1 / 1
海をまとう
しおりを挟む
わたしは、夜の海がきらいだ。
黒い世界から聞こえてくる潮騒が、死への恐怖にとてもよく似ているから。
そっと瞼をとじて、冬の汐風を全身に浴びる。
何度もリフレインする波の音。やがて、わたしの意識は肉体から解放され、浮遊し、海神に誘われるまま吸い寄せられてゆく。
ふと、漂いながら夜空を仰いだ。綺羅星にみえるのは、すべて人工衛星だろうか。そう考えると、あの輝きのひとつひとつが、どこか虚しく思えてしまう。
穏やかな波の連続。ゆるやかにくり返される浸食は、とうとう無防備なわたしの足もとにまで届いた。
奪われる体温──砂に沈む冷えきった爪先。不思議と、そんな感覚が心地よかった。
わたしは、うねりに向かって歩きだす。じゃぶじゃぶと音をたてて平穏が壊されてゆく。
暗闇のなか、遠くに見える水平線が溶けては揺れて、揺れてはまた、溶ける。
いつの間にか滲んだ視界には、波の花が乱れ咲いた。
酸素はもう必要ない。両手をひろげ、今度は強く瞼をとじる。
感覚は失われてゆくのに、記憶だけは鮮明によみがえってきていた。
大きな校舎、舞い散る桜の花びら、学生服の駆けるうしろ姿、白い入道雲、濡羽色の長い髪、陽に透ける椛、級友たちの笑い声──。
そこで、わたしの身体は浮上する。
水面を勢いよく突き破るのと同時に、海水と涙がまじりあって滴り落ちる。
潤む瞳に映ったのは、星のまたたきと旋回する光の帯。それはとても綺麗で、美しい景色だった。ふるえる唇を噛めば、生を実感した。ああ、そうだったのかと、この時になってはじめて理解する。
わたしは、何もしてこなかっただけ。あの狭い教室の片隅で、手のひらで顔を、耳を、覆い隠してうずくまっていただけだ。それはまるで、糸の切れた操り人形──制服を着た、壊れた人形に成り果てていた。
そんな自分は間違った存在だと気づいても、わたしは動かなかった。何もしなかった。変わることを恐れていた。弱者のままでいいと望んでしまっていた。
凍える頰に熱い涙があふれてくるのがわかる。
わたしは、泣いた。泣いていた。今までとは違う泣き方で。
解き放たれた感情はうねりとなって大きく膨らみ、はじけて雨のように降りそそぐ。
わたしは生きたい、強くなりたい。
誰に倣うやり方ではなくて、ただ、がむしゃらにもがいて、強く生きたい。生きたいんだ。
そう教えてくれたのは、わたしがきらいな夜の海。
「ありがとう」の叫び声は、潮騒にさらわれて、暗い沖へと消えていった。
黒い世界から聞こえてくる潮騒が、死への恐怖にとてもよく似ているから。
そっと瞼をとじて、冬の汐風を全身に浴びる。
何度もリフレインする波の音。やがて、わたしの意識は肉体から解放され、浮遊し、海神に誘われるまま吸い寄せられてゆく。
ふと、漂いながら夜空を仰いだ。綺羅星にみえるのは、すべて人工衛星だろうか。そう考えると、あの輝きのひとつひとつが、どこか虚しく思えてしまう。
穏やかな波の連続。ゆるやかにくり返される浸食は、とうとう無防備なわたしの足もとにまで届いた。
奪われる体温──砂に沈む冷えきった爪先。不思議と、そんな感覚が心地よかった。
わたしは、うねりに向かって歩きだす。じゃぶじゃぶと音をたてて平穏が壊されてゆく。
暗闇のなか、遠くに見える水平線が溶けては揺れて、揺れてはまた、溶ける。
いつの間にか滲んだ視界には、波の花が乱れ咲いた。
酸素はもう必要ない。両手をひろげ、今度は強く瞼をとじる。
感覚は失われてゆくのに、記憶だけは鮮明によみがえってきていた。
大きな校舎、舞い散る桜の花びら、学生服の駆けるうしろ姿、白い入道雲、濡羽色の長い髪、陽に透ける椛、級友たちの笑い声──。
そこで、わたしの身体は浮上する。
水面を勢いよく突き破るのと同時に、海水と涙がまじりあって滴り落ちる。
潤む瞳に映ったのは、星のまたたきと旋回する光の帯。それはとても綺麗で、美しい景色だった。ふるえる唇を噛めば、生を実感した。ああ、そうだったのかと、この時になってはじめて理解する。
わたしは、何もしてこなかっただけ。あの狭い教室の片隅で、手のひらで顔を、耳を、覆い隠してうずくまっていただけだ。それはまるで、糸の切れた操り人形──制服を着た、壊れた人形に成り果てていた。
そんな自分は間違った存在だと気づいても、わたしは動かなかった。何もしなかった。変わることを恐れていた。弱者のままでいいと望んでしまっていた。
凍える頰に熱い涙があふれてくるのがわかる。
わたしは、泣いた。泣いていた。今までとは違う泣き方で。
解き放たれた感情はうねりとなって大きく膨らみ、はじけて雨のように降りそそぐ。
わたしは生きたい、強くなりたい。
誰に倣うやり方ではなくて、ただ、がむしゃらにもがいて、強く生きたい。生きたいんだ。
そう教えてくれたのは、わたしがきらいな夜の海。
「ありがとう」の叫び声は、潮騒にさらわれて、暗い沖へと消えていった。
10
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


異世界もざまぁもなかった頃、わたしは彼女に恋をした~リラの精を愛したマンガ三昧の日々~
松本尚生
現代文学
「いいな、そういうしっとりした話。繊細で美しい」
生きててよかった。マンガを描いてて、よかった。
そう思って涙した少女の暢子は、綾乃とふたりだけの繭の中にいる。リラの香る繭の中に。
繭の中だけが世界だった。
ふたりの共同作業が始まった。部活を切り上げ寮の部屋へこっそり移動する。カギをかけた寮の一室で、ふたりは黙って原稿用紙に向かった。
まだ何ものにもならない、性別すら同定されない無性の生きものがひしめいていた。生意気ざかりの、背伸びしたがりの、愛らしい少女たち。
1990年、高校生だった暢子は、リラの林を越えてやってきた綾乃の共犯者となる道を選ぶ。
それから20年後の2010年、ふたりは「ノブさん」と「センセイ」になって――。
今回は女性の話です。
まだアナログだった時代のマンガ制作の様子もお楽しみください。


人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

壊れそうで壊れない
有沢真尋
現代文学
高校生の澪は、母親が亡くなって以来、長らくシングルだった父から恋人とその娘を紹介される。
しかしその顔合わせの前に、「娘は昔から、お姉さんが欲しいと言っていて」と、あるお願い事をされていて……?
第5回ほっこりじんわり大賞「奨励賞」受賞
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる