な目に遭わせないように自分の手元に閉じ込めたかった。
シルヴィアがアンジュに危害を加えないか心配する気持ちが日に日に強まり、焦燥から眠れなくなっていく。
せめて自分の部下をアンジュの護衛として側に置いてくれないかと提言したというのに、彼女は困ったように笑うだけで決して頷いてはくれない。
何度も何度も危ない目に遭ったというのに、どうして自分の提案を拒絶するのだろう。
外は危ないのに。
私の目の届く所にさえ居たら守ってあげられるのに。
私だけが君を守ってあげられるのに。
どうして私の手を取ってくれない?
最初は純粋な心配だった気持ちがだんだんと焦燥となり、やがて心が闇に沈んでいく。
そうして結局彼はシルヴィアの末路を見届けた後、その心の求める衝動のまま、アンジュを永遠に自分の部屋に閉じ込めたのだった。
◇ ◆ ◇
――ウィリアムのルートを思い出したわたしはベッドに寝転んだまま頭を押さえていた。
(……え。もう地獄じゃん)
十八禁版のウィリアムルートではグッドエンドだろうとバッドエンドだろうとアンジュはウィリアムに監禁されることになる。
違いとしてはアンジュが同意しているかどうか。ただそれだけのことで救いも慈悲もない。
そんな男が自分の義兄なのだ。あまりの恐ろしさから全身に鳥肌が立つ。
というかそもそも義妹を娼婦に堕として高笑いする男ってやばくないか?
人の心はどこにいった?
シルヴィアはブラコンを拗らせて自爆したことにより生き地獄に堕とされたわけだけれど、アンジュはもらい事故もいいところである。
ウィリアムルートを思い出したこともあり、心情としてはできればなるべくウィリアムに近付きたくない。
けれどウィリアムから距離を取ることを選んだ場合、屋敷に居るもう一人の攻略キャラの、ウィリアムに対するブラコンという名の狂気が炸裂する恐れがあった。
(せめてこの世界が全年齢版であれば……)
全年齢版の場合、シルヴィアとウィリアムは少し仲の悪い程度の兄妹で、そこまでの確執はない。アンジュに対しては平民の成り上がり女が義姉になるなんて嫌だ、というだけの理由だからイジメに関してもそこまでひどいものではない。
ゆえに断罪後は公爵家を追い出されて規律の厳しい修道院で監視されながら一生過ごす程度で済むのだ。
まだ十八禁版か全年齢版か分からないのならば、今のところは最悪の場合を想定して動くべきだろう――となると、わたしがこれから起こす行動は決まっている。
「ウィリアムお兄様いらっしゃいませんか?」
彼の部屋まで訪ねて規則正しくノックすれば、すぐに目的の人物は微笑んで出迎えてくれた。
その笑みは見惚れるほど、美しい。
燃えるような赤髪が多いスカーレット家にしては珍しい、絹のような艶やかな黒髪に、日に焼けない白く透き通った肌。
エメラルドの瞳にはどこかアンニュイな色気を感じる。これでまだ二十歳になったばかりなのだというのだから末恐ろしいものだ。
メイドを呼び出してお茶を用意させるウィリアムと、向かい合うようにソファーに座る。
「シルヴィアが私の部屋までやってくるなんて珍しいね。何か用があったのかな?」
そう。恐らく二人の関係は現時点ではまだ、仲の良い兄妹であるはずだ。
確かにいつものシルヴィアであれば忙しい兄に遠慮して、彼の部屋まで訪ねることはしない。
けれど記憶を取り戻した今のわたしは別だ。
ウィリアムが現段階で『シルヴィア』をどう思っているのか、この目で冷静に確かめる必要があった。
『義兄』であることを悪意の塊みたいな親戚達に教えられたことが原因で、シルヴィアとウィリアムの仲は拗れるようになる。
ウィリアムだって、自分に懐いてくれる年の離れた義妹へ、家族としての情くらいは抱いていたはずだ。たとえそれが複雑なものであったとしても。
その関係を崩したのはシルヴィア自身。
『義兄』と分かった途端、長年にわたってウィリアムに粘着質に絡んだ挙句、彼の一等大事な『特別』に手を掛けようとしたことで憎まれてしまった。
だったら同じ轍を踏まなければいい。
純粋に『妹』として彼を慕い、頼って、素直に彼を肯定すれば、関係性が変に歪むこともないはずだ。
それにウィリアムはどこか自己肯定感が低いところがあって、人から頼られるのが嬉しいのだと、ゲームのシナリオで知っている。
