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15 そして進んでいく
しおりを挟む最後の設問に答え終わり、わずかに震える指で試験終了のキーをタッチする。プロジェクトマネージャーへの昇進試験に挑戦したのは、今思えば時期尚早だったかもしれない。もう少し年数がたって経験を積んでからのほうが可能性があったかもしれないとは思う。でも、課長の勧めもあり、女性ではまだ少ないマネージャーを目指すことにしたのだ。
仕事の傍ら猛勉強して、なんとか今日の試験を迎えたはいいが自信があるかといわれればーー。
「友井、お疲れさん。今日の結果が良ければ、後日上との面談だ。……なんだ、その顔。自信ないのか?」
今にも泣きそうな顔でパソコンのディスプレイを見つめたまま動けずにいる私をみて、課長が呆れ顔で笑う。
「今年だめでも来年また受ければいいんだし、ダメでも昇給には別に影響ないぞ。それにお前なら実力的には十分やっていけるはずだ。問題はメンタルだけかな」
「……はいいぃ。頑張ります……」
力ない声で課長の激励に頭を下げ、自分のデスクへと戻る。頭を使いすぎてヘロヘロだ。ぐったりと席に座り込み、やっと試験勉強から解放された安堵感と結果が出るまでの不安感から深い溜息をついた。なにはともあれ、もうなるようにしかならない。
目を閉じて、ついうとうととしかけたその時。おでこにひんやりとした何かが押し付けられて飛び起きた。
「お疲れ。首尾はどうでした?」
おでこに当てられたのがお気に入りのココア缶と気づいて、へらりと笑う。ついこの間まであたたかいココアがおいしかったはずなのに、ここ最近はすっかり気温が上がって日によっては上着いらずだ。自動販売機のココアもいつの間にかホットからアイスココアへと切り替わっていた。
「うーん……って感じ。まあやるだけのことはやったから、後は結果を待つしかないかな。桐野くんは出張明後日からだっけ? 大忙しだね」
「少しでも経験を多く積んでおきたいから、まあ願ったり叶ったりかな。呑気に仕事してて、おいていかれたくないし」
そう言ってこちらをちらりと見つめる。その視線の言わんとする意味は、分かっている。分かっているからこそこそばゆいし、嬉しくもある。
「でも今日は一区切りってことで、家で打ち上げはどう? 明後日からはしばらくゆっくり会う時間取れないし。ね、灯里?」
人が周囲からいなくなった瞬間を狙って、耳元で桐野が呟く。耳にかかる吐息と低くどこか艶っぽいその声に赤面し、言葉なくこくこくと頷くとぱっと離れて立ち上がった。
「もう休憩終わり? ちゃんと休まないとまた干上がりますよ?」
わざとからかうような口ぶりに鋭い視線を向け、さっさと歩き出す。
別に社内恋愛禁止の会社ではないが仕事とプライベートはしっかり分けたいし、仕事も大切だ。気持ちをしっかり切り替えたい。
桐野と私の関係が恋人に昇格したのは、つい先々月のこと。付き合いがまだ始まったばかりとはいえ、桐野は思った以上に強気というか積極的だった。一生分の恋愛運を使い果たしたんじゃないかと思うくらいには真っ直ぐに愛情を言葉と態度で示され続け、ストレートな愛情表現に慣れていない私は陥落されまくりの日々だ。
「ちゃんと仕事終わらせておかないと、夜ゆっくりできないでしょ。大事にしたいもん、二人の時間」
こんなこと口に出すのは恥ずかしいし、正直キャラじゃないとも思う。でももう不毛な恋はしないと心に誓ったのだ。大切にしたい存在も、気持ちも、言葉もちゃんと伝えられる時にその都度伝えておかないと、気持ちなんて簡単にすれ違う。もう自分に自信を持てずに臆病風に吹かれて大切なものを見失うなんて同じ過ちは、繰り返したくない。
それに、誰かに自分の価値を決めてもらうような生き方もごめんだ。いつだって自分の価値を決めるのは自分だし、自分の気持ちを選び取るのも自分自身でしかない。
「私ちゃんと誰かに選ばれるとか認められるとかじゃなくて、自分の頑張りで立っていたいから。桐野くんにだって頑張りで負けたくないし、胸を張って仕事してたい。だからちゃんとメリハリつけておきたいの。じゃないとそのうち追い越されちゃいそうだし……」
桐野は確かに飲み込みも早いし勘もいいし、有能なことは間違いないけれど、それを上回るだけの努力を重ねている人なのだ。だから負けてはいられない。恋も大切だけど、仕事だって大事にしたい。
今日はその第一歩、プロジェクトマネージャーの昇進試験だった。女性でこのポジションについている者は多くない。女性はどうしても結婚や出産を機に仕事をセーブするケースが多いから。でも女性だからこそうまく処理できる案件というのも、実は多い。だからこそ、女性がスキルアップを諦めることなく仕事も家庭も両立できるような道の一端を担える人間になりたい。それが目下の目標だ。
「でもあんまり出張が多いと、それはそれでちょっと寂しいし心配ではあるんだけど……」
社会人としてとか個の自分としての自信は、以前よりはついた気がする。けれど、女性としての魅力は今後も自信が持てそうにない。こればかりは持って生まれた素質とか造作というものがある以上、致し方ないと思う。だからこそ桐野のような有能かつイケメンな男が恋人となると気が気ではない。特に出張ともなるとそれだけ先方での出会いも当然たくさんあるだろうし、桐野を狙う女性はきっと後をたたないだろうし。
いっそ桐野がもう少し残念な顔立ちだったならとか失礼なことを考えてしまい、じっとりとその端正な顔を見つめて口を尖らせた。
すると桐野が顔を片手で覆って何かつぶやいて、がばりと抱き着いてきた。
「あー……ダメだ。かわいすぎて夜まで待てない。朝送るから、今夜は泊まりで」
「……っ! ふあっ?」
息もできないくらい桐野にぎゅっと強く抱きしめられて、肩が大きく跳ねる。
会社で過度な接触はしないでほしいと何度も念押ししているにも関わらず、どうも時折箍が外れがちになるのは困る。もっともそれをどこか喜んでしまう自分がいるのが、一番問題なのかもしれないけど。
もっとこのままくっついていたい気持ちをぐっと押し留めて、べりっと音がしそうな勢いで桐野の体を自分から引っ剥がす。
「接触禁止! ほら、仕事戻るよっ」
きっと私の顔が真っ赤になっているのもお見通しなんだろう。背中でくっくっくっくっ、とおかしそうに笑う声が聞こえる。
新しい恋も、仕事も、人生もまだまだわからないことだらけだ。でもきっと何度でも失敗して後悔して、その度に新しいことを覚えて、ゆっくりゆっくり進んでいくのだろう。
誰かに自分の価値を決めてもらうんじゃなく、自分自身で本当に望むものを手にするために。恋愛も仕事も、人生を選んで決めるのはいつだって自分自身なのだから。他人任せにしていいことなんて一つもない。それは決して楽じゃないけれど、誰かにゆだねてしまうよりはずっといい。すべてはこれからだ。
だから今日も顔をくっと上げて、前へと歩いていくのだ。いつの日か、望む自分に近づけるように――。
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