犀川のクジラ

みん

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1章 春

13話

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「・・・ヤマグチ先輩の話を聞いて、正直引いた?」

 しばらくのあいだ二人で何も言わず歩いていると、ポトリと地面にモノを落っことすような小さな声で心美が言った。
 
 心美は川の方へと顔を向けて話しているので、どんな表情をして言っているのか分からない。
 ただ、心美の母親が夫を殺して自殺した、と言うあの男の言うことは完全にハッタリというわけではないのかもしれない、と僕は思った。

「心美があんなに怒っていたんだ。なにか事情があるんだろうな、てことくらい永井と園宮は分かっていると思うよ」
 もちろん僕も、と言い添える。
「怖くないの?」
「なにが?」
「もしわたしのお母さんがお父さんを殺した人間だったらってこと」
「心美は怖い人間なの?」
「わたし?」
「そう。仮にそうだとしても、君が怖ろしい人間じゃなければ大丈夫さ」
「そんなこと、真顔で言う人初めて」
「笑いながら聞くのも変じゃない?」
 君、と言ったことでまた心美から反論が来るのではないか、と思ったが心美は特になにも言わなかった。
「・・・そうだね」
 心美の目に光が差しこんだように見える。なんど見ても美しく、透き通った色合いをしている。心美はしばらく黙ったあと、何かを話したそうにして僕をみるが、やっぱりダメだという風に目を伏せる。
いつもはぐんぐんと力強い彼女が黙っていると、一人の頼りない、ふつうの少女のようだ。
「とにかく、今話したくないことは話さなくていいと思う。“犀川の会”で集まる機会はこれから何度でもあるんだからね」
「うん・・・ありがとう」
 僕と心美の距離は三十センチメートルものさしよりも短く、横で揺れる彼女の右手は、そう思えばいつだって触れられる距離にあった。だけど、ときおり夜風がその間を通りぬけ、近くに見える彼女との本当の距離を教える。

「あ」
 心美がなにかに気づき、いきなり道路に飛び出した。

「おい!」
 突然のことでおどろき、道路をみるが車が近づいてくる様子はない。もう夜も更けてきているので、車の通りが少なってきている。心美はしゃがみこみ、なにかを抱えているようだった。
 
 目をこらすと、心美が抱えているものは、車に轢かれた猫だった。
 猫といってもほとんど毛皮をかぶったなにかという印象で、骨がとびだし、肉がかすかにしか残っていないそれは、すっかり乾ききった生き物の姿だ。車に轢かれてから何日ものあいだ放置されていたのだろう、腐った匂いすらせず、ぼろぼろと乾いた身体が崩れていた。心美は無言で歩道にもどり、階段をおりて、河川敷にむかっていく。死んだ猫を抱えて歩く心美は、死者の魂を黄泉の国へとはこぶ従者のようだった。
 川沿いには桜の木がいくつも立っている。心美はそのうちの一本の木の下に猫をおろすと、穴を掘りはじめた。道具もつかわず、ただ素手で土を掘りつづける。

「なにしてるんだよ」

 なぜ君が道端で死んでいる猫を埋めてあげなければならないのか。

 市役所に連絡をすれば、きちんと処理をしてくれるではないか。

 僕はそういったことを彼女に言いたかった。

 僕は今の彼女の行動が理解できず、思いやりのある行動というものを、ひとつ超えてしまっているように感じた。僕のといかけに、彼女は答えない。

 しかし、目の前で女の子が額から汗を垂らし、手を泥まみれにしながら穴を掘っているというのに僕が動かないわけにもいかない。僕はしかたなく、ちかくにあった棒切れのようなものを手に取り、穴掘りを手伝う。数分二人で掘りつづけていると、猫を埋葬できるほどの穴ができた。彼女は猫の身体を抱えると、穴のなかにていねいに下ろす。猫の身体のうえに土を被せていき、小さな墓ができあがった。
 
 心美はなにもいわずに墓の前に手をあわせると、すくっと立ち上がり、歩き出した。僕は彼女のあとを追いかけ、一緒に階段をのぼって歩道にもどる。

「ごめんね、つきあわせて」
 心美の両手は泥だらけで、白く滑らかな肌が汚れている。川のほうを向く彼女の横顔は長い黒髪にかくれて、表情がみえない。彼女はゆっくりと歩道を歩いていく。彼女が怒っているのか、悲しんでいるのかさえわからず、僕はただ彼女の後ろをついていく。
「わたしのお父さんがね」と心美が話し出すが、相変わらず表情が見えない。
「わたしのお父さんが燃やされているとき、わたし、すごく泣いたの。ごうごう燃えている火の中にお父さんが今いるんだと思うと、熱そうで、痛そうで、つらくて」
 心美が話しているのは、彼女の父親の葬式のことなのだろう。僕らのよこを車が一台とおりすぎ、ライトがとおくに消えていく。
「だけどお母さんの葬式では泣けなかったんだ。人ってなにもかもを失ったとき、泣くことすらできないんだね。おばさんがいたからっていうのもあるけれど」
「おばさん?」
「お母さんの妹なんだけどね、すーっごく意地の悪い人なの。お母さんの葬儀のときも、遺産の話とかわたしの引き取りをどうするかばっかりでね、自分の姉が死んだっていうのに全然悲しまない。高校三年間、ずっとおばさんが住んでる新潟で一緒に暮らしていたけど、ほんとに酷い生活だった。あれなら施設で暮らしていたほうが何百倍もよかった」
 心美の声は淡々とひびき、夜の静寂のなかへ消えていく。
 店長と心美が書店で会ったとき、いつ新潟から戻ってきたんだ、という話をしていた。彼女には戻ってきた、というよりは、逃げ帰ってきた、という表現のほうが正しいのかもしれない。
「とにかく、お母さんの葬儀のときは泣けなかった。なんでわたしをこんな人達のところにのこして死んじゃうのって、怒ってた。お母さんもつらかったかもしれないけど、わたしだってつらいんだよ。ふざけんな、お母さんの馬鹿やろうって。お母さんの棺が燃やされていくところを見ながら、ずっとそんなことを考えてた。あれからずっと、わたしの目から涙なんて綺麗なもの、出たことないよ」
 わたし、お母さんにも、この世界にも怒ってた。
 怒っていないと、気が変になっちゃいそうだったのかもね。
 自分に言い聞かせるように、彼女は小さく言う。
「ねえ、恭二郎」
「なに?」
「人は死んだら、どうなるのかな」
「さあ、なんにもないんじゃないかな」
「ぷつん、てシャットダウンされるの?糸が切れるみたいに」
「・・・いろんな考え方があるとはおもうけれど」と僕は前置きをして、「生き物が死んだら、身体は分解され、原子に還る。記憶や魂はまるで初めからなかったもののように、すっかり消えてしまう。どんなに美しい女優でも、世紀の発明をした偉人でも、みんな一緒だと思う。生まれてくる前と同じように、死んだらなにも残らない」と言った。
「・・・恭二郎の、お父さんも?」
「そうだね。僕の父さんも、焼かれて、消えて、なくなった。父さんの中にたくさんあった原子は空気中にかえって、植物や動物、人間の身体を構成する一部になった」
「空しいね」
 長く伸びた黒髪を左耳にかけ、心美が言う。
 サファイアブルーの耳飾りが冷たく光る。
「死ってやつに囚われちゃうと、過去ばかり振り返ってしまうから。ああ、なんでもっと早く病気に気付いてあげられなかったんだ。なんでもっと、父さんとの時間を大切にしてこなかったのかって。僕と母さんは生きているから。生きている人間は、前へ進まなくちゃいけない」
「・・・後ろを振り返るのは、いけないこと?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、悲しみに囚われて動けなくなってしまうことは、きっと父さんも望んでいないと思うんだ」
「・・・うん、分かる気がする」
 十年前に父さんが死んだとき、僕も母もとてもつらかった。穏やかで明るい父がいなくなったことは、僕ら家族の身体を引きちぎられるような痛みがあったと思う。
 死については考えないように。
 父との思い出は忘れないように。
 そんな風にして当時の僕と母は、力を合わせて懸命に前へ進んだ。
「だけど、あの猫の魂は天国に行ってほしいな」心美が言う。
「天国なんて綺麗な名前のついたところじゃなくていいから、温かくて優しい場所で、のんびりお昼寝できているといいな」
 そうだね、と僕は言った。
 心美はこの日、僕になにかを言ってほしいのではなく、ただ聞いてほしかったのかもしれない。肉親がいなくなってしまう悲しみというのは、人に聞いてもらったからといって簡単に消えて無くなるわけではない。でも、少しのあいだだけでも心美の悲しみを減らすことが出来ていればいいな。
 僕はそう思った。
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