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3章 動きはじめた運命
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「商談の内容は大体こんなところだ。理解できたか? 細かい知識はこっちがフォローするから、今は大まかなところを覚えてくれればいい」
「まぁ大体は。……でも硝子製の美術作品というのは、それほどに美しく価値が高いものなのですか?」
これまで一切海外と関わる仕事経験のなかった当矢にとっては、遠山家が行っている事業は何もかもが目新しい。
そもそも輸入品は、雪園家ほどの名家であってもそうそう手に入れられるものではない。まして硝子製の美術品など、聞いたこともなかった。
「シュレイト・セルゲンという硝子芸工芸家の名を聞いたことがあるかい?」
「いえ、存じませんが。有名な方なのですか」
「ああ。セルゲンの新作を巡って、世界中の名だたる美術商が熾烈な競争を日夜繰り広げている。もしこの商談が成立すれば、この国にとっては初の手柄ということになる」
和真は、その目をきらりと輝かせた。
「どうしても記念すべきこの国のセルゲンの品第一号を、遠山家が手掛けたいんだ。父も以前から何度も試みてはいるんだが、なかなかこれが難題でね」
和真はシュレイト・セルゲンの名を知ったのは、八年ほど前父に連れられて海外へ後学も兼ねて買い付けに訪れた時だった。世界中の美術収集家が喉から手が出るほど欲しがるセルゲンの作品は、本当に美しかった。
けれど、当時の遠山家にはそれを手にできるだけの力はなく、いつか達成したい目標として和真は父とともにずっと夢見てきたのだ。
「しかしそんな大変な商談に、私がどんな形で力になれるのでしょう? 付け焼刃の言語習得や文化知識がさほど役に立つとは思えませんが」
当矢は、和真が想定していたよりもはるかに優秀で、さらに並外れた努力家でもあった。
驚くべきことに、言語についてはさほど苦労することもなく、すでにある程度の日常会話ならば習得できそうなところまできていた。
文化知識については膨大な知識量が必要とあってまだ苦心しているようだったが、それでもこの短期間の間にこれほど習得できているというのはすごいことだった。
和真は当矢ににやり、と笑いかけた。
「君に協力を仰いだのには、二つ理由がある。ひとつは、お酒だよ。確か先日湖で会った時、かなり酒が強いと言っていただろう。家系的に大分強い方だと」
こくりと当矢がうなずく。
「実は商談相手のゴダルドという男は、自分と同等に酌み交わせる人間以外とは商談を一切しないというちょっと厄介な思想の持主でね。でも残念ながら遠山家はそこまで酒に強い家系でもないし、正直酒に酔って冷静な判断力が働かない状態で、あちらに主導権を握られるのはおもしろくない。だから代わりに、ゴダルドの酒に付き合えるパートナーを探していたんだよ」
「……はぁ。なるほど。……つまりは私が酒に飲まれ過ぎない状態であちらの気を引きつけておいて、和真さんは商談に集中したいというわけですね」
当矢の顔に、当惑とともに腑に落ちたという色が浮かんだ。
「強いだけでなく、人間的にも口が堅く信用の置ける者でなければだめなんだ。一回の取引で相当な額の金が動くからね、何より信用が大切なんだよ。それこそ酒を飲んで酔っ払っても絶対に口を割らないくらいの、ね。……君ほどの義理堅い堅物なら間違いなく信用できるからな」
当矢のその不器用なまでの頑なさと義理堅さこそが、当矢をパートナーとしてこの商談に引き込んだ理由だった。基本的に持って生まれた才のせいで他人を信用していないが、この男ならば信用できる。それが当矢に対する和真の印象だったのだ。
けれど、当矢を引き入れたのには実はもう一つ理由があった。どちらかといえばこちらの方がずっと厄介で、助けを必要としている問題だったのだが。
「で、もう一つの理由と言うのは?」
その質問に、和真は一瞬黙り込んだ。
「……それについては、港で教えるよ」
口で説明するより、実物を見てもらったほうがよほど納得がいくだろう。
それくらいあの少女はわかりやすく厄介な人物なのだから――。
◇◇◇
その夜、遠山家では。
「そのお取引ってどんなものですの? あなた。ずいぶんと渋い顔をなさっていたけれど、そんなに難しい案件ですの?」
母が髪を丁寧に梳かしながら、鏡越しに父に問いかけた。
「うーん。まぁ仕事としては成功すれば旨味もでかいし、遠山家としてもどうにかしてものにしたい案件ではあるんだが。少々その取引相手というのが、厄介でなぁ……」
歯切れの悪い父の物言いに、母の手が止まる。
「難しいお相手ですの? 当矢さん、経験もないのにそんなお相手で大丈夫かしら」
これから短期間の間に相当苦心するであろう当矢を心配する母の表情が曇った。
「いや、心配なのはむしろ和真の方じゃないかと私は踏んでいるんだがね……。厄介なのはむしろ取引相手本人ではなくて、その娘の方なんだよ」
「……娘さん??」
そして事情を聞いた母は、父の不安を理解した。
この取引は嵐を呼ぶかもしれない。それに巻き込まれるのは確かに当矢と美琴ではあるが、もしかしたらそれ以上に心かき乱されるのは。
「あの子たち、大丈夫かしら……。雨降って地固まるとなればいいのだけれど……」
母と父の顔に、拭いきれない不安の色が色濃く浮かんでいた。
「まぁ大体は。……でも硝子製の美術作品というのは、それほどに美しく価値が高いものなのですか?」
これまで一切海外と関わる仕事経験のなかった当矢にとっては、遠山家が行っている事業は何もかもが目新しい。
そもそも輸入品は、雪園家ほどの名家であってもそうそう手に入れられるものではない。まして硝子製の美術品など、聞いたこともなかった。
「シュレイト・セルゲンという硝子芸工芸家の名を聞いたことがあるかい?」
「いえ、存じませんが。有名な方なのですか」
「ああ。セルゲンの新作を巡って、世界中の名だたる美術商が熾烈な競争を日夜繰り広げている。もしこの商談が成立すれば、この国にとっては初の手柄ということになる」
和真は、その目をきらりと輝かせた。
「どうしても記念すべきこの国のセルゲンの品第一号を、遠山家が手掛けたいんだ。父も以前から何度も試みてはいるんだが、なかなかこれが難題でね」
和真はシュレイト・セルゲンの名を知ったのは、八年ほど前父に連れられて海外へ後学も兼ねて買い付けに訪れた時だった。世界中の美術収集家が喉から手が出るほど欲しがるセルゲンの作品は、本当に美しかった。
けれど、当時の遠山家にはそれを手にできるだけの力はなく、いつか達成したい目標として和真は父とともにずっと夢見てきたのだ。
「しかしそんな大変な商談に、私がどんな形で力になれるのでしょう? 付け焼刃の言語習得や文化知識がさほど役に立つとは思えませんが」
当矢は、和真が想定していたよりもはるかに優秀で、さらに並外れた努力家でもあった。
驚くべきことに、言語についてはさほど苦労することもなく、すでにある程度の日常会話ならば習得できそうなところまできていた。
文化知識については膨大な知識量が必要とあってまだ苦心しているようだったが、それでもこの短期間の間にこれほど習得できているというのはすごいことだった。
和真は当矢ににやり、と笑いかけた。
「君に協力を仰いだのには、二つ理由がある。ひとつは、お酒だよ。確か先日湖で会った時、かなり酒が強いと言っていただろう。家系的に大分強い方だと」
こくりと当矢がうなずく。
「実は商談相手のゴダルドという男は、自分と同等に酌み交わせる人間以外とは商談を一切しないというちょっと厄介な思想の持主でね。でも残念ながら遠山家はそこまで酒に強い家系でもないし、正直酒に酔って冷静な判断力が働かない状態で、あちらに主導権を握られるのはおもしろくない。だから代わりに、ゴダルドの酒に付き合えるパートナーを探していたんだよ」
「……はぁ。なるほど。……つまりは私が酒に飲まれ過ぎない状態であちらの気を引きつけておいて、和真さんは商談に集中したいというわけですね」
当矢の顔に、当惑とともに腑に落ちたという色が浮かんだ。
「強いだけでなく、人間的にも口が堅く信用の置ける者でなければだめなんだ。一回の取引で相当な額の金が動くからね、何より信用が大切なんだよ。それこそ酒を飲んで酔っ払っても絶対に口を割らないくらいの、ね。……君ほどの義理堅い堅物なら間違いなく信用できるからな」
当矢のその不器用なまでの頑なさと義理堅さこそが、当矢をパートナーとしてこの商談に引き込んだ理由だった。基本的に持って生まれた才のせいで他人を信用していないが、この男ならば信用できる。それが当矢に対する和真の印象だったのだ。
けれど、当矢を引き入れたのには実はもう一つ理由があった。どちらかといえばこちらの方がずっと厄介で、助けを必要としている問題だったのだが。
「で、もう一つの理由と言うのは?」
その質問に、和真は一瞬黙り込んだ。
「……それについては、港で教えるよ」
口で説明するより、実物を見てもらったほうがよほど納得がいくだろう。
それくらいあの少女はわかりやすく厄介な人物なのだから――。
◇◇◇
その夜、遠山家では。
「そのお取引ってどんなものですの? あなた。ずいぶんと渋い顔をなさっていたけれど、そんなに難しい案件ですの?」
母が髪を丁寧に梳かしながら、鏡越しに父に問いかけた。
「うーん。まぁ仕事としては成功すれば旨味もでかいし、遠山家としてもどうにかしてものにしたい案件ではあるんだが。少々その取引相手というのが、厄介でなぁ……」
歯切れの悪い父の物言いに、母の手が止まる。
「難しいお相手ですの? 当矢さん、経験もないのにそんなお相手で大丈夫かしら」
これから短期間の間に相当苦心するであろう当矢を心配する母の表情が曇った。
「いや、心配なのはむしろ和真の方じゃないかと私は踏んでいるんだがね……。厄介なのはむしろ取引相手本人ではなくて、その娘の方なんだよ」
「……娘さん??」
そして事情を聞いた母は、父の不安を理解した。
この取引は嵐を呼ぶかもしれない。それに巻き込まれるのは確かに当矢と美琴ではあるが、もしかしたらそれ以上に心かき乱されるのは。
「あの子たち、大丈夫かしら……。雨降って地固まるとなればいいのだけれど……」
母と父の顔に、拭いきれない不安の色が色濃く浮かんでいた。
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