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第一章

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 御者は慌てて馬を走らせ、テオはこそっとイーサンに言った。

「せめて変装くらいすればよかったのでは? ファスティアン・ジャケットくらい用意できたでしょう?」
「僕にあんな厚くて重い綿ビロードを着ろと言うのか? 大体僕はあの町に溶けこみたいわけじゃない。あくまで社会勉強に行くんだ」
「ですが不必要な注目を浴びることになりますよ」
「何も後ろ暗いことなどないのだから、堂々と町を闊歩すればいい」

 この妙な勇気というか、自信、自負心のようなものは一体どこから来るのだろう。テオは眉根を寄せ、気掛かりを隠さずに言った。

「あのあたりは、本物の無法地帯です。大量の移民がひしめいていて、流血沙汰のけんかも日常茶飯事ですよ。自衛するのは当然だと思いますけど」
「本当に怖いのは暴行や暴力じゃなく、疫病のほうだろう? 異国の習慣で家族の亡骸を家に置く連中もいるらしいからな。それを子どもがおもちゃにして、また死体が増えるという悪循環だ」

 確かにイーストエンドの衛生状態は最悪だ。
 子どもの半数以上が五歳になる前に死んでしまうのも、糞尿、生ゴミ、犬や猫の死体で溢れた、地域一帯がゴミ捨て場のような町だからだろう。

「そこまでわかっていて、わざわざ行く理由がありますか?」
「美しいものだけに囲まれて、生涯を終えられるわけではないしな」

 イーサンのわざとらしい微笑は、テオを一層不安にさせた。自分で自分を嘲り、大事なものなど何もないと言わんばかりだったからだ。

 グランチェスター侯がどれほど資産を失ったかしらないが、今でもイーサンは上流階級の御曹司だ。テオより遙かに多くのものを持っているはずなのに。

「どうしてそんなに、自暴自棄なんです?」

 イーサンはゆっくりと瞬きをしてから、軽く首をかしげた。

「……そう、見えるか?」
「えぇ。もっとご自分を大切になさってください。あなたはいずれ、グランチェスター侯になる方なんですよ」

 テオの言葉に、イーサンが動じた様子はなかった。こんなことはもう何度だって、言われてきたのだろう。ちらりとウォルターを見ると、眉尻を下げて困ったような顔をしている。

「僕は変わりたいんだよ」

 イーサンは座席にもたれ、無表情で続けた。

「世の中の悪意や邪念に疎く、詐取に近い形で資産を失っても、なんら頓着しない鈍感な人間になるのが怖いんだ」

 もしかしてイーサンは、失われた金のことも、今後の自分の生活も、本心ではどうでもいいのかもしれない。
 ただ絶望しているのだ。
 無知ゆえに利用され、欺されていることにすら気がつかない自分の父親に。

「でしたらイーストエンドは、社会勉強にぴったりかもしれませんね。この世の悪を、煮詰めたような場所ですから」

 テオが諦めたがわかったのだろう。イーサンは嬉しそうな笑顔を見せて言った。

「先生は話のわかる人だと思っていたよ」
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