――であれば、おあつらえ向きにわたしは今日王子の前で失態を犯したばかりだ。
消沈している姿を見せて、ウィリアムの庇護欲を少しでも掻き立てられたらいい。
そんな目論見を抱いたからこそ、重たい体を引きずってやってきたのだ。
(我ながら小狡い真似をしているわよね)
だけど、ウィリアムが絆されるか否かにわたしの今後の人生が掛かっているのだから、なりふりは構ってられない。
「何も……ただウィリアムお兄様とお話ししたかったから、と言えば怒りますか?」
「いいや。可愛い妹がそんなこと言ってくれるなんて、むしろ嬉しい限りだよ」
模範的な彼の返事に曖昧に微笑んで、場を保たせる。
紅茶を飲むウィリアムの姿は優雅で、思わず見惚れそうになった。
(ウィリアムが一番の推しだったからなぁ)
けれど今心臓がドギマギしているのは、推しを見て興奮しているというよりは、ウィリアムの手に掛けられたシルヴィアの末路が恐ろしいからかもしれない。
なんて嬉しくない吊橋効果なのだろう。
「ウィリアムお兄様はいつもお忙しいようですから。これでもわたくし、我慢するようにしているのですよ」
「シルヴィアならいつでも歓迎するよ。久しぶりに私の膝の上で本でも読んであげようか?」
「まぁ。わたくしはもう十歳なんですから、そんなことで喜ぶ子供じゃありません。ですが、ウィリアムお兄様さえよろしければ、少し甘えさせて下さい」
「……シルヴィア?」
唐突に立ち上がったわたしに驚いたように、ピクリとウィリアムの片眉が上がる。
そのまま彼の膝の上に座り、向かい合う形でぎゅっと背中を抱きしめれば、ウィリアムの心臓の音が聞こえた。
突然の行動に多少は驚いたであろうに、彼の鼓動は規則正しい。
それはウィリアムにとってシルヴィアがまだ『特別』な存在になれていないことを意味する。
だからこそ、ぎゅっと力を込めて抱きついて縋った。そんなわたしに彼は背中に手を回し、ゆっくりと子供をあやすように優しく背中を叩く。
ウィリアムの手は幼い頃から剣を握っていたからか掌が硬く大きい。いくつもある剣ダコは彼が努力してきた証でもある。
「どうしたの?」
「……今日のお茶会で失敗してしまったの」
せっかく王子との顔合わせの為に整えられた舞台。実際のところ、それが自分の失態で芳しくない結果となったことは嘘偽りなく心苦しい。
彼は励ますように、わたしの頭を撫でる。
「シルヴィアが社交で失敗するなんて珍しいね」
「せっかくのアルベルト殿下との顔合わせだというのに、ご挨拶もできないまま緊張から倒れてしまって……帰りの馬車の中、お母様が無言だったから、すごく気まずい思いでしたわ」
ぼそぼそとした声で、ことのあらましを大体の真実と少しの嘘を混ぜて喋れば、彼は大丈夫だと口にする。
「安心しなさい。そんなことくらいで婚約は破棄にはならない」
できれば、婚約破棄になってくれた方が有り難い。
だけど本音を言う訳にはいかないので、こてりと首を傾げておいた。
「本当?」
「ああ、もちろんさ。私がシルヴィアに嘘を言ったことはあるかい?」
確かに彼は嘘を言ったりはしない。
ただ真実を黙っているだけだ。
例えば、アルベルト殿下とわたしが婚約した理由とか。
「……ないわ」
「だろう? 私は可愛いシルヴィアに嘘なんかつかないさ。だから安心するといい」
慰めるようにおでこにキスを落とされて、思わず顔が赤くなる。
彼はそんなわたしの態度におやと面白そうに口端を上げた。
「ウィリアムお兄様。わたくしは立派なレディになったのですから、過度な接触は困りますわ」
「今まで散々してきたのに?」
そこまで頻繁に『兄妹』としての交流があったわけではない。
珍しく意地悪気に笑うウィリアムの、その瞳の奥には確かな愉悦が混ざっていて、揶揄われたのだろうと分かっていても、羞恥で顔が赤くなる。
記憶を取り戻してから何故か感情の制御が利きにくいのは、未だにシルヴィアであった自分と、前世のわたしの人格に混乱があって、それが長引いているからかもしれない。
「ウィリアムの馬鹿。意地悪っ!」
悔し紛れに罵倒をすれば、彼の心臓がドクリと大きく音を立てた。
(えっ、なんでここで動揺しているの? ウィリアムはアルベルトと違って相手を泣かす趣味はないはずでしょう?)
