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4章 冬
51話
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いつの間に到着したのだろう。
工場夜景の光を見てからずっと、いろいろなことが頭の中を駆け巡っていた。気づけば僕は心美の家の前に車を停めていて、心美は助手席で眠っていた。辺りは真っ暗で、除雪された雪が道路の脇に寄せられ、山のように積み重なっていた。
僕は心美の肩をゆすり、名前を呼んだ。
彼女はゆっくりと瞼を開けると、小さな声で僕の名前を呼んだ。
そして、
「泊まっていくでしょ?」
と心美が言うのに、僕は素直に頷いた。
僕たちはひどく疲れていた。この一週間、心美はずっと絵を描いていたし、僕はいろいろなことを考えすぎた。だからこの時の僕たちにとってこのまま一緒に眠りにつくということは、とても自然なことに思えたのだ。
心美に手を引っ張られるがままに入った彼女の部屋は、冬のはじめにやってきたときに比べるととても整理されていた。絵を描いた紙は床に散らばっていないし、イーゼルも置かれていない。ただ、すっきりとした部屋の隅っこにベッドが置かれている。
僕たちは二人一緒になって、ベッドの上に寝ころんだ。柔らかな布団の感触が気持ち良い。
雪も、風も止んでいた。
しんとした世界の中で、僕たち二人の呼吸だけがわずかに音を立てる。
ふと、右手に触れるものがあることに気づいた。
彼女が僕の手を握っているのだ。
柔らかく、小さな手のひらが脈を打つのを感じる。
とくん、とくんと繰り返す鼓動が、彼女がたしかに生きていることを感じさせる。
温かい。
とても温かくて、優しい温度だ。
彼女から伝わる温かさに、僕の心は不思議と落ち着いた。
全身が包みこまれ、僕はしずかに眠りに落ちた。
僕は歩いていた。
あたりを見回すと、そこが犀川の川辺なのだとわかった。
足を止めようと思っても勝手に足が動き、少し先にぼやっと浮かぶ橋のほうへ向かっている。
これは夢だ、と僕はすぐに気づいた。
夢を見ることなどあんまりないのだけれど、こんなに意識のはっきりとした夢は初めてだと思った。
橋がだんだんと輪郭を現し、その橋の前に人がいることに気づいた。真っ白な服を着ているその人は、僕がよく知る女の子だった。
「恭二郎、こんばんは」と心美は言った。
橋の前で足が止まり、心美と並んで立った。ほかのあらゆる輪郭はぼやけているのに、心美の姿だけはくっきりと見えて、なんとなくおかしな感じだった。
「ここは一体何なんだい?」と僕は言った。
ひと言ひと言がひどくのんびりと発音されて、まるで水の中で話しているみたいだ。
「わたしは、夢の中だと思うのだけれど」と心美が笑うので、「それには僕も同感だ」と僕も笑い返した。
心美の自然な笑顔をとても久しぶりに見た気がして、僕は胸が締めつけられた。彼女が笑うときは、いつもその奥に深い孤独を感じていた。それは僕にはどうすることもできないことで、その笑顔を見るたびに、彼女がいつか遠くに行ってしまうんじゃないかと僕はいつも怖かった。
「ねえ、手を繋いでくれる?」
夢の中の彼女は、とても素直な女の子だった。背の小さな彼女は、ただそのまま僕を見つめるだけで上目遣いになる。僕はどうしようもなく、この瞳に弱い。
「うん、どうぞ」
僕が左手を差し出すと、心美は嬉しそうな顔をして、僕の手を握った。
そのとき僕の中に、古い記憶が溢れだした。
屋台の光が目の前に広がり、花火の音が耳元で響く。
そうか、心美だったのか。
十年前の夏祭りで、迷子になっていた女の子。
父を見つけて大泣きした僕をじっと見つめていた大きな瞳は、たしかに今思うと彼女のものだった。
「やっと気づいたの?」
僕の心の中が、彼女には見えるようだ。僕も彼女を見ると、考えていることがなんとなくイメージできる。夢の中で意識がつながっているのだろうか。
「言ってくれればよかったのに」僕は彼女の目を見た。
「あー、恭二郎はほんとにわかってないなあ」
心美は怒ったように頬をふくらませ、ぷいっとそっぽを向いた。だけど僕の中に伝わってくる心美の感情に、怒りはなかった。触れたくなるような、温かな優しい感情がふわふわと浮かんでいた。
「ごめん、だけどあの頃と比べるとほんとうに・・・」
と言って、僕は口をつぐんだ。
「ほんとうに、なに?」
心美は頬をふくらませたまま、僕を見る。いたずらっぽい感情が目の奥に見えて、僕は吹き出してしまいそうになる。
だけど、ちゃんと言おうと思った。
「ほんとうに、心美は綺麗だ」
わたしのこと、綺麗だって言ってくれるかな?
あの夏祭りの日、彼女は僕にそう聞いた。
あのときの僕はすぐに答えられなかったけど、今はどれだけでもちゃんと彼女の目を見て言える。
浴衣で着飾っていなくたって、いつもペンキで汚れた服を着ていたって、心美はいつも気高くて、とても綺麗だ。
「わぁ、恭二郎が王子様になっちゃった」
僕の心の中まで見えたのか、心美の顔はみるみる内に真っ赤になった。色白の顔は、赤くなるとすぐに分かる。
「さあ、いこう」
これは夢なのだ。
僕はこの夢が終わったらちゃんと、心美に言わなければいけないことがある。
彼女の手を強く握りしめると、僕は一歩踏み出した。
その瞬間。
橋の上を巨大な何かが飛び越えた。
大量の川水を撒きちらし、雄大な生物が美しく空を舞う。
スローモーションになったかのようにゆっくりと舞うその姿を、僕たちは釘づけになった。
クジラだ。
空を舞う、大きなクジラ。
艶々とした黒い身体は美しく、瞳は優しく光っていた。
クジラの身体が着水すると、水面が縦に割れるように大きな水飛沫が上がった。
クジラは悠々と犀川を泳ぎ回ると、また橋を大きく飛び越えるジャンプをした。
圧倒的なブリーチングは、この世のものとは思えないほど美しく、偉大な景色だった。
何度も、何度も、クジラは空を飛ぶ。
「父さん・・・」
僕は言った。
自分でも、なぜ父のことを呼んだのか分からなかった。
だけど、分かった。
あり得ないことかもしれないけれど、僕は確信した。
あのクジラは、父だ。
身体はクジラだけど、優しい瞳の中には間違いなく父の姿があった。
父が見たクジラの正体が、ようやく分かった気がした。
「父さん!」
僕は叫んだ。
いつの間にか横にいた心美の姿は消えていて、僕はクジラと一緒に、まぶしい光の中に包まれた。
光の中の真っ白な空間は、なにも怖くないところだと思った。
父も、クジラも、ずっと僕らの側にいてくれていたのだ。
ようやく、僕は気づいたのだ。
工場夜景の光を見てからずっと、いろいろなことが頭の中を駆け巡っていた。気づけば僕は心美の家の前に車を停めていて、心美は助手席で眠っていた。辺りは真っ暗で、除雪された雪が道路の脇に寄せられ、山のように積み重なっていた。
僕は心美の肩をゆすり、名前を呼んだ。
彼女はゆっくりと瞼を開けると、小さな声で僕の名前を呼んだ。
そして、
「泊まっていくでしょ?」
と心美が言うのに、僕は素直に頷いた。
僕たちはひどく疲れていた。この一週間、心美はずっと絵を描いていたし、僕はいろいろなことを考えすぎた。だからこの時の僕たちにとってこのまま一緒に眠りにつくということは、とても自然なことに思えたのだ。
心美に手を引っ張られるがままに入った彼女の部屋は、冬のはじめにやってきたときに比べるととても整理されていた。絵を描いた紙は床に散らばっていないし、イーゼルも置かれていない。ただ、すっきりとした部屋の隅っこにベッドが置かれている。
僕たちは二人一緒になって、ベッドの上に寝ころんだ。柔らかな布団の感触が気持ち良い。
雪も、風も止んでいた。
しんとした世界の中で、僕たち二人の呼吸だけがわずかに音を立てる。
ふと、右手に触れるものがあることに気づいた。
彼女が僕の手を握っているのだ。
柔らかく、小さな手のひらが脈を打つのを感じる。
とくん、とくんと繰り返す鼓動が、彼女がたしかに生きていることを感じさせる。
温かい。
とても温かくて、優しい温度だ。
彼女から伝わる温かさに、僕の心は不思議と落ち着いた。
全身が包みこまれ、僕はしずかに眠りに落ちた。
僕は歩いていた。
あたりを見回すと、そこが犀川の川辺なのだとわかった。
足を止めようと思っても勝手に足が動き、少し先にぼやっと浮かぶ橋のほうへ向かっている。
これは夢だ、と僕はすぐに気づいた。
夢を見ることなどあんまりないのだけれど、こんなに意識のはっきりとした夢は初めてだと思った。
橋がだんだんと輪郭を現し、その橋の前に人がいることに気づいた。真っ白な服を着ているその人は、僕がよく知る女の子だった。
「恭二郎、こんばんは」と心美は言った。
橋の前で足が止まり、心美と並んで立った。ほかのあらゆる輪郭はぼやけているのに、心美の姿だけはくっきりと見えて、なんとなくおかしな感じだった。
