25 / 53
3章 動きはじめた運命
6
しおりを挟む
和真は、早朝の庭で冷えた指先を擦り合わせた。
こんなまだ肌寒い時間に庭に出てくる家人などいるわけもなく、澄み切った朝の空気に和真はぶるりと肩を震わせる。
けれど、このわずかな時間が和真には何よりの楽しみであり、この多忙な日々の救いでもあった。
「おはよう、和真。今朝は一段と冷えるわね」
その声に振り返り、和真は心からの笑みを浮かべた。
「これ、どうぞ」
あたたかそうなふわふわなショールを肩にかけた椿が、湯気を立てているカップをこちらに手渡す。
立ち上るその甘い香りに、和真は微笑んだ。
「ココア? 椿の大好物だね」
「和真の分は甘すぎないようにちゃんとお砂糖少なめにしてあるから、大丈夫よ。朝は甘いものをとるといいんですって」
椿は、自分用にいれた砂糖たっぷりな甘いココアをおいしそうに口に含んだ。
その幸せそうな表情だけで心まであたたまる気がするな、と和真は思う。
「商談の準備は順調? 美琴様が当矢様の体を心配していたわ。無理をしすぎてないかしらって」
「無理もするさ。結婚の許しがかかっているんたから。でもまぁ、あいつならうまくやれるだろう。思った以上に優秀だし、このまま遠山家で仕事を任せてもいいと思うくらいにはね」
そして、その優秀さだけではなくあのエレーヌも当矢を気に入ったらしい。でなければあんなふうに、当矢も同席の上での晩餐を持ちかけてこなかったはずだ。
おかげで、ゴダルドを屋敷に招き関係を深めることができる。これまでもゴダルドとはエレーヌを通して一応面識はあったが、深く話をする機会などなかったのだ。今回、待ちに待ったセルゲンの新作が海を渡ると聞いて、なんとしてもゴダルドに商談を持ちかけるきっかけが欲しかったのだ。
そういう意味では、エレーヌに感謝していた。
けれど、和真は懸念していた。
エレーヌは間違いなく遠山家の屋敷でも、いつも通りの行動を取るはずだ。そしてそれに椿がどう反応するのかが、気がかりだったのだ。
それを椿に伝える機会は、今日この庭しかないと思っていたのだが。
和真は椿がココアで一息ついたのを見計らい、口を開いた。
「……椿。実は近いうちにこの屋敷に来客がある。商談相手のゴダルドを晩餐に招待することになってね」
「まぁ! すごいわ。もうそんなところまでお話が進んでいるの?」
椿は、嬉しそうに目を輝かせた。
確かにあのゴダルドを屋敷に招くなど、普通に考えれば今回の商談の成功に一歩近づいたと言えなくもないのだが。
実際には、これはエレーヌの望みから叶った招待だ。
そしてその目的は多分、父親に自分が気に入った男、つまり和真を結婚相手の候補として値踏みをさせるためだろう。
「どうかしたの? そんな難しい顔をして」
「いや。……実はその場に娘もくる。エレーヌという娘なんだが、少し」
「少し……? なぁに?」
椿がけげんそうに顔をのぞき込んだ。
エレーヌのことをどう椿に説明するべきか、和真は悩んでいた。
べたべたとくっついて好意をあからさまに見せてくるが、ただの商談相手の娘だから気にするな?
こちらには特別な感情など微塵もないから、商談相手のご機嫌を損ねないよう適当にあしらっているだけだとか?
どんな伝え方をしても、椿は気にするだろう。
なにしろ、湖で美琴の手を握っただけであの態度だ。あの時は当矢との仲を取り持つためと分かって、すぐに落ち着きを取り戻したようだったが。
「……椿。エレーヌがどんな態度をとっても何を言っても、そこに僕の気持ちはない。それを忘れないで。……いいね?」
「それは一体どういう……?」
椿の顔に、不安そうな色が浮かんだ。
「いいね。忘れないで。椿と一緒にいられることだけが、僕の望みだってこと」
これが、今伝えられる精一杯だった。
いくらあのエレーヌとは言え、双方の家族がそろった晩餐の席であからさまな態度を見せたりはしないだろう。それにエレーヌの性格からいって、セルゲンの新作をこちらが欲していることを知った上で、商売と自身の恋愛感情とを絡めて揺さぶってくるような卑怯な真似はしないはずだ。
けれど椿の目が不安に揺れるのを見て、和真は不安を隠せない。
椿の心を失うのが、和真にとっては何よりも怖いことだった。その存在をなくしてしまったらきっと生きてはいけないと思うほどに、心から望んでいるのだから。
その椿がどんな思いでエレーヌと対するのかを思うと、どうしても心がざわめくのだった。
こんなまだ肌寒い時間に庭に出てくる家人などいるわけもなく、澄み切った朝の空気に和真はぶるりと肩を震わせる。
けれど、このわずかな時間が和真には何よりの楽しみであり、この多忙な日々の救いでもあった。
「おはよう、和真。今朝は一段と冷えるわね」
その声に振り返り、和真は心からの笑みを浮かべた。
「これ、どうぞ」
あたたかそうなふわふわなショールを肩にかけた椿が、湯気を立てているカップをこちらに手渡す。
立ち上るその甘い香りに、和真は微笑んだ。
「ココア? 椿の大好物だね」
「和真の分は甘すぎないようにちゃんとお砂糖少なめにしてあるから、大丈夫よ。朝は甘いものをとるといいんですって」
椿は、自分用にいれた砂糖たっぷりな甘いココアをおいしそうに口に含んだ。
その幸せそうな表情だけで心まであたたまる気がするな、と和真は思う。
「商談の準備は順調? 美琴様が当矢様の体を心配していたわ。無理をしすぎてないかしらって」
「無理もするさ。結婚の許しがかかっているんたから。でもまぁ、あいつならうまくやれるだろう。思った以上に優秀だし、このまま遠山家で仕事を任せてもいいと思うくらいにはね」
そして、その優秀さだけではなくあのエレーヌも当矢を気に入ったらしい。でなければあんなふうに、当矢も同席の上での晩餐を持ちかけてこなかったはずだ。
おかげで、ゴダルドを屋敷に招き関係を深めることができる。これまでもゴダルドとはエレーヌを通して一応面識はあったが、深く話をする機会などなかったのだ。今回、待ちに待ったセルゲンの新作が海を渡ると聞いて、なんとしてもゴダルドに商談を持ちかけるきっかけが欲しかったのだ。
そういう意味では、エレーヌに感謝していた。
けれど、和真は懸念していた。
エレーヌは間違いなく遠山家の屋敷でも、いつも通りの行動を取るはずだ。そしてそれに椿がどう反応するのかが、気がかりだったのだ。
それを椿に伝える機会は、今日この庭しかないと思っていたのだが。
和真は椿がココアで一息ついたのを見計らい、口を開いた。
「……椿。実は近いうちにこの屋敷に来客がある。商談相手のゴダルドを晩餐に招待することになってね」
「まぁ! すごいわ。もうそんなところまでお話が進んでいるの?」
椿は、嬉しそうに目を輝かせた。
確かにあのゴダルドを屋敷に招くなど、普通に考えれば今回の商談の成功に一歩近づいたと言えなくもないのだが。
実際には、これはエレーヌの望みから叶った招待だ。
そしてその目的は多分、父親に自分が気に入った男、つまり和真を結婚相手の候補として値踏みをさせるためだろう。
「どうかしたの? そんな難しい顔をして」
「いや。……実はその場に娘もくる。エレーヌという娘なんだが、少し」
「少し……? なぁに?」
椿がけげんそうに顔をのぞき込んだ。
エレーヌのことをどう椿に説明するべきか、和真は悩んでいた。
べたべたとくっついて好意をあからさまに見せてくるが、ただの商談相手の娘だから気にするな?
こちらには特別な感情など微塵もないから、商談相手のご機嫌を損ねないよう適当にあしらっているだけだとか?
どんな伝え方をしても、椿は気にするだろう。
なにしろ、湖で美琴の手を握っただけであの態度だ。あの時は当矢との仲を取り持つためと分かって、すぐに落ち着きを取り戻したようだったが。
「……椿。エレーヌがどんな態度をとっても何を言っても、そこに僕の気持ちはない。それを忘れないで。……いいね?」
「それは一体どういう……?」
椿の顔に、不安そうな色が浮かんだ。
「いいね。忘れないで。椿と一緒にいられることだけが、僕の望みだってこと」
これが、今伝えられる精一杯だった。
いくらあのエレーヌとは言え、双方の家族がそろった晩餐の席であからさまな態度を見せたりはしないだろう。それにエレーヌの性格からいって、セルゲンの新作をこちらが欲していることを知った上で、商売と自身の恋愛感情とを絡めて揺さぶってくるような卑怯な真似はしないはずだ。
けれど椿の目が不安に揺れるのを見て、和真は不安を隠せない。
椿の心を失うのが、和真にとっては何よりも怖いことだった。その存在をなくしてしまったらきっと生きてはいけないと思うほどに、心から望んでいるのだから。
その椿がどんな思いでエレーヌと対するのかを思うと、どうしても心がざわめくのだった。
4
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね
江崎美彩
恋愛
王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。
幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。
「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」
ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう……
〜登場人物〜
ミンディ・ハーミング
元気が取り柄の伯爵令嬢。
幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。
ブライアン・ケイリー
ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。
天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。
ベリンダ・ケイリー
ブライアンの年子の妹。
ミンディとブライアンの良き理解者。
王太子殿下
婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。
『小説家になろう』にも投稿しています
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
侍女から第2夫人、そして……
しゃーりん
恋愛
公爵家の2歳のお嬢様の侍女をしているルイーズは、酔って夢だと思い込んでお嬢様の父親であるガレントと関係を持ってしまう。
翌朝、現実だったと知った2人は親たちの話し合いの結果、ガレントの第2夫人になることに決まった。
ガレントの正妻セルフィが病弱でもう子供を望めないからだった。
一日で侍女から第2夫人になってしまったルイーズ。
正妻セルフィからは、娘を義母として可愛がり、夫を好きになってほしいと頼まれる。
セルフィの残り時間は少なく、ルイーズがやがて正妻になるというお話です。
呪いを受けて醜くなっても、婚約者は変わらず愛してくれました
しろねこ。
恋愛
婚約者が倒れた。
そんな連絡を受け、ティタンは急いで彼女の元へと向かう。
そこで見たのはあれほどまでに美しかった彼女の変わり果てた姿だ。
全身包帯で覆われ、顔も見えない。
所々見える皮膚は赤や黒といった色をしている。
「なぜこのようなことに…」
愛する人のこのような姿にティタンはただただ悲しむばかりだ。
同名キャラで複数の話を書いています。
作品により立場や地位、性格が多少変わっていますので、アナザーワールド的に読んで頂ければありがたいです。
この作品は少し古く、設定がまだ凝り固まって無い頃のものです。
皆ちょっと性格違いますが、これもこれでいいかなと載せてみます。
短めの話なのですが、重めな愛です。
お楽しみいただければと思います。
小説家になろうさん、カクヨムさんでもアップしてます!
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる