犀川のクジラ

みん

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1章 春

4話

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十文字と言い合いをしながら裏口から店へ入ると、レジの前に、どこかで見たことがあるような少女が立っていた。

「すみません」
川のせせらぎのように心地よく、美しい声だった。

黒目が大きくまつ毛がびっしりと長い。黒く艶やかな髪は背中まで伸びている。少女の背は小学生かとおもうほどに小さいが、顔立ちには幼さと一緒に聡明さが混じり合い、そのような子供ではないことが分かる。ピタッと身体のラインに沿った細身のジーンズが、スタイルの良さを感じさせる。

「なにか本をお探しでしょうか?」

レジでは、副店長の御手洗(みたらし)杏子(あんこ)が対応していた。
御手洗はこの書店唯一の正社員で、十文字の右腕である。切れ長の瞳と銀縁のメガネが似合う細身の長身で、いつもキチっと仕事をする彼女を僕はロボットのようだと思うことがある。

「教科書を予約したのですが。“西洋・東洋美術史”と“色彩学”、それに“絵画空間論”だったとおもいます」

「はい、ではお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「花川(はなかわ)心(ここ)美(み)です」

「分かりました。少々お待ちください」御手洗がバックヤードに入ると、「花川心美」と名乗る少女が何気なく店内を見回す。そして、僕と目が合った。

「あれ、おにいさん」
心美にも見覚えがあったようだ。僕の顔を見るなり、すぐに反応した。

「橋の下にいた・・・」僕は再会におどろいていて、うまく言葉を繋げることができない。

「おにいさん、ここで働いているんだ」
心美は笑顔をみせる。

春になると綺麗な花が咲きほこることが自然なように、心美の笑顔もとても素直で自然な表情だった。つまり僕はその瞬間、とても魅力的な何かを目の前にいる女の子から感じていたということだ。

今朝のぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほどの変わりようだけれど。

「心美ちゃんじゃないか!」十文字の大きな声が、僕のうしろから飛ぶ。僕を押しのけて大股で心美に近づき、今にも抱きしめんばかりの様子である。
どうやら二人は顔見知りのようだ。

「あ、ヒデさんだ。ひさしぶり」

「ひっさしぶりだなあ、中学生のころに会ったのが最後じゃないか?いつ新潟から戻ってきたんだ」
 いやあ、メガネをかけてないから一瞬誰だか分からなかったよ!と十文字は言う。

「えへへ、大学でコンタクトデビューだよ。二週間くらい前にこっちに着いていたんだけど、挨拶にくるのおそくなってごめんなさい」と言って心美が深々と頭を下げる。

「そんなことは・・・気にしなくていいんだ。心美ちゃんが元気ならそれでいいさ!」十文字は一瞬、さみしそうな顔をして、そのあと気をとりなおしたように笑った。

「お待たせしました、花川心美様ですね」バックヤードから教科書を抱えた御手洗が出てくると、心美はカウンターの前に行き、財布をとりだした。

「もしかして心美ちゃん、こっちの美大に通うのか?」十文字は、御手洗がもってきた教科書を見て言う。御手洗は早く会計をすませたいのか、ちらっと十文字を見る。

「そうだよ、こないだ入学式だったの」

「それは楽しみだなあ」

「お母さんの絵に、早く追いつかないといけないからね」

「おおー、その意気だ!」

「あ、そうだ」
心美はなにかを思い出したかのように右手の人差し指をピンッと立てた。それは最初から聞くことを決めていたようにも僕には見えた。

「お母さんの絵って、誰にもあげたりしてないよね?」

「当たり前じゃないか、たとえ何千万と積まれてもあの絵は渡さんよ。もちろん、心美ちゃんが欲しいっていうなら別だけどな」

親しげではあるが、二人の会話はなにか事務的なものにも思えた。連絡事項の伝達、共通意識の確認、そんなところだろうか。

ありがとうございます、と元気よく頭を下げた彼女に十文字が優しく声をかける。明るく、笑顔で話しているはずの

二人の会話は、僕にはとてもさみしいものに思えた。

十文字が持っているという“絵”とはなんのことなのだろうか。

「重そうだし、なにか手提げ袋みたいなのあったら、入れてもらってもいいですか?」

「分かりました」
心美が言うと、御手洗は本をレジに通し手提げ袋に入れていく。会計をすませ、本の入った袋を心美に手渡す。

「ヒデさんまたね。それからおにいさんも」
本をうけとった心美は手を振り、左耳の髪をかき上げる。

去っていく彼女の小さな耳たぶにサファイアブルーの耳飾りが揺れて、僕はなぜだかその耳飾りから目が離せなかった。
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