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第一章
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イーサンが立ち上がると、いつからそこに居たのか、ウォルターがさっとフロックコートを主人に着せた。頭にはシルクハットを載せ、手にはステッキを持たせる。
「ちょ、本気ですか」
「早く朝食を終えて、支度したまえ。おいていくぞ」
「待ってください、そんなこと許すわけにはまいりません。今日はローマの古典を」
「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」
不意打ちを食らったように、テオは黙り込んだ。しばらくにらみ合った後、彼は観念して口を開く。
「アリストテレス、ですか?」
「ご名答。さすが僕の先生だ」
イーサンがパチパチと手を叩いた。テオを馬鹿にする意図などないのだろうが、自分にはそもそも教師など必要ないのだと言わんばかりだ。
「イーストエンドにさえ、学ぶべきことはあると?」
「老年になってからでは遅い。学ぶことは走るのよりもっとだめになるだろうからね」
「今度はプラトンですか。ソロンは『つねに多くのことを学びつつ、私は年をとる』と言いましたよ」
満足そうな微笑みを浮かべ、イーサンは腰に手を当てて言った。
「どちらが正しいかは、各々が決めればいいことだ。僕は初日から君を、お役御免にはしたくない、わかるね?」
これは脅しなのだろう。しかしテオの雇い主はあくまで、グランチェスター侯だ。ここで簡単に屈するわけにはいかない。
「私は許可できません」
教師らしく、できるだけ威厳を保って言い、ウォルターのほうを向いて付け加える。
「というかウォルターさんも止めてくださいよ」
「わたくしは旦那様の仰せのままに、行動するのみでございます」
「その旦那様が、危険な目にあってもいいのですか?」
質問が終わるか終わらないかのうちに、ウォルターの高速で鋭いパンチが眼前で止まった。その衝撃で前髪がふわりと浮き、テオはその場に尻餅をつく。
「ハハハ、なんて顔だ」
絶句したテオを見て、イーサンは楽しそうに笑い出す。
「いや、だって」
「ウォルターはね、バーティツの使い手なんだ。君も日本人の血が流れているなら知っているだろう?」
聞いたことはある。日本の柔術に、様々な武術を組み合わせた護身術だ。ウォルターの拳は見えなかったから、相当の手練れなのは間違いない。
「大変失礼致しました。旦那様に危機が及びましたら、わたくしが命に代えてもお守りする所存でございます」
頭を下げる壮年のウォルターは、いつものように穏やかだった。従順で忠実、形の良い口ひげを蓄え、一瞬の殺気は完全に消え失せている。
「僕もウォルターから指導を受け、多少の心得はある。悪漢に襲われても、君よりは無事でいられると思うよ」
イーサンが差し出してくれた手を掴み、テオは立ち上がった。これではどちらが教師かわからない。
「どうしてそんなに、イーストエンドに行きたいんです?」
情けなさと恥ずかしさで、顔も上げられないままテオは尋ねた。イーサンは事もなげに答える。
「視察だよ。自分もいずれは、そちら側に行くかもしれない」
「まさか」
ありえないと続けかけたが、イーサンの薄い笑みを見ると言葉が出ない。
「おそらく父は、労働を知らないまま死ねるだろう。僕はそうはいかない。生きるために何ができるか、知っておきたいんだ」
将来に備えたいというのは、誰しもが思うことだ。テオだって明日のパンの心配はしないが、二〇年後のパンの心配はしている。老後不安というやつだ。
しかしイーサンの恐れは、度が過ぎている。あまりにも恵まれた、何不自由ない生活が彼にいらぬ恐怖を植え付けているのかもしれない。
「なんでもかんでも、知ればいいというものではありません。教養があれば、それなりの仕事に就けます。そのために私が居るんですから」
「君の言う教養とは、ギリシャやラテンの古典研究のことだろう? そんなカビの生えた学問が、現代社会で役に立つとでも?」
「それは」
「君も知っての通り、父は頭が固い。未だに実学を軽んじて、刻苦勉励を白い目で眺めている。同年代の子どもとの交流は悪い影響を受けると言って、僕がパブリック・スクールに通うことすら許さなかったんだぞ?」
社会生活を知らないからこそ、イーサンは危機感を募らせているのだろう。自分が籠の中の鳥だとよく知っているのだ。
「グランチェスター侯のお考えは私も存じていますが、私はあくまでイーサンの先生です。お望みであれば、数学や物理をお教えすることだって」
「君が優秀であることを疑ってはいないよ。しかしこの部屋から一歩も出ないまま、自分の食い扶持を自分で稼げる、真っ当な大人になれるのか?」
イーサンに詰め寄られて、テオは自信を持って「はい」とは言えなかった。世間を渡り歩くのに必要な経験は、やはり学問だけではないとわかっていたからだ。
「だとしても、私に許可は出せません」
「安心したまえ。君の許可など、最初から問題ではないよ。もう何度も行っているのだからね」
「なっ」
固まってしまったテオを見て、イーサンは愉快そうに口角を上げた。
「日本がどんなところか知らないが、治安はイーストエンドと大差ないかもしれん。予行演習にはちょうどいいと思わないか?」
テオはどう答えたらいいのかわからず、イーサンの前で立ち尽くしていた。
「ちょ、本気ですか」
「早く朝食を終えて、支度したまえ。おいていくぞ」
「待ってください、そんなこと許すわけにはまいりません。今日はローマの古典を」
「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」
不意打ちを食らったように、テオは黙り込んだ。しばらくにらみ合った後、彼は観念して口を開く。
「アリストテレス、ですか?」
「ご名答。さすが僕の先生だ」
イーサンがパチパチと手を叩いた。テオを馬鹿にする意図などないのだろうが、自分にはそもそも教師など必要ないのだと言わんばかりだ。
「イーストエンドにさえ、学ぶべきことはあると?」
「老年になってからでは遅い。学ぶことは走るのよりもっとだめになるだろうからね」
「今度はプラトンですか。ソロンは『つねに多くのことを学びつつ、私は年をとる』と言いましたよ」
満足そうな微笑みを浮かべ、イーサンは腰に手を当てて言った。
「どちらが正しいかは、各々が決めればいいことだ。僕は初日から君を、お役御免にはしたくない、わかるね?」
これは脅しなのだろう。しかしテオの雇い主はあくまで、グランチェスター侯だ。ここで簡単に屈するわけにはいかない。
「私は許可できません」
教師らしく、できるだけ威厳を保って言い、ウォルターのほうを向いて付け加える。
「というかウォルターさんも止めてくださいよ」
「わたくしは旦那様の仰せのままに、行動するのみでございます」
「その旦那様が、危険な目にあってもいいのですか?」
質問が終わるか終わらないかのうちに、ウォルターの高速で鋭いパンチが眼前で止まった。その衝撃で前髪がふわりと浮き、テオはその場に尻餅をつく。
「ハハハ、なんて顔だ」
絶句したテオを見て、イーサンは楽しそうに笑い出す。
「いや、だって」
「ウォルターはね、バーティツの使い手なんだ。君も日本人の血が流れているなら知っているだろう?」
聞いたことはある。日本の柔術に、様々な武術を組み合わせた護身術だ。ウォルターの拳は見えなかったから、相当の手練れなのは間違いない。
「大変失礼致しました。旦那様に危機が及びましたら、わたくしが命に代えてもお守りする所存でございます」
頭を下げる壮年のウォルターは、いつものように穏やかだった。従順で忠実、形の良い口ひげを蓄え、一瞬の殺気は完全に消え失せている。
「僕もウォルターから指導を受け、多少の心得はある。悪漢に襲われても、君よりは無事でいられると思うよ」
イーサンが差し出してくれた手を掴み、テオは立ち上がった。これではどちらが教師かわからない。
「どうしてそんなに、イーストエンドに行きたいんです?」
情けなさと恥ずかしさで、顔も上げられないままテオは尋ねた。イーサンは事もなげに答える。
「視察だよ。自分もいずれは、そちら側に行くかもしれない」
「まさか」
ありえないと続けかけたが、イーサンの薄い笑みを見ると言葉が出ない。
「おそらく父は、労働を知らないまま死ねるだろう。僕はそうはいかない。生きるために何ができるか、知っておきたいんだ」
将来に備えたいというのは、誰しもが思うことだ。テオだって明日のパンの心配はしないが、二〇年後のパンの心配はしている。老後不安というやつだ。
しかしイーサンの恐れは、度が過ぎている。あまりにも恵まれた、何不自由ない生活が彼にいらぬ恐怖を植え付けているのかもしれない。
「なんでもかんでも、知ればいいというものではありません。教養があれば、それなりの仕事に就けます。そのために私が居るんですから」
「君の言う教養とは、ギリシャやラテンの古典研究のことだろう? そんなカビの生えた学問が、現代社会で役に立つとでも?」
「それは」
「君も知っての通り、父は頭が固い。未だに実学を軽んじて、刻苦勉励を白い目で眺めている。同年代の子どもとの交流は悪い影響を受けると言って、僕がパブリック・スクールに通うことすら許さなかったんだぞ?」
社会生活を知らないからこそ、イーサンは危機感を募らせているのだろう。自分が籠の中の鳥だとよく知っているのだ。
「グランチェスター侯のお考えは私も存じていますが、私はあくまでイーサンの先生です。お望みであれば、数学や物理をお教えすることだって」
「君が優秀であることを疑ってはいないよ。しかしこの部屋から一歩も出ないまま、自分の食い扶持を自分で稼げる、真っ当な大人になれるのか?」
イーサンに詰め寄られて、テオは自信を持って「はい」とは言えなかった。世間を渡り歩くのに必要な経験は、やはり学問だけではないとわかっていたからだ。
「だとしても、私に許可は出せません」
「安心したまえ。君の許可など、最初から問題ではないよ。もう何度も行っているのだからね」
「なっ」
固まってしまったテオを見て、イーサンは愉快そうに口角を上げた。
「日本がどんなところか知らないが、治安はイーストエンドと大差ないかもしれん。予行演習にはちょうどいいと思わないか?」
テオはどう答えたらいいのかわからず、イーサンの前で立ち尽くしていた。
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