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ここがケツバット村
【黒鉄孝之、浅尾真綾(1)】
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ふたりが抱き合ったまま、どれくらいの時間が過ぎたのであろう。
孝之はふと、藤木が見せてくれた麻美の写真を思い出す。
「そういえば真綾、麻美さんは? あの後、真綾を心配して旅館の中に──」
言葉の途中で真綾は孝之の身体から離れる。
先ほどの泣き顔とは違い、不機嫌そうな顔つきに変わっていた。
「なんなの? 孝之は、わたしよりもあの女が心配なわけ?」
先ほどまでとは別人のような真綾の態度に、孝之は困惑する。もうすっかりと涙は止まり、その目には何やら不穏な光が宿り始めてもいた。
「えっ、違うよ……そうじゃなくて」
「違わなくない! わたし、知ってるんだから。孝之が鼻の下を伸ばして、あの女と話してたの」
「それは誤解だって! ちょっと世間話をしていただけじゃないか!」
「フフッ、よっぽど楽しい世間話だったのね」
真綾の瞳に宿った光が、徐々にその明度を増していく。それは木漏れ日の仕業であろうが、蛇の眼の中にあるような妖しい光だった。
「真綾、どうしたんだよ急に? もしかして、そのことで怒っているのか?」
肩に触れようとする孝之の手を真綾は「さわらないで」と冷たく振り払い、ブナの原生林を1人で歩いてゆく。
孝之はかける言葉も見つけられず、真綾に続いて黙って歩くことしかできなかった。
*
あれから一言も口をきくことなく、いったいどこへ向かっているのか、真綾は黙々と森の中を進んでいた。
今のところは村人と出会す心配は無さそうだが、その代わり、遭難する可能性のほうが高まったように思える。不機嫌を理由に森をさまよっているのなら、速やかにやめるべきだ。
「真綾……そろそろ機嫌なおしてくれよ。このままじゃオレたち、遭難しちまうぜ」
「シッ! 誰かあそこにいる」
真綾が人差し指を唇にあててブナの木に隠れたので、孝之もそれにならって身を屈めて隠れる。
真綾の肩越しに、男の人影が見えた。その人物は、大きなブナの木の根本で身体をもたれてすわっていた。
「──藤木さん!」
人影の正体に気づいた孝之は、慌ててすぐに駆け寄る。近づいてみれば、藤木の白いYシャツには点々と血の痕がついており、息も絶え絶えに目を瞑って苦しんでいた。
「大丈夫ですか、藤木さん!? 藤木さん!」
孝之の大声に藤木はゆっくりと目を開けて微笑むが、その顔はひどく青白い。
「よかった……無事でしたか。わたしも、なんとか逃げきりましたが……ゴホッ……きのうからの無理がたたったのでしょうかね……もう駄目みたいです」
藤木が咳き込むたびに、口元に血の泡がいくつか現れては消える。それを拭うことなく、藤木は虚空をただぼんやりと見つめた。やがて藤木は真綾に気がつくと、ふたたび力なく笑った。
「真綾さんも無事でしたか……本当によかったですね、孝之君」
「ええ、麻美さんもきっと無事ですよ!」
孝之は藤木の弱々しい手を強く握り、なんとか元気づけようとする。一緒に村を逃げ出しましょうと、言葉にはしないで態度で示した。
「娘さんなら、死にました」
「えっ……?」
孝之は、うしろからの声に顔を上げる。
自分と藤木を見下ろして立つ、無表情の真綾と目が合った。
「…………死んだ? 麻美さんは死んだのか!?」
「ええ、そうよ。わたしを守って死んだの」
淡々と語るその目には、先ほど見せた不穏な光がふたたび宿っていた。
「そう……でしたか。不思議なもので、なんとなく感じていました。娘が──麻美がもう、この世に居無いと」
藤木は静かに瞼を閉じる。
身体をあずけた大きなブナの樹冠からわずかに射し込む太陽に照らされて、穏やかな彼の顔には滲む涙がきらめいていた。
「娘さんは立派でした。とても強い人。彼女とは、違うかたちで会いたかったです」
真綾はつぶやくようにそう告げて、藤木の傍らにしゃがみ込む。そして、ゆっくりと孝之が握る手の上に自分の手も添えた。
しかし、藤木は目を瞑ったままで、なんの反応もしなかった。
「藤木さん、しっかり! 藤木さんッ!」
軽トラックにトートバッグを置いて逃げたので、手元には飲み水も何も無い。念のため、ズボンのポケットを片手でまさぐるが、口元の血を拭ぐうハンカチやティッシュすら持っていなかった。
「ねえ、孝之。わたしが藤木さんを見ているから、何か探してきてよ」
「ああ、そうだな。藤木さん、すぐに戻ります」
眠る藤木を真綾に任せて、孝之はせめて水でもないかと、辺りを探索してみることにした。
孝之はふと、藤木が見せてくれた麻美の写真を思い出す。
「そういえば真綾、麻美さんは? あの後、真綾を心配して旅館の中に──」
言葉の途中で真綾は孝之の身体から離れる。
先ほどの泣き顔とは違い、不機嫌そうな顔つきに変わっていた。
「なんなの? 孝之は、わたしよりもあの女が心配なわけ?」
先ほどまでとは別人のような真綾の態度に、孝之は困惑する。もうすっかりと涙は止まり、その目には何やら不穏な光が宿り始めてもいた。
「えっ、違うよ……そうじゃなくて」
「違わなくない! わたし、知ってるんだから。孝之が鼻の下を伸ばして、あの女と話してたの」
「それは誤解だって! ちょっと世間話をしていただけじゃないか!」
「フフッ、よっぽど楽しい世間話だったのね」
真綾の瞳に宿った光が、徐々にその明度を増していく。それは木漏れ日の仕業であろうが、蛇の眼の中にあるような妖しい光だった。
「真綾、どうしたんだよ急に? もしかして、そのことで怒っているのか?」
肩に触れようとする孝之の手を真綾は「さわらないで」と冷たく振り払い、ブナの原生林を1人で歩いてゆく。
孝之はかける言葉も見つけられず、真綾に続いて黙って歩くことしかできなかった。
*
あれから一言も口をきくことなく、いったいどこへ向かっているのか、真綾は黙々と森の中を進んでいた。
今のところは村人と出会す心配は無さそうだが、その代わり、遭難する可能性のほうが高まったように思える。不機嫌を理由に森をさまよっているのなら、速やかにやめるべきだ。
「真綾……そろそろ機嫌なおしてくれよ。このままじゃオレたち、遭難しちまうぜ」
「シッ! 誰かあそこにいる」
真綾が人差し指を唇にあててブナの木に隠れたので、孝之もそれにならって身を屈めて隠れる。
真綾の肩越しに、男の人影が見えた。その人物は、大きなブナの木の根本で身体をもたれてすわっていた。
「──藤木さん!」
人影の正体に気づいた孝之は、慌ててすぐに駆け寄る。近づいてみれば、藤木の白いYシャツには点々と血の痕がついており、息も絶え絶えに目を瞑って苦しんでいた。
「大丈夫ですか、藤木さん!? 藤木さん!」
孝之の大声に藤木はゆっくりと目を開けて微笑むが、その顔はひどく青白い。
「よかった……無事でしたか。わたしも、なんとか逃げきりましたが……ゴホッ……きのうからの無理がたたったのでしょうかね……もう駄目みたいです」
藤木が咳き込むたびに、口元に血の泡がいくつか現れては消える。それを拭うことなく、藤木は虚空をただぼんやりと見つめた。やがて藤木は真綾に気がつくと、ふたたび力なく笑った。
「真綾さんも無事でしたか……本当によかったですね、孝之君」
「ええ、麻美さんもきっと無事ですよ!」
孝之は藤木の弱々しい手を強く握り、なんとか元気づけようとする。一緒に村を逃げ出しましょうと、言葉にはしないで態度で示した。
「娘さんなら、死にました」
「えっ……?」
孝之は、うしろからの声に顔を上げる。
自分と藤木を見下ろして立つ、無表情の真綾と目が合った。
「…………死んだ? 麻美さんは死んだのか!?」
「ええ、そうよ。わたしを守って死んだの」
淡々と語るその目には、先ほど見せた不穏な光がふたたび宿っていた。
「そう……でしたか。不思議なもので、なんとなく感じていました。娘が──麻美がもう、この世に居無いと」
藤木は静かに瞼を閉じる。
身体をあずけた大きなブナの樹冠からわずかに射し込む太陽に照らされて、穏やかな彼の顔には滲む涙がきらめいていた。
「娘さんは立派でした。とても強い人。彼女とは、違うかたちで会いたかったです」
真綾はつぶやくようにそう告げて、藤木の傍らにしゃがみ込む。そして、ゆっくりと孝之が握る手の上に自分の手も添えた。
しかし、藤木は目を瞑ったままで、なんの反応もしなかった。
「藤木さん、しっかり! 藤木さんッ!」
軽トラックにトートバッグを置いて逃げたので、手元には飲み水も何も無い。念のため、ズボンのポケットを片手でまさぐるが、口元の血を拭ぐうハンカチやティッシュすら持っていなかった。
「ねえ、孝之。わたしが藤木さんを見ているから、何か探してきてよ」
「ああ、そうだな。藤木さん、すぐに戻ります」
眠る藤木を真綾に任せて、孝之はせめて水でもないかと、辺りを探索してみることにした。
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