そう思ってからすぐに思い至った。
(はっ! 分かった。わたしが悪口を言ったからムカついたのね)
ゲームではシルヴィアに罵倒されていても涼しい顔をしていたけれど、書かれていなかっただけで内心は怒り心頭だったのかもしれない。
だとしたらまずい。
慌ててフォローするように口を挟む。
「嘘っ! 本当は大好きよ。悪口を言ってごめんなさい」
素早く謝罪して、おどおどと彼の顔を見れば、一体どうしたのか口元を押さえていて、耳が赤くなっていた。
それに驚いて瞬きしたところで、部屋にノックの音が響き渡る。
ウィリアムはわたしと顔を見合わせた後に、部屋の扉を開けることは許可せず、わたしを抱きしめた状態で応対することを選んだ。
「……夜分に申し訳ありません」
「いや、いいさ。それより用件はなんだ」
「そちらにシルヴィア様はいらっしゃいますでしょうか?」
「ええ。居るわ。どうかして?」
「実は……先ほど王城から使いがありまして、明日、アルベルト殿下がシルヴィア様のお見舞いにスカーレット公爵家にやってくるとのことです」
年若いメイドの声は興奮ゆえに早口であった。きっと王族が自分の働く屋敷に来訪することが誇らしいのだろう。
反面、わたしは今日の失敗もあって、次にまた失敗したらどうしようと考えてしまう。プレッシャーが心に重くのし掛かり、背中に冷や汗が流れる。
「――そう。分かったわ」
動揺を悟られないように短く返事をすると、メイドはそのまま足早に去っていった様子だった。握って白くなった拳をやわやわと解くと、暖めるようにしてウィリアムの手が重ねられた。
「随分と手が冷たくなっているよ」
「……まだ、身体の調子が戻っていないようで」
「ああ。そのようだ。だから少しは私に甘えても良いんだよ」
「ウィリアムお兄様?」
「シルヴィアが明日のアルベルト殿下の訪問を不安に思っているようであれば、私も同席しようか?」
思いもしない提案にわたしは目を丸くする。
いつものウィリアムであればさらりと流すというのに、今日の彼は何故だか乗り気である。
だけど残念ながら、わたしにはいきなり攻略キャラ二人を相手にできる自信はない。
「ウィリアムお兄様のそのお気持ちだけで充分です。けれど、もしもわたくしに対応できないことがありましたら、お呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん。いつでも呼びなさい。可愛いお前の頼みならいつでも駆けつけるさ」
殊勝に尋ねれば彼はあっさり引いたが、ほんの一瞬だけ眉根を寄せたのをわたしは見逃さなかった。
しかし彼はすぐさま微笑を浮かべ、わたしの部屋まで送ってくれた。
部屋までエスコートする彼の様子もいつもと変わらないものに見える。
完璧なエスコートに完璧な微笑み。
あまりにもでき過ぎていて逆に不自然に思えたのは、記憶を取り戻して疑心暗鬼になっているからなのだろうか。
払拭できない不安を抱きながら、わたしはなんとか眠りついたのだった。
◇ ◆ ◇
翌日、アルベルトは約束通りにやってきた。
見舞いという名目だったので、両親と共にわたしが玄関先に出ていくことはなく、自分の部屋のベッドの上で出迎えることとなった。
その上、倒れたばかりなのだから騒がしいのは好まないだろうという配慮から部屋に二人きりにされて、なんだか心細い。
アルベルトを前にして思い出すのは最後に見た彼の、ストンと感情を削ぎ落とした顔。
世間話中にもそれを思い出してしまい、どうにも息苦しい。
(こんなことならウィリアムお兄様にも同席してもらえば良かったかしら)
何かあればすぐに呼んでいいと言っていたけれど、さすがに気まずいからというだけで呼ぶのは忍びない。
「……シルヴィア。何を考えている?」
「何も。ただ殿下のことを考えております」
勘の鋭い彼はすぐにわたしが心ここにあらずになっていたことを悟ったらしい。
婚約者として模範的な返答をしても、その瞳はどこか剣呑で、じっとこちらを見ているものだから身じろぎすら躊躇われる。
見つめ合った末、唐突に口火を切ったのはアルベルトだった。
「…………どうやらきみは僕との婚姻に乗り気ではないようだね」
「いいえっ! そのようなことは決して……」
真実を言い当てられて狼狽える。
現にアルベルトに婚約破棄を申し出たのはわたし自身だ。だからこそ最後の声は萎む程に小さくなってしまう。
彼はふぅっと溜息を吐き出して、眉間の皺を揉んだ。
子供らしくない動作だというのに、それが妙に慣れてみえるのは『王子』という重責を背負っているからなのかもしれない。
「ここには僕とシルヴィアしかいない。だから何を話しても構わない。この部屋で話すことは不問にするとアルベルト・ウィンフリーの名において約束しよう。だから、シルヴィア。きみの本音を聞かせてくれないか?」
懇願の形をとっているが、それはハッキリとした命令であった。
じっとりと掌に嫌な汗が溜まる。
こんなことならウィリアムに同席してもらえば良かったと心の底から後悔して、弱気になった自分を奮い立たせるように唇を噛んでから、彼にもう一度向き合う。
改めて姿勢を正し、彼を見つめる。アルベルトはベッド近くにある椅子に座ったまま動く様子はなく、わたしの返答を静かに待っていた。
「アルベルト殿下ご自身としてはこの婚約をどのようにお考えですか?」
「……今回は婚約を止めておこうとは言わないんだね」
「…………殿下」
「今の発言は撤回する。どうやらあの時、シルヴィアの言ったことを未だに引きずっていたみたいで、つい意地悪を言ってしまった。本当に、余裕がなくて格好悪いから、忘れてくれると嬉しい」
わたしから婚約破棄を宣言したことは余程彼のプライドを傷つけてしまったらしい。
気まずそうに頬を掻くアルベルトに頷けば、彼の顔は少しだけ緩んだ。
「わたくしもアルベルト殿下に失礼なことを言ってしまいましたから、殿下も忘れてくださるのなら助かります」
「ありがとう。……それで婚約についての話だったね。『僕自身』の意思を聞いているということでいいかな?」
「ええ。アルベルト殿下のご両親もスカーレット公爵家と同じく恋愛結婚だと聞いております。であれば、憧れがあってもおかしくはないかと。この婚約はわたくし達だけでやすやすと破棄できるものではありませんが」
そう。これはただの縁談じゃない。王家と公爵家の関係を強くするいわば同盟的な役割が強い。
貴族同士の婚姻は殆どが政略的なモノであり、あまり本人達の意思は重要ではない。
ただ、アルベルトの両親である国王夫妻も恋愛結婚で、実はそのことが私たちの婚約に大きく関係しているのだ。
スカーレット公爵家と対をなすヴァイオレット公爵家。両公爵家はどちらも国で一、二を争う名家だ。
けれどヴァイオレット家は先先代、先代と続けて子女を王家に嫁がせることに成功していた。
年齢は十歳年上で、穏やかで礼儀正しい彼は現在、主に騎士団の宿舎で生活している。
将来は叔父のレオンと同じく騎士団の総帥に昇り詰めると言われる程、将来を有望視されている人物だ。
十八禁版のウィリアムの設定は大体こうだ。
ウィリアムは幼い頃、スカーレット公爵家に引き取られる。血縁関係の薄い彼がどうして公爵家に引き取られたのかというと、わたしが生まれるまで公爵家に中々子供ができなかったせいだ。
わたしの両親は貴族としては珍しく恋愛結婚であったのだが、跡取りが生まれず、親族は父に愛人を娶るように進言していた。
けれども父はそれを両断し、スカーレット家に連なる親族の子供を引き取って、その子を次期当主として育てると宣言した。
結果として公爵家に引き取られた子供――ウィリアムは養父であるわたしの父にひどく感謝していた。
ウィリアムの母親は元はただの使用人だった。しかし優れた容姿である彼女に目をつけたウィリアムの父が手を出し、愛人になったのだという。
その立場のせいでウィリアムは正妻やその子供たちから躾という名目で虐待されていた。
更にはウィリアムの母は正妻からの虐めに耐えきれず、彼を置いて屋敷を去ってしまった。
残ったのは自分に興味のない父と憎悪をたぎらせた正妻とその子供。
貴族の子息として適切な教育を受けるどころか食べ物すら殆ど与えられていない。
更に恐ろしいのは、ウィリアムが少し粗相をする度に躾と称した折檻が待っていた。
嬉々として与えられる暴力に侮蔑の言葉。
幼いウィリアムに抵抗する術なんかあるはずもない。
だからこそ彼はせめて被害を最小限に抑えようと自分に与えられた屋根裏部屋で息を潜めて過ごしていたのだという。
寒さに震えながら身を縮め込ませて、ただ暴力に耐え続ける惨めな生活――そんな生活から抜け出せたのは本当に運が良かったからだ。
たまたま公爵家夫婦に子供ができなかったゆえの代打。
別に自分じゃなくても構わない。
むしろ碌な教育を受けていない自分なんかよりも、公爵家の跡取りを目指すに相応しい人物がいくらでも居ることは、ウィリアムだって分かっている。
けれどウィリアムは知ってしまった。
温かいスープの味を。
頭を撫でられる柔らかな感触を。
頑張った分だけ認められる嬉しさを。
知ってしまったからこそ手放したくなかった。
たとえ、うるさい親族を黙らせる為の道具として引き取られたにしても、結果としてウィリアムは救われた。
だからこそ自分を救ってくれた養父と養母の役に立ちたいと願うようになる。
ウィリアムは元来賢く、学んだことはすぐに覚えたし、屋敷に来たことで食生活は大幅に改善され、健康状態だって良くなった。
正妻と子供達の顔色を窺って生活していたことで、社交術も本人の知らぬ内に磨かれていた。
周囲からの評判は上々であったけれど、彼の心中では常に不安が付き纏っていた。
どれだけ勉強しても、剣術で褒められても、優秀だと言われても、決して晴れることのない気持ち。
だって自分は所詮、公爵家に子供ができなかったから引き取られただけの替えのきく存在。
ただ運が良かっただけの紛い物。
偽物に過ぎない自分の居場所は、本当にこの屋敷にあるのだろうか。そんな疑念がいつまでもウィリアムを苦しめる。
