犀川のクジラ

みん

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2章 夏

20話

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「図書館に行って、期末試験の勉強とクジラ調査しようぜ」

 永井が声をかけてきたのは、大学の前期授業が終了するすこし前のことだった。長かった梅雨がようやく明け、じりじりとした日差しが僕らの肌を容赦なく焦がす。大学から見える山々に目を向けると、その上には巨大な積乱雲が渦を巻いて広がっている。

 前期の授業が終わると、期末試験がはじまる。
 僕ら大学三年のこの時期は、取得単位は稼いでおく必要がある。というか、一つも単位を落としたくはない。永井は由紀のことも誘い、僕らは図書館のグループ学習スペースに集まることになった。
本棚がある図書スペースとは隔てられているので、グループ学習スペースでは自由に会話することができる。ほかにも周りではいくつかのグループが、話しながら勉強をしたり、プレゼン資料を作ったりと学生らしく活発に行動している。

「ふぅー、ここは涼しいなあ」椅子に座った永井は、かばんからタオルを取り出し、額の汗をぬぐう。春先はパーマ頭だった髪の毛が、すっきりと短くなっている。
「なんにもしてないのに汗だくやね」と言って由紀が笑う。彼女が着ているノースリーブ・ブラウスの袖口から伸びる白い腕がまぶしく光っている。
「まずは勉強する?森熊先生の授業だけは落とすわけにはいかないよね」
 僕は鞄からゼミの担当教授である森熊先生が受け持つ「地域文化史」の教科書をとり出した。
「熊さんのやつか、意外と難しいんだよなあ。ゼミのよしみで単位くれねーかな」
 僕たち三人は二年に進学したときから、地域文化や歴史を研究する森熊ゼミに所属していた。森熊先生はいつもゆっくりと話し、一つ一つ丁寧に授業を進める人である。童謡「森のくまさん」に出てくる熊のようにのっそりと優しい雰囲気なので、「熊さん」と学生の間では呼ばれている。
「それは甘えすぎやない?」由紀はちらっと永井を見て、「森熊先生は優しいけど、そういうところはシビアに評価するって先輩たちが言ってたよ」と言う。
「うへっ。由紀もくまさんもきびしーなあ」心配して言ってるのに、と由紀が怒ったような声をだすが、永井は気にも留めないようで、
「三年生の前期が終わって、夏休みが終わって、後期がおわればもう就職活動しなきゃいけないんだなあ。卒業したらどこで働くとか、もう決めているか?」と言う。
「わたしは、たぶん市役所か大学職員の試験をうけることになるかな」
「園宮の両親、二人とも公務員だっけ?」
「そうなの。最初はそんなのつまんないかなあって思っていたけど、とくにこれといってやりたいこともないから」

 由紀が言っていることは、多くの大学生にも当てはまるのかもしれない。アルバイト程度にしか仕事の経験がない僕らには、実際に社会に出るということがどういうことなのか、イメージすることしかできない。
 社会に出て、お金を稼いで、結婚相手を見つけて、子供を育てていく。これが僕の想像する人生の一般的なコースである。ただ、端的にまとめてみればシンプルに見えるものの、実際には簡単に進んでいかないものなのだろう。

「社会人になってやりたいことかあ、難しいね。だけど公務員は、ひとまず安定しているしクリーンなイメージだ」僕の言葉に由紀は、そうだね、とうなずく。
「おれは卒業したら、出版社で働くつもりだ。夏休みにインターンシップをしてみようと思っている」永井は胸の前で腕を組み、僕らにそう言う。
「永井くん、実家の不動産屋さんは継がないん?」
「ああ、継がないつもりだ。出版社に興味があったから文学部に入ったようなところもあるんだ。元々本が好きだったし、ずっと携わっていける職業を探していた。うちには出来のいい弟がいるからな、親父の会社はあいつに任せようと思っている。親父にはまだ反対されているけどな」

 口には出さないが、永井は早く家を出たいのだろうと僕は思った。自らの不倫の上で永井の母親を追い出したお父さんの仕事を受け継ぐ気持ちにはなれないのだろう、と。
「みんな、色々と考えているんだな・・・」
「心美ちゃんは、絵描きで食っていけそうだよなー」
「ほんとやね。美術館の絵もすごく上手やったよね」心美ちゃんから今のうちにサインをもらっとこうか、などと永井と由紀は盛り上がる。

 僕は十文字書店から心美を送って帰るようになって四か月になるが、心美からそういった話は聞いたことがなかった。将来どうなりたいとか、これからも絵を続けていきたいなどということは、自然と話題にはならない。いつも書店の「アトリエ」に籠って絵を描いているので、絵を描くことは本当に好きみたいだけど。
「六藤、お前はどうなんだよ」

「・・・僕は」

 言葉に詰まる。

 正直に言うと、まだきちんと考えていなかった。由紀のように割り切ることができたり、永井のように自分のしたいことがあったり、心美のように特別な才能があるわけでもない。母さんには少しでも楽をさせてあげたいし、自立をしなくてはいけない。そのためにはきちんと社会人になる必要があるのだが、僕は自分の中にいくつかの岐路が浮かび上がっていることを感じていた。
僕が本当に進みたい道、進むべき道がどこなのか、まだ分からないのだ。

「少し、迷っているところかな」

「ま、そんな奴らは大勢いるだろうな。来週は花火大会で、それが終われば期末試験だ。六藤、大事なのは今だぜ」
 永井は自分で将来のことを聞いてきたくせに、今が大事だと胸を張る。
 来週末、犀川沿いで花火大会がおこなわれることになっていた。屋台が立ちならび、河川敷に多くの人々が集まって空を見上げる姿を見ていると、夏の訪れを感じることができる。十文字から友達を呼んできていいぞと言われていたので、僕らは由紀を誘って、花火大会に行くことが決まっていた。
「期末試験までもう少し時間あるし、クジラについて調べようか」

 まだ前期授業も終わってないので、試験日までにすこし余裕があった。僕らは図書スペースにいき、いくつか参考になりそうな資料を借りてくることにした。
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