上 下
7 / 53
1章 破談の呪いと夢見の少女

しおりを挟む
 走り去る明之の背中を見つめながら、椿は小さくため息をついた。

 何もしてあげられないばかりだ。和真にも、子どもたちにも。

 ここで自分がどんなに頑張って子どもたちに勉強を教えても、それだけで子どもたちの未来が守れるわけじゃない。椿一人でここにいる子どもたちの食べものを用立てることも、皆に良い縁組を用意してあげられるわけでもない。

 自分の非力さが、悔しい。幸せにしたい、恩を返したいといいながら、どうすれば役に立てるのかもちっとも分からないのだから。

「私に、もっと力があったら皆を幸せにできるのかしら……。でもその力って一体どんな……」

 椿はぼんやりと庭に立ちすくんだまま、唇を噛みしめるのだった。



 椿はここで三才になるまで育った。

 そしてここで暮らすうち、自分が養子として迎えられる可能性が限りなく低いことに気づいていた。主に力仕事などの働き手や跡継ぎとして男の子が求められることはあっても、女の子が求められることは滅多になかったから。

 だから、体に問題があり子をなせないと知った遠山家の両親が跡継ぎを得るためにこの孤児院を訪ねてきた時も、ああ、また男の子がもらわれていくのかと何の悲しみもなく思っていた。

 なのに、院長に自分が遠山家に行くようにと言われた時は心底驚いた。

 そしてその日期待と不安に胸を弾ませ、いつもよりちょっとましな着物を着て遠山家の屋敷へと向かった椿だったが、それが手違いであることを対面してすぐに理解した。

『あ、君ちょっといいかな? 私たちがお願いしたのは男の子はずだが、この子は……』

 孤児院に雇われて自分を連れてきた世話人の男と両親が困惑した様子でやりとりをしているのが聞こえ、椿はすぐに事情を悟った。
 自分がここにいるのは間違いであり、本当はやはり男の子を必要としていたのだと。

『申し訳ありません。手違いがあったようですので私はこのまま院へ帰ります。院長へは私からお約束の男の子を寄越すよう伝えますので、なにとぞご容赦くださいませ』

 たどたどしい言葉遣いながらそう言うと、頭を下げた。

 たとえ自分が迎えてはもらえなくとも、孤児院でともに暮らす仲間が一人でも縁組先で幸せになれるのならそれでいい。それには、孤児院に悪印象を与えてはまずいと子供心に理解していた。

 だがその姿が不憫だったのか、両親はそっと椿と目線を合わせてこう言った。

『名前は?』
『……椿です』
『そう。……椿、君は私たちの娘になってくれる気はあるかい? 君さえ良ければ、私たちと一緒にこの屋敷で暮らすのはどうかな』

 まだこんなに年端も行かぬ子どもを今更突き返すのが、不憫だったからかもしれない。孤児という誰からも愛されず打ち捨てられた存在を、憐れんでくれたのかもしれない。

 けれど、両親の目はどこまでもあたたかく椿の心を包み込んでくれて、嬉しかった。初めて誰かに必要とされた気がして。

 そして椿は、遠山家の養女になった。

 以来、両親は椿に惜しみない愛情を注いでくれ、立派なお屋敷で何不自由ない暮らしをさせてくれた。そしてそれは、その後医師に子は望めないと言われていたはずの母のお腹に弟が宿ってからも変わらなかった。
 それがどれほど幸せなことか。
 
 椿は感謝してもしつくせないほどの恩と、これ以上ないほどの情を感じていた。



 けれど、椿の心の中にはずっと残る苦い思いがある。

 自分がこうして幸せな場所を手に入れた代わりに、本来迎えられるはずだった男の子は居場所を取り上げられたのだ。今自分がいるこの場所は、本来自分に与えられるべきものではないのだ、と。

 だから思うのだ。これ以上、幸せになっていいはずがない、と。

 これ以上の幸せを望んではいけない。今自分にできるのは、幸せをくれた皆に少しでも多く恩を返し皆の幸せのために生きることだと。
 なのに何もできていない気がして、もどかしいのだ。両親にも、和真にも、孤児院の子どもたちへも、何も。
 
 椿は自分の不甲斐なさを情けなく感じながら、自分の中にある暗く澱んだ思いにそっと目をつむった。



 ◇◇◇◇


「おかえりなさい、椿。孤児院はどうだった? 子どもたちは変わりない?」

 出迎えてくれた母の穏やかなどこか気遣うような声に、椿は顔を上げた。
 けれど、うまく明るい表情を作ることができずに黙り込んだ。

「……さぁ、いらっしゃい。あなたも疲れたでしょうから、ひとまず一緒にお茶にしましょう? いつものとっておきのお茶を淹れてあげるわ」

 部屋へと招き入れられた椿は、母のまとう優しい香りにふわりと包まれ、ふと泣き出したい気持ちにかられた。

「これ、今度売りに出すお菓子なんですって。せっかくだからお茶と一緒にいただきましょう。今日は朝からあんな手紙が来て疲れたでしょうから、甘いもので元気を出さなくちゃね」