不安を少しでも払拭しようと彼は懸命に足掻こうとした。
だというのに公爵家に子供が、シルヴィアが生まれてしまったのだ。
その翌年には、弟のミハエルまで……
公爵夫妻の『本当の』子供が生まれたことにより、ウィリアムは余計な跡目争いを起こさないように騎士学校に入り、騎士の道を目指すことを余儀なくされる。
『最愛の果てに』のゲームではウィリアムが騎士団長に就任し、貴族のパーティーで警護の指揮をしていたところ、ヒロインであるアンジュ・ヴィリエと出会うことになる。
伯爵家に引き取られたアンジュにとって初めてのパーティーだったが、上手くできるだろうかという不安から気分が悪くなり、外で体を休めようとしたところに酔っ払った貴族の男に絡まれ、そこに偶然現れたウィリアムが颯爽と助けたことがきっかけで二人は仲を深めていく。
だが、このルートでもヒロインの邪魔をするのが、わたしが転生したシルヴィア・スカーレットだ。
シルヴィアは幼い頃、ウィリアムを純粋に兄として慕っていたし、尊敬していた。
転機となったのはシルヴィアが十一歳の時。
悪意ある親戚によってウィリアムが本当の兄ではないと教えられ、幼いシルヴィアは動揺のあまり、ウィリアム本人に悪態を吐いてしまう。
そんなシルヴィアを見て義兄は『困ったフリ』をして曖昧に笑った。
もしも対峙する相手が観察力に優れたシルヴィアじゃなかったら、ウィリアムの笑みが張りぼてだと気付くことはなかっただろう。
呆然としたシルヴィアのその視線の意味を、ウィリアムだって分かっているだろうに、彼は決して表情を崩さなかった。
困ったフリ、気付かないフリ、それは言外にウィリアムにとってはシルヴィアのことなんかどうでもいいという宣言に他ならない。
ウィリアムにとって、シルヴィアはその他大勢の有象無象と同じ存在であったのだ。
大好きだったからこそ、シルヴィアはウィリアムを憎んだ。
そのくせ、結局構ってほしくて会う度に罵倒するようになる。
けれどウィリアムはやはりシルヴィアのことなんか気にする様子はない。
虚しさと悲しみでごちゃまぜになった歪な感情が年々シルヴィアの心を蝕んでいく。
そんな時だった。ウィリアムとアンジュが逢瀬を重ねている場面を見てしまったのは。
義兄がその女を見つめる瞳には確かに熱が籠っており、自分に向けるモノとはまるで違う。ひどく優しいものであった。
ウィリアムのそんな表情を初めて見たことに動揺し、シルヴィアはすぐに相手のことを調べた。
もしも相手がウィリアムと年の近い大人の女性であれば、あるいは公爵家に匹敵する程の爵位が高い貴族の女性であれば、まだ納得できた。
だけど、相手は自分と同じ年の、それも平民上がりの凡庸な女だった。
そんな女が何故義兄を誑かすことに成功したのか。
シルヴィアが手にすることができなかった義兄の『特別』。
それをなんなく手にしたアンジュが尚更憎たらしくて堪らなかった。
しかし皮肉なことに、取り巻きを使って虐めても、社交界や学園で除け者にしても、暴漢に襲わせても、失敗に終わった。
それどころかその度にウィリアムのアンジュに対する庇護欲が高まり、より二人の仲が強固なモノへと変わっていくだけだった。
どれだけ彼らの仲を引き裂こうとしても上手くいかないことに痺れを切らしたシルヴィアは、最後には自らナイフを手にし、アンジュの顔を切り刻もうと襲い掛かる。
それを制したのもまた、ウィリアムだった。
二人の間に割り込んだウィリアムは、アンジュの顔すれすれに振りかざしたナイフをその手で受け止めた。
抜き身のナイフは彼の硬い掌を切り裂き、ダラダラと血が流れ出る。だというのにウィリアムはこれでやっとシルヴィアを粛清する証拠ができた、と嬉しそうに笑ったのだ。
ウィリアムの宣言通り、シルヴィアはその後。庶民の子供のお小遣いでも買える程の最底辺の娼婦に成り下がって、何人もの客を休む間もなく相手にしなければならなくなった。
そんな日々を送るシルヴィアの元に一度だけウィリアムがやってくる。
公爵家令嬢だったシルヴィアが平民どころか貧困民の住人に犯される姿を見たウィリアムは、それはそれは愉快そうに高笑いする。
そこには義妹への情なんて欠片もない。むしろようやく邪魔な荷物を片付けることに成功したという達成感の悦びに満ち溢れていた。
――だって、シルヴィアがアンジュを追い詰める度に、ウィリアムの神経が密かにすり減っていったから。
本当はアンジュを危険な目に遭わせないように自分の手元に閉じ込めたかった。
シルヴィアがアンジュに危害を加えないか心配する気持ちが日に日に強まり、焦燥から眠れなくなっていく。
せめて自分の部下をアンジュの護衛として側に置いてくれないかと提言したというのに、彼女は困ったように笑うだけで決して頷いてはくれない。
何度も何度も危ない目に遭ったというのに、どうして自分の提案を拒絶するのだろう。
外は危ないのに。
私の目の届く所にさえ居たら守ってあげられるのに。
私だけが君を守ってあげられるのに。
どうして私の手を取ってくれない?
