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第一章

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 大急ぎで朝食を終え自室に戻ったテオは、フロックコートを着て、シルクハットとステッキを手に持ったものの、なかなか外には出られなかった。

 イーストエンドに行くなんて、やはりどうかしている。今からでも止めるべきだと思うが、イーサンの固い決意を前にしては、説得のしようもなかった。

「カビの生えた学問、か……」

 テオは口の悪いイーサンの台詞を思い出し、ついフフッと笑ってしまう。
 神学や哲学などの人文科学は、今でもパブリックスクールの教育の中心だ。自然科学は教えられていても、古典科目より下に見られている。グランチェスター侯の考え方のほうが、明らかに世間ではスタンダードだった。

 イーサンはパブリックスクールに通わなかったから、自然科学に偏見を持っていないのだろう。産業が活発になり、めまぐるしく発達する世の中を見て、純粋にフラットな視線で、科学という学問に可能性を感じているのだ。

  アッパークラスの若者が、そういう価値観を持っていることは素直に嬉しい。パブリックスクール時代は自然科学を熱心に学ぶ者は軽んじられ、それを教える教師でさえ不遇な扱いを受けていたからだ。

 イーサンはテオの知る、貴族階級とは違うのかもしれない。
 一番最初に、家庭教師の話を聞いたときは断るつもりだった。金持ちのボンボンを教えるなんて、つまらない仕事だと思ったからだ。気が変わったのは破格の年俸と年金、そしてグランド・ツアーだった。

 父親は出自を恨み、世間に絶望して、アルコール依存症になって死んだ。いつか日本に行って、祖父に復讐してやるというのが口癖だった。テオが代わりに、というつもりはないが、溜飲が下がればいいと思っただけだ。

 テオはこれまで、生粋の英国人でない自分に引け目を感じてきた。一見日本人には見えなかったから、表だって迫害されるようなことはなかったけれど、ずっと周囲に嘘をついているような気がしていたのだ。

 正直に話をしたのはイーサンだけ。しかも彼はそんなテオを受け入れてくれた(年俸は半額になった上、衣食住の待遇は期待以下だが……)。

 イーストエンド行きには気が進まないけれど、教師として生徒の自主性を尊重することも時には大事だろう。イーサンが危惧するように、事実彼が世間へ出て働くことになるならならば、最底辺の生活というものを知るのも勉強になるかもしれない。

 などと言ったところで、自分を納得させる材料を探しているだけだとわかっている。恐らくイーサンの気持ちが変わることはないし、彼を翻意させる手立てもないのだから。

「まぁ、退屈することはなさそうだ」

 テオは独り言を言って、シルクハットを被った。部屋を出て玄関に向かうと、イーサンが険しい顔でこちらを見ている。

「全く君は、鈍重というかのろまというか。さっさと行動に移れないのか?」
「すみません」

 すかさず謝ると、イーサンは玄関の扉を開けた。ウォルターは首尾良く辻馬車を拾っており、三人は固い座席に乗り込む。

「ベルナスグリーンまで」

 イーサンが行き先を告げると、御者はギョッとして手綱を放しそうになった。

「なんのご用で?」

 三人の身なりが良かったせいだろう。ベルナスグリーンはイーストエンドの中でも東に位置する、特に貧しい地域だ。上流階級の人間がわざわざ行くところではない。

「早く出発したまえ」
「は、はい」
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