犀川のクジラ

みん

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4章 冬

47話

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 そんな風に一年半が過ぎてね、お母さんの絵はすごく高額で売れるようになって、わたしの家は裕福な家になってたんだよ。こないだ恭二郎が座ったソファも、百万くらいするやつだし。
だけど、わたしが中学二年の十二月に、事故が起きたの。ヒデさんに聞いたんだよね・・・ちょうど五年前になるのかなあ。新潟の展示会の帰り道に、雪道をスリップしてね、大きな事故だったって聞いてる。お母さんはなんとか助かったけど、お父さんは即死だった。
 お母さんは二か月くらい金沢の病院に入院して、家に帰ってきた。二か月のあいだに、入院の手続きがあったり、警察の人に話を聞かれたり、お父さんの葬式があったり、色々なことが一気にやってきて、すごく大変だった。お母さんもわたしも、すごく悲しくて、すごく泣いたけど、その忙しさに救われている部分もあったと思う。
お母さんは家に戻ってから、時間があれば絵を描いてた。怪我がまだ完治していないのに、とにかく絵を描いてた。お父さんがいない分、働くしかないっていうのはあったけど、あの頃のお母さんは、動いていないとどうにかなりそうだったのかもしれないね。それでもお母さんはわたしに笑顔で接してくれていたし、わたしはお父さんのためにも、お母さんと頑張って生きていこうって思ってた。
でもね、ある投稿がSNSで拡散されたの。
「花川静香は事故に見せかけて、夫である花川拓郎を殺害した」
 わたしもお母さんも、インターネットは詳しいほうじゃなかったから、最初の内は全然耳にも入ってこなかった。だけどこの投稿をきっかけに、
「花川静香は夫からDVを受けていた」
「突如成金となった花川静香は、夫と金銭絡みで揉めていた」
「花川静香がラブホテルに入っていくところを見た。複数の男と不倫する淫乱女」
「事故が起きる前に夫はすでに殺害されていた」
 っていう投稿がどんどんと増えていったの。
それをわたしに教えてくれたのは、シオリさんだった。SNSは匿名で書きこむことができるから、みんな最初の投稿に乗って好きなことを書きこむんだってシオリさん怒ってた。わたしはすごくショックだった。お母さんとお父さんはすごく仲が良かったし、画家として成功していくことも応援してた。なんでこんな信憑性のない情報に乗っかって、弱ってる人間を追い込もうとするんだろうって。SNSのことはお母さんに言わないでおこうって決めたの。ただでさえお父さんがいなくなって悲しいときに、こんなの見たらお母さんは立ち直れなくなるかもしれないから。
 だけどある日、週刊誌に記事が出てから、わたしたちの周りの状況は一変したの。
「花川静香の本性!」
 見開き二ページで特集されてた。事故のこととか、SNSの話とかが書かれてて、すごくひどい内容だった。お母さんはいつもお世話になってる画商さんから聞いて、その週刊誌を読んだの。家に帰ったらパソコンを開いて、インターネットを繋いで、SNSを見た。わたしが学校から帰ってきたら、お母さんは真っ白な顔をしてパソコンを見てた。週刊誌がパソコンの脇に置いてあって、わたしはその時初めて週刊誌を読んだの。
 ムカついて、本当に腹が立って、週刊誌をビリビリに破いてやった。この記事を書いた人間を見つけて、蹴り倒してやりたいって思ったよ。だけどその方法も分からないし、憔悴しているお母さんを放っておくわけにもいかないから、とにかくそばにいた。一緒に泣いて、お母さんを抱きしめたの。
 次の日の朝、郵便受けに新聞を取りにいったら、表札の下にスプレーで落書きをされてたんだ。
「人殺しは出ていけ!淫乱女!」
 赤いスプレーでね、殴り書きしたような汚い字だった。庭を見に行ったら、掘り起こされたみたいに荒らされてて、いくつかの生卵がつぶれて広がってた。
それからは、テレビや雑誌の人たちがまるで自分たちが正義みたいに、わたしたちのことを取り上げるようになったの。お母さんやお父さんの過去を報道して、何も知らないくせに、知ったような顔して。
お母さん、負けないように頑張ってたけど、ついに一枚も描けなくなった。うん。「犀川とクジラの絵」を最後に描いて、ヒデさんに渡したの。それからしばらくして、まっくろな顔になって倒れた。