 そう言って母はやわらかく微笑んだ。

 母がそっとティーポットに茶葉を入れゆっくりと静かにお湯を注ぎ入れると、その手元からふわりと華やかで優しい香りが立ち昇る。

 その香りを、椿は胸一杯に吸い込んだ。

 椿が何かで落ち込んだり気が滅入っていたりすると、母はいつもこのお茶を手ずから淹れてくれる。丁寧に時間をかけて、ゆっくりと。
 この香りと淹れてくれる母の仕草を見ていると不思議に気持ちが落ち着いて、心が軽くなる気がするから不思議だ。

「はい、どうぞ。召し上がれ」

 きっと母には、なんでもお見通しなのだろう。和真のことも明之のことも、何一つ力になれずに沈み込んだこの気持ちも。

「……孤児院で何かあったの? 和真の縁談のことだけじゃないでしょう。落ち込んでいる理由は」

 何も言わずともいつもこうして分かりにくい自分の心をあたたかくすくい上げて心配してくれる母の愛情に、椿は思いの丈を吐き出した。

「……実はね、明之が縁組を断られたの。孤児はどんな親から生まれたか知れないから、能力が少しくらい低くても遠縁の子の方がいいって。元気よく振舞っていたけれど、明之の気持ちを思うとなんだかたまらなくて……」
「そう……。それは、悔しいでしょうね……」

 母は椿の肩をそっと抱き寄せ、懐かしそうにつぶやいた。

「縁って難しいわね。……そういえば、大和って言ったかしら? もともと迎える予定だったあの男の子。二人とも引き取りますって言ったのだけど、ちょうどあるご夫婦が畑を継いでくれる男の子を欲しがっているからとそちらに引き取られていったのよね……」

 母にとっても、あの時のことは気がかりらしい。
 今あの子がどうしているのか、椿も知らないのだ。行方知れずになってしまったから。


 自分にとっては、幸せな居場所を手に入れた運命の日。
 でも、あの子にとっては果たしてどうだったろう。

 迎えられるはずだった遠山の屋敷ではなく、遠く離れた農家に迎えられたあの子にとっては、どんな気持ちであの日のことを思い出すのだろう。

 椿はそっと目を伏せ、お茶を飲み干したのだった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します

矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜 言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。 お互いに気持ちは同じだと信じていたから。 それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。 『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』 サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。 愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。

どうやら私(オタク)は乙女ゲームの主人公の親友令嬢に転生したらしい

海亜
恋愛
大交通事故が起きその犠牲者の1人となった私(オタク)。 その後、私は赤ちゃんー璃杏ーに転生する。 赤ちゃんライフを満喫する私だが生まれた場所は公爵家。 だから、礼儀作法・音楽レッスン・ダンスレッスン・勉強・魔法講座!?と様々な習い事がもっさりある。 私のHPは限界です!! なのになのに!!5歳の誕生日パーティの日あることがきっかけで、大人気乙女ゲーム『恋は泡のように』通称『恋泡』の主人公の親友令嬢に転生したことが判明する。 しかも、親友令嬢には小さい頃からいろんな悲劇にあっているなんとも言えないキャラなのだ! でも、そんな未来私(オタクでかなりの人見知りと口下手)が変えてみせる!! そして、あわよくば最後までできなかった乙女ゲームを鑑賞したい!!・・・・うへへ だけど・・・・・・主人公・悪役令嬢・攻略対象の性格が少し違うような? ♔♕♖♗♘♙♚♛♜♝♞♟ 皆さんに楽しんでいただけるように頑張りたいと思います! この作品をよろしくお願いします!m(_ _)m

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

ひねくれ師匠と偽りの恋人

紗雪ロカ@失格聖女コミカライズ
恋愛
「お前、これから異性の体液を摂取し続けなければ死ぬぞ」 異世界に落とされた少女ニチカは『魔女』と名乗る男の言葉に絶望する。 体液。つまり涙、唾液、血液、もしくは――いや、キスでお願いします。 そんなこんなで元の世界に戻るため、彼と契約を結び手がかりを求め旅に出ることにする。だが、この師匠と言うのが俺様というか傲慢というかドSと言うか…今日も振り回されっぱなしです。 ツッコミ系女子高生と、ひねくれ師匠のじれじれラブファンタジー 基本ラブコメですが背後に注意だったりシリアスだったりします。ご注意ください イラスト:八色いんこ様 この話は小説家になろうさん、カクヨムさんにも投稿しています。

自己肯定感の低い令嬢が策士な騎士の溺愛に絡め取られるまで

嘉月
恋愛
平凡より少し劣る頭の出来と、ぱっとしない容姿。 誰にも望まれず、夜会ではいつも壁の花になる。 でもそんな事、気にしたこともなかった。だって、人と話すのも目立つのも好きではないのだもの。 このまま実家でのんびりと一生を生きていくのだと信じていた。 そんな拗らせ内気令嬢が策士な騎士の罠に掛かるまでの恋物語 執筆済みで完結確約です。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

獣人の世界に落ちたら最底辺の弱者で、生きるの大変だけど保護者がイケオジで最強っぽい。

真麻一花
恋愛
私は十歳の時、獣が支配する世界へと落ちてきた。 狼の群れに襲われたところに現れたのは、一頭の巨大な狼。そのとき私は、殺されるのを覚悟した。 私を拾ったのは、獣人らしくないのに町を支配する最強の獣人だった。 なんとか生きてる。 でも、この世界で、私は最低辺の弱者。

処理中です...