「ここは一体何なんだい?」と僕は言った。
ひと言ひと言がひどくのんびりと発音されて、まるで水の中で話しているみたいだ。
「わたしは、夢の中だと思うのだけれど」と心美が笑うので、「それには僕も同感だ」と僕も笑い返した。
心美の自然な笑顔をとても久しぶりに見た気がして、僕は胸が締めつけられた。彼女が笑うときは、いつもその奥に深い孤独を感じていた。それは僕にはどうすることもできないことで、その笑顔を見るたびに、彼女がいつか遠くに行ってしまうんじゃないかと僕はいつも怖かった。
「ねえ、手を繋いでくれる?」
夢の中の彼女は、とても素直な女の子だった。背の小さな彼女は、ただそのまま僕を見つめるだけで上目遣いになる。僕はどうしようもなく、この瞳に弱い。
「うん、どうぞ」
僕が左手を差し出すと、心美は嬉しそうな顔をして、僕の手を握った。
そのとき僕の中に、古い記憶が溢れだした。
屋台の光が目の前に広がり、花火の音が耳元で響く。
そうか、心美だったのか。
十年前の夏祭りで、迷子になっていた女の子。
父を見つけて大泣きした僕をじっと見つめていた大きな瞳は、たしかに今思うと彼女のものだった。
「やっと気づいたの?」
僕の心の中が、彼女には見えるようだ。僕も彼女を見ると、考えていることがなんとなくイメージできる。夢の中で意識がつながっているのだろうか。
「言ってくれればよかったのに」僕は彼女の目を見た。
「あー、恭二郎はほんとにわかってないなあ」
心美は怒ったように頬をふくらませ、ぷいっとそっぽを向いた。だけど僕の中に伝わってくる心美の感情に、怒りはなかった。触れたくなるような、温かな優しい感情がふわふわと浮かんでいた。
「ごめん、だけどあの頃と比べるとほんとうに・・・」
と言って、僕は口をつぐんだ。
「ほんとうに、なに?」
心美は頬をふくらませたまま、僕を見る。いたずらっぽい感情が目の奥に見えて、僕は吹き出してしまいそうになる。
だけど、ちゃんと言おうと思った。
「ほんとうに、心美は綺麗だ」
わたしのこと、綺麗だって言ってくれるかな?
あの夏祭りの日、彼女は僕にそう聞いた。
あのときの僕はすぐに答えられなかったけど、今はどれだけでもちゃんと彼女の目を見て言える。
浴衣で着飾っていなくたって、いつもペンキで汚れた服を着ていたって、心美はいつも気高くて、とても綺麗だ。
「わぁ、恭二郎が王子様になっちゃった」
僕の心の中まで見えたのか、心美の顔はみるみる内に真っ赤になった。色白の顔は、赤くなるとすぐに分かる。
「さあ、いこう」
これは夢なのだ。
僕はこの夢が終わったらちゃんと、心美に言わなければいけないことがある。
彼女の手を強く握りしめると、僕は一歩踏み出した。
その瞬間。
橋の上を巨大な何かが飛び越えた。
大量の川水を撒きちらし、雄大な生物が美しく空を舞う。
スローモーションになったかのようにゆっくりと舞うその姿を、僕たちは釘づけになった。
クジラだ。
空を舞う、大きなクジラ。
艶々とした黒い身体は美しく、瞳は優しく光っていた。
クジラの身体が着水すると、水面が縦に割れるように大きな水飛沫が上がった。
クジラは悠々と犀川を泳ぎ回ると、また橋を大きく飛び越えるジャンプをした。
圧倒的なブリーチングは、この世のものとは思えないほど美しく、偉大な景色だった。
何度も、何度も、クジラは空を飛ぶ。
「父さん・・・」
僕は言った。
自分でも、なぜ父のことを呼んだのか分からなかった。
だけど、分かった。
あり得ないことかもしれないけれど、僕は確信した。
あのクジラは、父だ。
身体はクジラだけど、優しい瞳の中には間違いなく父の姿があった。
父が見たクジラの正体が、ようやく分かった気がした。
「父さん!」
僕は叫んだ。
いつの間にか横にいた心美の姿は消えていて、僕はクジラと一緒に、まぶしい光の中に包まれた。
光の中の真っ白な空間は、なにも怖くないところだと思った。
父も、クジラも、ずっと僕らの側にいてくれていたのだ。
ようやく、僕は気づいたのだ。
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