最初は純粋な心配だった気持ちがだんだんと焦燥となり、やがて心が闇に沈んでいく。
そうして結局彼はシルヴィアの末路を見届けた後、その心の求める衝動のまま、アンジュを永遠に自分の部屋に閉じ込めたのだった。
◇ ◆ ◇
――ウィリアムのルートを思い出したわたしはベッドに寝転んだまま頭を押さえていた。
(……え。もう地獄じゃん)
十八禁版のウィリアムルートではグッドエンドだろうとバッドエンドだろうとアンジュはウィリアムに監禁されることになる。
違いとしてはアンジュが同意しているかどうか。ただそれだけのことで救いも慈悲もない。
そんな男が自分の義兄なのだ。あまりの恐ろしさから全身に鳥肌が立つ。
というかそもそも義妹を娼婦に堕として高笑いする男ってやばくないか?
人の心はどこにいった?
シルヴィアはブラコンを拗らせて自爆したことにより生き地獄に堕とされたわけだけれど、アンジュはもらい事故もいいところである。
ウィリアムルートを思い出したこともあり、心情としてはできればなるべくウィリアムに近付きたくない。
けれどウィリアムから距離を取ることを選んだ場合、屋敷に居るもう一人の攻略キャラの、ウィリアムに対するブラコンという名の狂気が炸裂する恐れがあった。
(せめてこの世界が全年齢版であれば……)
全年齢版の場合、シルヴィアとウィリアムは少し仲の悪い程度の兄妹で、そこまでの確執はない。アンジュに対しては平民の成り上がり女が義姉になるなんて嫌だ、というだけの理由だからイジメに関してもそこまでひどいものではない。
ゆえに断罪後は公爵家を追い出されて規律の厳しい修道院で監視されながら一生過ごす程度で済むのだ。
まだ十八禁版か全年齢版か分からないのならば、今のところは最悪の場合を想定して動くべきだろう――となると、わたしがこれから起こす行動は決まっている。
「ウィリアムお兄様いらっしゃいませんか?」
彼の部屋まで訪ねて規則正しくノックすれば、すぐに目的の人物は微笑んで出迎えてくれた。
その笑みは見惚れるほど、美しい。
燃えるような赤髪が多いスカーレット家にしては珍しい、絹のような艶やかな黒髪に、日に焼けない白く透き通った肌。
エメラルドの瞳にはどこかアンニュイな色気を感じる。これでまだ二十歳になったばかりなのだというのだから末恐ろしいものだ。
メイドを呼び出してお茶を用意させるウィリアムと、向かい合うようにソファーに座る。
「シルヴィアが私の部屋までやってくるなんて珍しいね。何か用があったのかな?」
そう。恐らく二人の関係は現時点ではまだ、仲の良い兄妹であるはずだ。
確かにいつものシルヴィアであれば忙しい兄に遠慮して、彼の部屋まで訪ねることはしない。
けれど記憶を取り戻した今のわたしは別だ。
ウィリアムが現段階で『シルヴィア』をどう思っているのか、この目で冷静に確かめる必要があった。
『義兄』であることを悪意の塊みたいな親戚達に教えられたことが原因で、シルヴィアとウィリアムの仲は拗れるようになる。
ウィリアムだって、自分に懐いてくれる年の離れた義妹へ、家族としての情くらいは抱いていたはずだ。たとえそれが複雑なものであったとしても。
その関係を崩したのはシルヴィア自身。
『義兄』と分かった途端、長年にわたってウィリアムに粘着質に絡んだ挙句、彼の一等大事な『特別』に手を掛けようとしたことで憎まれてしまった。
だったら同じ轍を踏まなければいい。
純粋に『妹』として彼を慕い、頼って、素直に彼を肯定すれば、関係性が変に歪むこともないはずだ。
それにウィリアムはどこか自己肯定感が低いところがあって、人から頼られるのが嬉しいのだと、ゲームのシナリオで知っている。
――であれば、おあつらえ向きにわたしは今日王子の前で失態を犯したばかりだ。
消沈している姿を見せて、ウィリアムの庇護欲を少しでも掻き立てられたらいい。
そんな目論見を抱いたからこそ、重たい体を引きずってやってきたのだ。
(我ながら小狡い真似をしているわよね)
だけど、ウィリアムが絆されるか否かにわたしの今後の人生が掛かっているのだから、なりふりは構ってられない。
「何も……ただウィリアムお兄様とお話ししたかったから、と言えば怒りますか?」
「いいや。可愛い妹がそんなこと言ってくれるなんて、むしろ嬉しい限りだよ」
模範的な彼の返事に曖昧に微笑んで、場を保たせる。
紅茶を飲むウィリアムの姿は優雅で、思わず見惚れそうになった。
(ウィリアムが一番の推しだったからなぁ)
けれど今心臓がドギマギしているのは、推しを見て興奮しているというよりは、ウィリアムの手に掛けられたシルヴィアの末路が恐ろしいからかもしれない。
なんて嬉しくない吊橋効果なのだろう。
「ウィリアムお兄様はいつもお忙しいようですから。これでもわたくし、我慢するようにしているのですよ」
「シルヴィアならいつでも歓迎するよ。久しぶりに私の膝の上で本でも読んであげようか?」
「まぁ。わたくしはもう十歳なんですから、そんなことで喜ぶ子供じゃありません。ですが、ウィリアムお兄様さえよろしければ、少し甘えさせて下さい」
「……シルヴィア?」
唐突に立ち上がったわたしに驚いたように、ピクリとウィリアムの片眉が上がる。
そのまま彼の膝の上に座り、向かい合う形でぎゅっと背中を抱きしめれば、ウィリアムの心臓の音が聞こえた。
突然の行動に多少は驚いたであろうに、彼の鼓動は規則正しい。
それはウィリアムにとってシルヴィアがまだ『特別』な存在になれていないことを意味する。
だからこそ、ぎゅっと力を込めて抱きついて縋った。そんなわたしに彼は背中に手を回し、ゆっくりと子供をあやすように優しく背中を叩く。
ウィリアムの手は幼い頃から剣を握っていたからか掌が硬く大きい。いくつもある剣ダコは彼が努力してきた証でもある。
「どうしたの?」
「……今日のお茶会で失敗してしまったの」
せっかく王子との顔合わせの為に整えられた舞台。実際のところ、それが自分の失態で芳しくない結果となったことは嘘偽りなく心苦しい。
彼は励ますように、わたしの頭を撫でる。
「シルヴィアが社交で失敗するなんて珍しいね」
「せっかくのアルベルト殿下との顔合わせだというのに、ご挨拶もできないまま緊張から倒れてしまって……帰りの馬車の中、お母様が無言だったから、すごく気まずい思いでしたわ」
ぼそぼそとした声で、ことのあらましを大体の真実と少しの嘘を混ぜて喋れば、彼は大丈夫だと口にする。
「安心しなさい。そんなことくらいで婚約は破棄にはならない」
できれば、婚約破棄になってくれた方が有り難い。
だけど本音を言う訳にはいかないので、こてりと首を傾げておいた。
「本当?」
「ああ、もちろんさ。私がシルヴィアに嘘を言ったことはあるかい?」
確かに彼は嘘を言ったりはしない。
ただ真実を黙っているだけだ。
例えば、アルベルト殿下とわたしが婚約した理由とか。
「……ないわ」
「だろう? 私は可愛いシルヴィアに嘘なんかつかないさ。だから安心するといい」
慰めるようにおでこにキスを落とされて、思わず顔が赤くなる。
彼はそんなわたしの態度におやと面白そうに口端を上げた。
「ウィリアムお兄様。わたくしは立派なレディになったのですから、過度な接触は困りますわ」
「今まで散々してきたのに?」
そこまで頻繁に『兄妹』としての交流があったわけではない。
珍しく意地悪気に笑うウィリアムの、その瞳の奥には確かな愉悦が混ざっていて、揶揄われたのだろうと分かっていても、羞恥で顔が赤くなる。
記憶を取り戻してから何故か感情の制御が利きにくいのは、未だにシルヴィアであった自分と、前世のわたしの人格に混乱があって、それが長引いているからかもしれない。
「ウィリアムの馬鹿。意地悪っ!」
悔し紛れに罵倒をすれば、彼の心臓がドクリと大きく音を立てた。
(えっ、なんでここで動揺しているの? ウィリアムはアルベルトと違って相手を泣かす趣味はないはずでしょう?)
そう思ってからすぐに思い至った。
(はっ! 分かった。わたしが悪口を言ったからムカついたのね)
ゲームではシルヴィアに罵倒されていても涼しい顔をしていたけれど、書かれていなかっただけで内心は怒り心頭だったのかもしれない。
だとしたらまずい。
慌ててフォローするように口を挟む。
「嘘っ! 本当は大好きよ。悪口を言ってごめんなさい」
素早く謝罪して、おどおどと彼の顔を見れば、一体どうしたのか口元を押さえていて、耳が赤くなっていた。
それに驚いて瞬きしたところで、部屋にノックの音が響き渡る。
ウィリアムはわたしと顔を見合わせた後に、部屋の扉を開けることは許可せず、わたしを抱きしめた状態で応対することを選んだ。
「……夜分に申し訳ありません」
「いや、いいさ。それより用件はなんだ」
「そちらにシルヴィア様はいらっしゃいますでしょうか?」
「ええ。居るわ。どうかして?」
「実は……先ほど王城から使いがありまして、明日、アルベルト殿下がシルヴィア様のお見舞いにスカーレット公爵家にやってくるとのことです」
年若いメイドの声は興奮ゆえに早口であった。きっと王族が自分の働く屋敷に来訪することが誇らしいのだろう。
反面、わたしは今日の失敗もあって、次にまた失敗したらどうしようと考えてしまう。プレッシャーが心に重くのし掛かり、背中に冷や汗が流れる。
「――そう。分かったわ」
動揺を悟られないように短く返事をすると、メイドはそのまま足早に去っていった様子だった。握って白くなった拳をやわやわと解くと、暖めるようにしてウィリアムの手が重ねられた。
「随分と手が冷たくなっているよ」
「……まだ、身体の調子が戻っていないようで」
「ああ。そのようだ。だから少しは私に甘えても良いんだよ」
「ウィリアムお兄様?」
「シルヴィアが明日のアルベルト殿下の訪問を不安に思っているようであれば、私も同席しようか?」
思いもしない提案にわたしは目を丸くする。
いつものウィリアムであればさらりと流すというのに、今日の彼は何故だか乗り気である。
だけど残念ながら、わたしにはいきなり攻略キャラ二人を相手にできる自信はない。
「ウィリアムお兄様のそのお気持ちだけで充分です。けれど、もしもわたくしに対応できないことがありましたら、お呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん。いつでも呼びなさい。可愛いお前の頼みならいつでも駆けつけるさ」
殊勝に尋ねれば彼はあっさり引いたが、ほんの一瞬だけ眉根を寄せたのをわたしは見逃さなかった。
しかし彼はすぐさま微笑を浮かべ、わたしの部屋まで送ってくれた。
部屋までエスコートする彼の様子もいつもと変わらないものに見える。
完璧なエスコートに完璧な微笑み。
あまりにもでき過ぎていて逆に不自然に思えたのは、記憶を取り戻して疑心暗鬼になっているからなのだろうか。
払拭できない不安を抱きながら、わたしはなんとか眠りついたのだった。
◇ ◆ ◇
翌日、アルベルトは約束通りにやってきた。
見舞いという名目だったので、両親と共にわたしが玄関先に出ていくことはなく、自分の部屋のベッドの上で出迎えることとなった。
その上、倒れたばかりなのだから騒がしいのは好まないだろうという配慮から部屋に二人きりにされて、なんだか心細い。
アルベルトを前にして思い出すのは最後に見た彼の、ストンと感情を削ぎ落とした顔。
世間話中にもそれを思い出してしまい、どうにも息苦しい。
(こんなことならウィリアムお兄様にも同席してもらえば良かったかしら)
何かあればすぐに呼んでいいと言っていたけれど、さすがに気まずいからというだけで呼ぶのは忍びない。
「……シルヴィア。何を考えている?」
「何も。ただ殿下のことを考えております」
勘の鋭い彼はすぐにわたしが心ここにあらずになっていたことを悟ったらしい。
婚約者として模範的な返答をしても、その瞳はどこか剣呑で、じっとこちらを見ているものだから身じろぎすら躊躇われる。
見つめ合った末、唐突に口火を切ったのはアルベルトだった。
「…………どうやらきみは僕との婚姻に乗り気ではないようだね」
「いいえっ! そのようなことは決して……」
真実を言い当てられて狼狽える。
現にアルベルトに婚約破棄を申し出たのはわたし自身だ。だからこそ最後の声は萎む程に小さくなってしまう。
彼はふぅっと溜息を吐き出して、眉間の皺を揉んだ。
子供らしくない動作だというのに、それが妙に慣れてみえるのは『王子』という重責を背負っているからなのかもしれない。
「ここには僕とシルヴィアしかいない。だから何を話しても構わない。この部屋で話すことは不問にするとアルベルト・ウィンフリーの名において約束しよう。だから、シルヴィア。きみの本音を聞かせてくれないか?」
懇願の形をとっているが、それはハッキリとした命令であった。
じっとりと掌に嫌な汗が溜まる。
こんなことならウィリアムに同席してもらえば良かったと心の底から後悔して、弱気になった自分を奮い立たせるように唇を噛んでから、彼にもう一度向き合う。
改めて姿勢を正し、彼を見つめる。アルベルトはベッド近くにある椅子に座ったまま動く様子はなく、わたしの返答を静かに待っていた。
「アルベルト殿下ご自身としてはこの婚約をどのようにお考えですか?」
「……今回は婚約を止めておこうとは言わないんだね」
「…………殿下」
「今の発言は撤回する。どうやらあの時、シルヴィアの言ったことを未だに引きずっていたみたいで、つい意地悪を言ってしまった。本当に、余裕がなくて格好悪いから、忘れてくれると嬉しい」
わたしから婚約破棄を宣言したことは余程彼のプライドを傷つけてしまったらしい。
気まずそうに頬を掻くアルベルトに頷けば、彼の顔は少しだけ緩んだ。
「わたくしもアルベルト殿下に失礼なことを言ってしまいましたから、殿下も忘れてくださるのなら助かります」
「ありがとう。……それで婚約についての話だったね。『僕自身』の意思を聞いているということでいいかな?」
「ええ。アルベルト殿下のご両親もスカーレット公爵家と同じく恋愛結婚だと聞いております。であれば、憧れがあってもおかしくはないかと。この婚約はわたくし達だけでやすやすと破棄できるものではありませんが」
そう。これはただの縁談じゃない。王家と公爵家の関係を強くするいわば同盟的な役割が強い。
貴族同士の婚姻は殆どが政略的なモノであり、あまり本人達の意思は重要ではない。
ただ、アルベルトの両親である国王夫妻も恋愛結婚で、実はそのことが私たちの婚約に大きく関係しているのだ。
スカーレット公爵家と対をなすヴァイオレット公爵家。両公爵家はどちらも国で一、二を争う名家だ。
けれどヴァイオレット家は先先代、先代と続けて子女を王家に嫁がせることに成功していた。
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