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いつかきっと。
しおりを挟む『行ってらっしゃい』
「はい、行ってきます」
微笑んだ顔で手を振る彼女に見送られて、僕は家を出た。一戸建て、といってもそこまで大きなものではなく、僕と彼女が住む分に申し分ないだけの家を後にして、僕は真っ直ぐに続く道を進む。
まだ肌寒い空気が残りながらも、道端に咲く花々が春の訪れを告げているように感じる。
「はぁー・・・・・・・・・」
冷たくなった手に息を吹きかければ、ほんのりと薄い白の吐息が空に浮かんで消えた。今日は、全国的に良好の気象になるらしい。
最寄の駅へと入り、僕は目的となる会場へと向かう。
――バックの中には、一枚の紙が入っている。
『成人式の招待状』
そう書かれた紙は綺麗に折り畳まれ、これからの人生を応援するかのように揺れていた。
◇◆◇
懐かしき友と会うたび、懐かしき声と懐かしき姿を見るたびに、僕の心はどこかへといなくなってしまった。
ただぼーっとする僕に、声を掛ける人も居なかった。
いや、もしかしたら気遣ってくれたのかもしれないけど、それがどこか僕には辛かった。
一緒に来れなくて、隣にはいない彼女の事を考えていると、古い記憶が蘇ってきた。
◇◆◇
「ほら、起きてください」
「・・・・・~~、ふぁー?」
夢の世界に旅立った彼女の体を揺らしながら声を掛けると、暫くの静寂の後に小さな声が漏れた。可愛い。
寝惚け眼なのか、しきりに目をこすりながら彼女はベットから上半身を起こして僕を見た。
――沈黙。数瞬の後だった。
「おはようっ!」
「……おはようございます。さっきまでの眠気は取れましたか?」
「うん!ありがとう~」
嬉しそうに、彼女は言った。
「そうですか、なら良かった。次からは自分で起きれますね?」
「えっ……」
「え?」
「…………」
「…………」
今度の沈黙は、互いが絶句したことによるものだった。といっても、僕の方が明らかに正当性のある絶句だと思う。まずは、状況を説明しよう。
彼女は僕と同じ家に住んでいる。いわゆる同棲している訳なのだけれど、彼女は朝に極端に弱い。
起こさなければ昼時に起きるくらいには遅い。そんな彼女が昨夜、提案してきたのだ。眠そうにしながら。
『明日の朝、私を起こしてくれないかな?』
僕は、それにしっかりと答えた。
『良いですよ。でも、明日だけにしてくださいね』
そう、確かに言った。だから僕は悪くない。
……ちょっと待ってくれ? 何で僕が悪くなる? 『同棲とか死ねよリア充』? 『彼女の部屋に公に入れるのに入らないとかありえない』?
――言い訳するくらいの猶予はあるだろう?
先に言うが、僕に恋愛経験なんて無い。彼女どころか、恋をしたことすら人生で1度くらいしかない。それも今だ。
そんな僕に、彼女の部屋に毎日入れ? しかも起こしに? 君達が何を勘違いしてるのかは分からないけど、断言しよう。
――ヘタレの僕にそれは無理。
閑話休題。
「僕は昨日しっかりと言いました。ですからもう無理です」
「お願いだよー。私は君が居ないと生きていけないの~」
僕の腕を抱きしめながら、彼女は告げる。けど、僕は知っている。彼女の声がまだ眠そうだ、ということを。
寝惚けた状態だからか、彼女は自分で変なことを言っている自覚が無いのだろう。これは、起こすの自体が失敗だったかもしれない。
そんな事を考えながら僕は、彼女の視線から耐えていた。それから、何とは言わないけど当たってる。女性特有の膨らみの柔らかさと彼女の大きさに僕は驚きが隠せません。
それと、僕の僕も元気になってしまうので宜しく無いです。
「はいはい。それじゃあ、まずは朝ごはんにしましょう?」
「・・・・・・・・や!」
「子供じゃないでしょう?」
「・・・・・・・・やぁあ!」
「・・・・・」
まるで、僕が親になった気分だ。拗ねてるのか……いや違った。彼女の顔を見れば真っ赤に染まっている。それが比喩的表現でないからこそ証拠になる。
僕も、今まではトマトみたい真っ赤、なんて信じなかったけど彼女と触れ合ってからそれは変わった。
彼女はありえないくらいに真っ赤になる。それもまた可愛らしいから僕は大好きだけど、本人曰く恥ずかしいらしい。可愛い理由だと思う。
「まず第一に、君は仕事があるでしょう? 幾ら家で出来るからって、それを疎かにしてはいけませんよ」
彼女は僕よりも1つ年上で、既に社会人である。勿論働いていて、それが小説家なのだから驚きだ。今までの会話から小説家らしき言葉は何1つない。
けれど、彼女はその仕事で僕も一緒に養う金額を収入としていて、今一番の注目を浴びているのも彼女だ。
「だって、君が甘えさせてくれないんだもん」
「僕だって君ともっと一緒に居たいですよ?」
「なら、一緒に寝よ!」
「無理です」
それとこれとは話が別だ。僕が断ると、彼女はリスのように頬を膨らませて睨んで来る。可愛過ぎて昇天しそうだからやめてほしい。
彼女は視線だけで僕を天国へと送れる力を持っているらしい。今気付いた。
「僕は家事をして、君が仕事をする。それが僕達が最も幸せになれるための対価ですよ」
僕の意見は正論であるし、彼女もそれを理解している。けれど、今の彼女は小さな子供みたいな思考をしている。
膨らませた頬を一気に開放して、彼女は言った。
「君は家事をするのが仕事で、私は君に甘えるのが仕事。それこそが最も幸せな対価よ」
「はぁ・・・・・・」と僕は溜息を吐いて、彼女の瞳を見つめた。いつまでも僕の隣に居てくれる、最愛の彼女。でも、公私を分けるのは大人としての義務だ。
「起きたらすぐ出ていきますよ?」
「・・・・・・・・・・・!うんっ!」
――そう、今の彼女は子供なのだ。
そう言い聞かせながら、僕はまた、彼女の言い分を飲んだ。それが毎日だけど、きっとそれが僕の望んだ理想。
今の生活こそが、僕の選んだ人生なんだから、胸を張って生きたいと思う。
◆◇◆
帰宅ラッシュに巻き込まれるようにしてモミクチャにされてから、僕はいらない物のようにポイとホームへと投げ出された。どうやら僕の降りる駅までは何とか耐えられていたようで、そこには見知った駅名が載っていた。
「さて、帰りますか」
左手にはお土産を持っている。これを彼女に渡して、喜んでくれると嬉しい。
でも、まあ―――
「何て言えば良いんでしょうね?」
彼女になんて言って渡せば良いのかが分からない。僕の悪い癖だ。どうにかして彼女を喜ばせようとしてるのに、空回りしてしまう。
それに加えて僕は言葉選びが致命的に悪いという。
『日常生活では露見しないだろう。けれど君の奥まで入り込んだ人には致命的なまでの間違った言葉を送っている。』
そう言った博識の彼の顔は、もう忘れてしまった。今日という場に居なかったのだからきっと、彼はどこかで大事な事を見つけたんだと思う。
酷く目立つ性格をしていたはずなのに、6年という月日は全てを消し去ってしまった。
ただ、その言葉は僕に強く刻まれ、そしてそれが治っていないことを僕は知っている。
――頑張らないとな……。
暗く沈みきった夜空で、月を見上げて僕はそう呟いた。彼女を選んだ人生に、胸を張ると約束したんだから。
見れば、息が白く宙に舞っている。
どうやら、気温が低くなっているようだった。首元に巻かれたマフラーを手で触り、僕はその温もりに助けられていることを知った。
一昨年の冬の事だ。僕が寒くなった手に息を吹きかける――そう、正に今のような状況で家に帰った時だ。
―「はい、頑張って作ったんだよ~」
優しい笑顔を浮かべながら、彼女はそう言ってこのマフラーを手渡してきた。よく見れば途中に解れがあったり、長さが微妙に長かった。
―「腰近くまで伸びるマフラーを首に巻くみたいだね」
そう、彼女は申し訳無さそうに言っていたのを覚えている。当時は今よりももっと言葉選びが悪く、僕は思った事を口にした。
―「恥ずかしいかな」
酷い言葉だった。心の中は幸せで一杯で、今にも泣きそうだったくせに。僕は意地っ張りのようにそう言って、マフラーを机の上に置いた。
その冬に、マフラーを使うことは無かった。
今、このマフラーを使っているのは確かに理由がある。特に大きいのが、やはり彼女のお陰だろう。今では、前よりも素直に、少しだけ上手く言葉を選べるようになった気がしている。
そうやって自信を持てるのも、彼女が居たからこそだ。
「早く帰りたいですね」
空は、もう真っ暗だ。月明かりと街灯の明かりだけが街中を不気味に照らし、風が吹きぬけていく。
きっと、彼女は待っている。僕の帰りを待っていて、家に帰れば温かい笑みで待っている。
そんな毎日が、僕は大好きだと、彼女に言えただろうか?
家が、遠くに見えた。
―――その時起きたそれは、偶然のことだった。
「雪、ですか……」
突然の出来事のように、雪が降ってきた。変だと思う。今は冬が明けた春の直前。しかも、今日の気象は良好と来た。
「変ですね……………天気も、僕も」
どうしてだろうか。なぜだか心細い。家に入れば、彼女が待っている。そうだ、早く帰って夕飯を食べよう。
今日の夕食は何だろうか。鍋だと嬉しい。彼女の十八番で、僕の好物だから。
そう、この変な気持ちもすぐに消える。
――カチャ。
家のドアを開けば、そこには―――
「……ああ………」
――暗く、そして涼しい空間が広がっていた。
僕は、その中を電気もつけずに進んで行く。何も考え無いように。ただただ真っ直ぐ。
「そうでしたね………」
きっと、手紙の所為だろう。成人式という過去と向かい合う場に行って、浮かれてしまったんだと思う。
一握りの幸せを、感じてしまったからだと思う――
「……ただいまです」
『お帰りなさい』
――こんな気持ちになるのは。
「……寒い、ですね」
『そうだねー、私も何か上着ようかな?』
「君は寒がりですからね……何か、着た方が良いですよ」
そう告げた声は、寒さに凍えるように震えていた。
迸るように、煮え滾るように。何かが込み上げてくる。
「ッ~……! まったく……なんで君は、そんなに笑顔なんでしょうねッ~……?」
『……何でだろうね? 私もわかんないよ。でも、それで良いんじゃないかな?』
喉が苦しい。息詰まるように、逃げるように喉の奥が突っかかる。
「……~君は……!」
そのまま飛び出そうになった言葉を、何とか飲み込もうとするけれど、上手くできなかった。
「…………そうでしたね。君がッ……君が、笑顔じゃないのは……ありえないです」
嗚呼《ああ》、ほら――涙が零れてくる。この名も無き感情に想いを込めて。
「……どうして、君は僕よりも先に行ってしまったんですか?」
『……』
しん、と静まり返った空間が、僕の耳を打った。
膨れ上がるそれを、抑えようと必死だった……。
「僕は、まだ…‥……まだ、何1つとして返してないですよねっ……? 何でですかっ? 何でッ……!」
けど、我慢することなんで出来ないから。全力で。精一杯の気持ちを乗せて。
「君のお陰で、苦手な会話が克服できた……! 君のお陰で、話すのが楽しくなった……君のお陰で、僕は誰かに胸を張れるようになった……君のお陰で、僕は冬でも寒くなくなった……君のお陰で、僕は毎日温かい食事を食べられた……!」
『……』
上手く、言葉にできない……。
あんなにも彼女は教えてくれたのに――。
蘇った記憶に映る日常が、そのどれもが僕一人じゃ味わえない程に幸せで、彼女が居たからこそ得られた幸せで。
その気持ちを、たった一言にして告げるのに、どこまでも僕は逃げてばっかりだった。
彼女の前だけでは、笑っていたかったのに。笑って、あげたかった……!
「全部……全部ッ! 全部、君が僕にくれたものじゃないですか……何一つとして、僕はそれを返せていない……。……これから、十年でも、何十年でも、死ぬまで一緒に居て、僕は君に全部返したかったっ……。……君に、言いたかったッ……!」
僕が今、君に贈れる精一杯の想いを。
僕が今、君だけに伝えたいこの名も無き感情を。
そして、僕だけの償いを。
「僕は、君が居てくれて幸せでした。どんな日も、毎日、毎日が輝いていた。君が居ないこの世界で、僕はどうやって生きていけば良いんですか? どうやって……笑えば良いんですか……」
『…………ごめんね……それと、ありがとう……』
小さな埃一つない写真に、幾つかの雨が降り注いだ。
「聞こえないですよ……聞こえないんですよ…………君の、優しい笑顔の声が……。……僕の耳は、あの時から、何の音も聞こえないんです…………」
どうしようも無いのだろう。運命とは、人生とは、たった僕1人のために幸せへと進んで行くわけの無いこと。
でも、今だけは。今日だけは。これだけは。
届いてほしい、彼女の元へ。
「……大好きですよ。僕は一生君を愛しています」
写真の上の雫が、笑顔の目元から垂れ流れた。一筋の線を描いて、地に落ちる。
『……私も……! ……私も……大好きで、愛してるよっ……~ッ』
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