 お母さんは、精神病院に入ることになった。
 わたしが中学三年生の春のことだよ。
 ときどき面会にも行けたけど、お母さんはもう前のお母さんじゃなくなってた。目に生気がなくて、わたしのことも誰だか分からない感じでね。学校の話とか、友達の話とかをするんだけど、全く笑ってくれなかったな。
あの頃、どうしてこうなっちゃったんだろうって考えてた。わたしたちは真面目に、ただ一生懸命に暮らしていただけなのに、なんで、なんでってずっと考えてた。
 それからわたしは、新潟のおばさんの家で暮らすことになったの。お母さんの両親はすでに亡くなっていて、ほかに身内がいなかったから。
 だけどおばさんはお母さんとは昔から仲が悪くて、わたしのことも嫌いだった。仲が悪いというか、おばさんが一方的にお母さんやわたしのことを嫌っていたんだけどね。
おばさんが言うには、お母さんはおばさんに勉強でも運動でも、何一つ適わなかったんだって。成績が優秀なのは常におばさんだし、部活で結果を出すのもいつもおばさんだったみたい。それはなんとなく分かるけどね、お母さんはべつに頭が良いって感じでもなかったし、誰かと競い合うような性格でもなかった。
 だけど、絵を描くのが上手だった。
 ほかになんの取り柄がなくてもお釣りがくるくらいの、圧倒的な画力がお母さんにはあったの。
 小学六年の夏、新潟県内すべての学校に応募資格がある絵画コンクールで、お母さんは最優秀賞をとった。当時の担任の先生は大喜びで、お母さんのことを「天才」だって言った。この子は将来、多くの人を喜ばせる天賦の才があります。だから絶対に画家の道へ進むべきですって、先生はそう言ったらしいの。
 お母さんの両親、つまりわたしのおじいちゃんとおばあちゃんはそれを真に受けて、お母さんにどんどん本格的な絵の勉強をさせた。それが良かったのかは分からないけど、お母さんは中学でも高校でもたくさんの賞をとった。そして、美大の道に進んだ。
 おばさんはその間、地獄にいるみたいだったって言ってた。自分がどんなに良い成績をとっても、部活で活躍しても、おじいちゃんたちはお母さんのほうしか見なかった。お母さんがどんどん名のある賞をとって、有名な画家になることを望んだ。おじいちゃんは中小企業に勤めるサラリーマンで、おばあちゃんはパート従業員。そんな「普通」の二人にとって娘が「特別」だということが、すごくすごく、素晴らしいことだったのかもしれないね。
 おばさんは、自分が家族に必要とされていないと感じた。
 いてもいなくてもどっちでもいい、空っぽの存在だって。
 そのことにおばさんはずっと苦しんだ。
 思春期の真っただ中で、「特別」なお母さんの存在は、おばさんを苦しめつづけた。
 風船は膨らませつづけたら、いつか割れるよね。おばさんの我慢の風船は、高校卒業といっしょに破裂した。
 おばさんは実家を出た後、十数年ものあいだ連絡もつかなくて、ほとんど絶縁状態だったって。だけどおじいちゃんとおばあちゃんが亡くなって、おばさんは新潟にもどってきたの。旦那と、小学生だった登を連れて。
 そんな家で育ったから、おばさんはわたしを壊すことで、復讐でも果たしたかったのかな。ほんとに、地獄みたいだった。
 カレーを食べていたら、中からゴキブリの死骸が出てきたことある?
トイレやお風呂に入っているときに盗撮されたことはある?
 描いた絵をバラバラに壊されたことは?
 学校に自分の評判が悪くなるような噂を流されたことは?
 大切なものを奪われたことは?
 おばさんがわたしを見る目、いつも「憎い」という感情しか映っていないの。
わたしが、お母さんの子どもだから。
そのことに気づいたのは、お母さんが施設で自殺したって聞いた後のことだったな。
お父さんとお母さんがこの世からいなくなったら、なんだかふわふわした。逆に、なんでわたしはここで生きているんだろうって思った。毎日、毎日、人間以下の扱いをされて、いつもお腹が空いてて、もう消えてしまいたかった。
 なんで一緒に連れていってくれなかったの、てずっと思ってた。
 お母さんとお父さんはわたしのこと、嫌いになったんだって。
 だって、そう。
 大雪の前日、わたし、お母さんとお父さんと喧嘩してた。
 友達と遊んで、帰ってくるのが遅くて、いつも二人は心配してた。
 どこで遊んでるの?
 いつもだれといるの?
 そんな風に聞いてくる二人が、すごく鬱陶しいと思った。
 お母さんとお父さんが鬱陶しくて。
嫌なことを言って、悲しませた。
「お母さんとお父さんだって、最近ほとんど家にいないじゃん。ご飯だって手抜きのばっかりで全然美味しくないし。・・・まあそうだよね、外で絵を売ってるほうが、よっぽど楽しいもん」
 もっとひどい言葉も、言ったかもしれない。
仕事がほんとうに忙しかったのは、知ってた。
 お父さんも自分の仕事のかたわらでお母さんの仕事を手伝って、ずっと忙しかった。
 あの時は分からなかったけど、さみしかったんだと思う。
 わたしは自分のさみしさをちゃんと伝えられなくて、傷つける言葉をお母さんたちにぶつけた。
だからわたしがいなかったら、あの大雪の日、無理して金沢に帰ってくる必要はなかった。お母さんとお父さんはわたしの言葉のなかに、さみしさがあるんだってことに気づいていたの。

 変だよ。
 変だよね。
 わたし自身がわかっていないことなのに、親って、わかるんだね。
 だから、お父さんが死んだのはわたしのせい。
 お母さんが死んだのも・・・わたしのせい。
 わたしも死のうとおもった。
 わたしも死ななきゃ、お母さんたちに謝ることすらできないって、おもった。
 死ぬ方法なんてわからなかったから、夜の海にいこうっておもった。
 夜の海にいって、ぷかぷか浮いてたら、誰にも邪魔されずに、静かに消えていける気がしたの。
 その日、おばさんたちが寝静まったら、家を出ようって決めた。
 時計の針が重なって、わたしは音を立てないように自分の部屋からでた。
 階段はすこしギシギシと鳴るから、注意した。
 リビングの横を通ったら、あとは玄関のドアを開けるだけ。
 その時にね、リビングの中から声が聞こえたの。
 ほんとうに小さな声で話していたから、誰もいないのかと思ってた。
「本当に、それでいいんだな」
「大丈夫よ。あの子はなーんにも知らないんだから」
「といってもなあ・・・」
「あなたは、黙って言うことを聞いてればいいの」
「・・・」
「これは姉さんからの、慰謝料なんだから」
 わたし、おばさんたちの話を聞いておどろいたわ。
 その日海に行って、もう全部終わりにするつもりだったけど、わたしはもう少し生きなければいけないって思った。
 おばさんたちが話していたのは、お母さんが描いた「最後の七枚」のことだったから・・・。
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