38 / 56
ここがケツバット村
【黒鉄孝之(6)】
しおりを挟む
ただの思いつきの、まったくの無計画で逃げ出した孝之は、全力疾走で中庭を抜けると、その勢いのまま刀背打邸を後にした。どこかへ行くあてなどは無かったが、とにかく、孝之は走り続けた。
尻の痛みやケツバット村で起きた出来事も忘れ、ただ、真綾のことだけを、今日までのふたりの思い出だけが、もの凄いスピードで頭の中を過っては弾けて消えていく。
やがて孝之は、息を切らして足を止め、ハッと我に返る。
自分の脇を見てみれば、乱れた髪でこちらを見上げる無表情の飛鳥と目が合った。
「うわぁ?! ごめんね、飛鳥ちゃん……」
地面にそっと降ろしてから、飛鳥の髪型を手櫛でなんとか綺麗に整える。されるがままの飛鳥は、相変わらず表情を変えずにじっとしていた。
がむしゃらに走り続けた孝之は、どうやら旅館まで戻ってきていたようで、数寄門の前では火を放たれた車の残骸がまだわずかに燻っていた。
損傷が酷い車体の前面部が先ほどの死体と重なって見えてしまい、孝之は死そのものに追い詰められているような錯覚に陥ってしまう。
気分を変えようと、顔を上げる。
辺りの景色や空はすっかりと茜色に染まり、山の向こうの天高く広がる入道雲が、蜩の鳴き声に呼応してその内部を雷鳴と共に光らせている。おそらく、今夜は雨になるだろう。
「ねえねえ、おにいちゃん」
「んー? なんだい?」
手招きする飛鳥に笑顔を近づける孝之。
すると飛鳥は何やら耳打ちをして、それを終えてから可愛くにっこりと笑いかけた。
「えっ……」
話を訊いた孝之は、姿勢をゆっくりと正してから、刀背打邸があるはずの方角をじっと見つめる。
「だけど、飛鳥ちゃん──」
視線を戻すと、不思議なことに飛鳥の姿はどこかへ消えてしまっていた。
蜩が鳴き続ける。
悲しげなその鳴き声が、夏の終わりを予感させた。
孝之は額の汗をTシャツの袖口で拭い、天を仰ぎ見る。やがてすぐに、雨のにおいが風にのって首筋を撫でた。
*
孝之はフロント受付でマスターキーを見つけると、部屋へ戻って村を逃げ出すための準備を始める。もちろん、着替えなどは手に取らない。必要最小限で身軽に済ませる。
金庫の中の貴重品は無事だったが、使えていたはずのスマートフォンはなぜか圏外になっていて、警察に通報することができなかった。この様子だと、固定電話も期待ができないだろう。
そのまま1階の土産物売場へ向かい、水や食料を貪り食べる。
可能な限り、コンディションを万全の状態にするためには、なんの遠慮も躊躇いも感じる必要などはまったく無い。それらは余計な考えでしかなく、一時の迷いにすぎない。本能の赴くまま、目的に向かってがむしゃらに突き進めばよいのだと、ケツバット村での経験から学んだ。
やがて、瞬く間に商品を食い散らかした孝之は、トートバッグが掛けてあるポールハンガーを全力で蹴飛ばしてから旅館を後にした。
大通りに着く頃には風も強くなり、茜色の空もすっかりと夜の帳に侵食されて藍色へと変わりつつあった。そんな空の下で、連なる外灯が薄闇の先へと孝之を妖しく導く。
だが、不思議と緊張感も恐怖心もまったく感じられなかった。今の気持ちを例えるならば、まるで別人にでもなったような、安全な場所から自分自身を操っているような感覚がいちばん近いのかもしれない。
このケツバット村を生きて無事に真綾と脱出する。
それが全て。
最大の目的であり、揺るぎない決意だった。
強い夜風の中、辿り着いた坂道をたった1人で見上げるその勇姿は、まさに、囚われのヒロインを助けにきたヒーローそのものだ。
釘バットを両手で強く握り直した孝之は、精悍な顔つきで数回の素振りをすると、刀背打邸をめざして走りだす。
恐れなどもう微塵も無い。
むしろ、これまでの人生の中で、最高の興奮状態であるといえよう。
孝之の走る速度が、どこまでも加速する──
尻の痛みやケツバット村で起きた出来事も忘れ、ただ、真綾のことだけを、今日までのふたりの思い出だけが、もの凄いスピードで頭の中を過っては弾けて消えていく。
やがて孝之は、息を切らして足を止め、ハッと我に返る。
自分の脇を見てみれば、乱れた髪でこちらを見上げる無表情の飛鳥と目が合った。
「うわぁ?! ごめんね、飛鳥ちゃん……」
地面にそっと降ろしてから、飛鳥の髪型を手櫛でなんとか綺麗に整える。されるがままの飛鳥は、相変わらず表情を変えずにじっとしていた。
がむしゃらに走り続けた孝之は、どうやら旅館まで戻ってきていたようで、数寄門の前では火を放たれた車の残骸がまだわずかに燻っていた。
損傷が酷い車体の前面部が先ほどの死体と重なって見えてしまい、孝之は死そのものに追い詰められているような錯覚に陥ってしまう。
気分を変えようと、顔を上げる。
辺りの景色や空はすっかりと茜色に染まり、山の向こうの天高く広がる入道雲が、蜩の鳴き声に呼応してその内部を雷鳴と共に光らせている。おそらく、今夜は雨になるだろう。
「ねえねえ、おにいちゃん」
「んー? なんだい?」
手招きする飛鳥に笑顔を近づける孝之。
すると飛鳥は何やら耳打ちをして、それを終えてから可愛くにっこりと笑いかけた。
「えっ……」
話を訊いた孝之は、姿勢をゆっくりと正してから、刀背打邸があるはずの方角をじっと見つめる。
「だけど、飛鳥ちゃん──」
視線を戻すと、不思議なことに飛鳥の姿はどこかへ消えてしまっていた。
蜩が鳴き続ける。
悲しげなその鳴き声が、夏の終わりを予感させた。
孝之は額の汗をTシャツの袖口で拭い、天を仰ぎ見る。やがてすぐに、雨のにおいが風にのって首筋を撫でた。
*
孝之はフロント受付でマスターキーを見つけると、部屋へ戻って村を逃げ出すための準備を始める。もちろん、着替えなどは手に取らない。必要最小限で身軽に済ませる。
金庫の中の貴重品は無事だったが、使えていたはずのスマートフォンはなぜか圏外になっていて、警察に通報することができなかった。この様子だと、固定電話も期待ができないだろう。
そのまま1階の土産物売場へ向かい、水や食料を貪り食べる。
可能な限り、コンディションを万全の状態にするためには、なんの遠慮も躊躇いも感じる必要などはまったく無い。それらは余計な考えでしかなく、一時の迷いにすぎない。本能の赴くまま、目的に向かってがむしゃらに突き進めばよいのだと、ケツバット村での経験から学んだ。
やがて、瞬く間に商品を食い散らかした孝之は、トートバッグが掛けてあるポールハンガーを全力で蹴飛ばしてから旅館を後にした。
大通りに着く頃には風も強くなり、茜色の空もすっかりと夜の帳に侵食されて藍色へと変わりつつあった。そんな空の下で、連なる外灯が薄闇の先へと孝之を妖しく導く。
だが、不思議と緊張感も恐怖心もまったく感じられなかった。今の気持ちを例えるならば、まるで別人にでもなったような、安全な場所から自分自身を操っているような感覚がいちばん近いのかもしれない。
このケツバット村を生きて無事に真綾と脱出する。
それが全て。
最大の目的であり、揺るぎない決意だった。
強い夜風の中、辿り着いた坂道をたった1人で見上げるその勇姿は、まさに、囚われのヒロインを助けにきたヒーローそのものだ。
釘バットを両手で強く握り直した孝之は、精悍な顔つきで数回の素振りをすると、刀背打邸をめざして走りだす。
恐れなどもう微塵も無い。
むしろ、これまでの人生の中で、最高の興奮状態であるといえよう。
孝之の走る速度が、どこまでも加速する──
10
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
滅・百合カップルになれないと脱出できない部屋に閉じ込められたお話
黒巻雷鳴
ホラー
目覚めるとそこは、扉や窓のない完全な密室だった。顔も名前も知らない五人の女性たちは、当然ながら混乱状態に陥り──
あの悪夢は、いまだ終わらずに幾度となく繰り返され続けていた。
『この部屋からの脱出方法はただひとつ。キミたちが恋人同士になること』
疑念と裏切り、崩壊と破滅。
この部屋に神の救いなど存在しない。
そして、きょうもまた、狂乱の宴が始まろうとしていたのだが……
『さあ、隣人を愛すのだ』
生死を賭けた心理戦のなかで、真実の愛は育まれてカップルが誕生するのだろうか?
※この物語は、「百合カップルになれないと脱出できない部屋に閉じ込められたお話」の続編です。無断転載禁止。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熾ーおこりー
ようさん
ホラー
【第8回ホラー・ミステリー小説大賞参加予定作品(リライト)】
幕末一の剣客集団、新撰組。
疾風怒濤の時代、徳川幕府への忠誠を頑なに貫き時に鉄の掟の下同志の粛清も辞さない戦闘派治安組織として、倒幕派から庶民にまで恐れられた。
組織の転機となった初代局長・芹澤鴨暗殺事件を、原田左之助の視点で描く。
志と名誉のためなら死をも厭わず、やがて新政府軍との絶望的な戦争に飲み込まれていった彼らを蝕む闇とはーー
※史実をヒントにしたフィクション(心理ホラー)です
【登場人物】(ネタバレを含みます)
原田左之助(二三歳) 伊代松山藩出身で槍の名手。新撰組隊士(試衛館派)
芹澤鴨(三七歳) 新撰組筆頭局長。文武両道の北辰一刀流師範。刀を抜くまでもない戦闘の際には鉄製の軍扇を武器とする。水戸派のリーダー。
沖田総司(二一歳) 江戸出身。新撰組隊士の中では最年少だが剣の腕前は五本の指に入る(試衛館派)
山南敬助(二七歳) 仙台藩出身。土方と共に新撰組副長を務める。温厚な調整役(試衛館派)
土方歳三(二八歳)武州出身。新撰組副長。冷静沈着で自分にも他人にも厳しい。試衛館の弟子筆頭で一本気な男だが、策士の一面も(試衛館派)
近藤勇(二九歳) 新撰組局長。土方とは同郷。江戸に上り天然理心流の名門道場・試衛館を継ぐ。
井上源三郎(三四歳) 新撰組では一番年長の隊士。近藤とは先代の兄弟弟子にあたり、唯一の相談役でもある。
新見錦 芹沢の腹心。頭脳派で水戸派のブレインでもある
平山五郎 芹澤の腹心。直情的な男(水戸派)
平間(水戸派)
野口(水戸派)
(画像・速水御舟「炎舞」部分)

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる