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ひび割れそうになる日常 6
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結城事務局長だとビビるけど、クロネコなら慣れたもんだ。
率先して登っていく。クロネコが中途半端なところで止まり、やはり、問題の箇所に顔を向けている。
後から上がってきた桐生さんと二人、クロネコから示された角度からそのひび割れてを見て息を飲んだ。
塗料の下に、大きな亀裂が入っている。
「桐生さん……これって……すげえまずいと思うの俺だけか」
「いえ。わたしも非常に危険だと思います。そして、当院であの高校のような倒壊が起きた場合……確実に死者が出ます。このすぐ上は重症患者が中心です。そのさらに上はNICUなどがある周産期センター」
「うちの病床数は県内一だぞ。それが今、ほぼ満室……」
健康な高校生たちですらパニックを起こして怪我人が続出した。
何百人の命が奪われることになるのか、想像することすらできない。
「どうすんだよ」
「今はどうしようもありません。わたし達にできるのは、ただ、報告するだけです」
「それしかできねえのか。なあ、桐生さんっ!」
「わたし達は、ただの事務員です。しかも下っ端の。何ができるというのですかっ!」
桐生さんが怒鳴るのを、初めて聞いた。
「わたしに問われても、分かりませんし、何もできません」
雰囲気イケメンに睨まれると、こんなに怖いんだと初めて知った。
桐生さんは普段から無表情だ。
そこにどす黒い怒りが乗っている。
もともと鋭い一重の瞳でにらまれると、わたしは何も言えなくなってしまった。
桐生さんが怒るのも当然だ。
私は何も考えずに桐生さんに頼ってしまった。
桐生さんは優秀だ。
でも、天才なわけじゃない。
なんでも知ってるわけじゃないし、できるわけじゃない。
「友利さん。わたしは友利さんに怒っているわけではありません。わたしが怒っているのはーー結城事務局長、貴方にです!」
桐生さんの声が地を這うように響いた。
踊り場に結城事務局長が立っている。
「カエルの折り紙なら、わたし達にもどうにかできる。折り紙を集めて、犬飼さんの遺族に届けるなり、墓前に備えるなりします。ですが、これは不可能です。建物をどうにかしろと? 患者を移動しろということですか? 1000名の患者をそう簡単に移動できるわけがない。医者が足りないことくらい、貴方が一番よく知っているでしょう! こんな……わたし達には荷が重すぎる……!」
一気にまくし立てた桐生さんは強く手を握りしめた。ギリっと奥歯を噛み締めている音が聞こえる。
ひやりと冷たいものが足元をかすめた気がした。
クロネコが階段を駆け下りていく。
クロネコは甘えるように結城事務局長の足元に額を擦り付けている。
「クロネコ……結城事務局長……」
結城事務局長はクロネコを抱き上げ、やさしく頭を撫でていた。
私は桐生さんの横顔をみた。かなり怒っているのだろう。
自分の無力さが許せないに違いない。
今はどうにか保たれていたとしても、高校の事故を思えば、病棟もいつどうなってもおかしくない。
迅速に対応しなければならないのに、今はもう、当直時間で対応できる人間がいない。
結城事務局長は優秀な人物だったと聞く。
なら、この行動にも何か理由があるのかもしれない。
私の前にはクロネコが現れ、桐生さんの前には結城事務局長本人が現れた。
今、結城事務局長はクロネコを抱き上げてそれを撫でている。
私は桐生さんをみて、それから結城事務局長をみた。
「桐生さん」
庶務課にいると、クレームの電話対応をすることが多くなる。
大抵、相手は頭に血が上っていて人の話を聞かない。
そして、そういう時は大抵、視野が狭くなっていて一つの考えにとらわれがちだ。
他にも選択肢があるのに、別の選択肢の方がいいのに、それに目を向けられなくなってしまっている。
怒っていたら、ダメだ。
私は、桐生さんの肩に手を置いた。
「手順を踏むなら、まず当直の事務と相談して施設課の課長に連絡することになるんだと思う。でも何れにしても動くのは明日になる」
「明日では間に合わないかもしれません」
「うん、だからさ。絹井先生のところに行こう。今日は当直じゃないけど、ついさっきまで俺の処置してくれてたから、まだ残ってるとおもうんだよ。片付けとかあるし。んで昔のことを聞いてみよう」
「絹井先生は救命センターの長です。この件に関しては全く……」
「うん、知ってる。でもさ、この病院の中で、唯一30年前のことを知っている人だよな」
「……」
「絹井先生は今年定年退職で、30年前のときは、まだ研修医だったんだろ? 今、当時のいろんなことを知ってる人で残ってるのは絹井先生しかいないんだよ」
桐生さんがハッとした顔で私をみた。
「絹井先生は俺の傷が開いたから残ってくれてたわけなんだけどさ。ま、色んなこと、何がどう転がるかわかんないもんだな」
ちらりとみた結城事務局長は、ニッコリと笑っている。
あのオヤジ、いい性格してやがんな。
「俺らから事務局長に連絡しても、緊急性が全然伝わらないと思うけど。これが絹井先生からなら違うと思う。この建物がダメになれば、絹井先生の患者なんかは間違いなく即死だろ。重症患者が逃げられるわけがないんだから」
「……確かにそうですが。しかし、それはあまりにも手順が違うのではありませんか。本来の手順からはーー」
「俺らの最終目標は、痛みや苦しみから人々を救うことだろ。それってさ、ちょっとばかり先回りしたって、たまにはいいんじゃね?」
率先して登っていく。クロネコが中途半端なところで止まり、やはり、問題の箇所に顔を向けている。
後から上がってきた桐生さんと二人、クロネコから示された角度からそのひび割れてを見て息を飲んだ。
塗料の下に、大きな亀裂が入っている。
「桐生さん……これって……すげえまずいと思うの俺だけか」
「いえ。わたしも非常に危険だと思います。そして、当院であの高校のような倒壊が起きた場合……確実に死者が出ます。このすぐ上は重症患者が中心です。そのさらに上はNICUなどがある周産期センター」
「うちの病床数は県内一だぞ。それが今、ほぼ満室……」
健康な高校生たちですらパニックを起こして怪我人が続出した。
何百人の命が奪われることになるのか、想像することすらできない。
「どうすんだよ」
「今はどうしようもありません。わたし達にできるのは、ただ、報告するだけです」
「それしかできねえのか。なあ、桐生さんっ!」
「わたし達は、ただの事務員です。しかも下っ端の。何ができるというのですかっ!」
桐生さんが怒鳴るのを、初めて聞いた。
「わたしに問われても、分かりませんし、何もできません」
雰囲気イケメンに睨まれると、こんなに怖いんだと初めて知った。
桐生さんは普段から無表情だ。
そこにどす黒い怒りが乗っている。
もともと鋭い一重の瞳でにらまれると、わたしは何も言えなくなってしまった。
桐生さんが怒るのも当然だ。
私は何も考えずに桐生さんに頼ってしまった。
桐生さんは優秀だ。
でも、天才なわけじゃない。
なんでも知ってるわけじゃないし、できるわけじゃない。
「友利さん。わたしは友利さんに怒っているわけではありません。わたしが怒っているのはーー結城事務局長、貴方にです!」
桐生さんの声が地を這うように響いた。
踊り場に結城事務局長が立っている。
「カエルの折り紙なら、わたし達にもどうにかできる。折り紙を集めて、犬飼さんの遺族に届けるなり、墓前に備えるなりします。ですが、これは不可能です。建物をどうにかしろと? 患者を移動しろということですか? 1000名の患者をそう簡単に移動できるわけがない。医者が足りないことくらい、貴方が一番よく知っているでしょう! こんな……わたし達には荷が重すぎる……!」
一気にまくし立てた桐生さんは強く手を握りしめた。ギリっと奥歯を噛み締めている音が聞こえる。
ひやりと冷たいものが足元をかすめた気がした。
クロネコが階段を駆け下りていく。
クロネコは甘えるように結城事務局長の足元に額を擦り付けている。
「クロネコ……結城事務局長……」
結城事務局長はクロネコを抱き上げ、やさしく頭を撫でていた。
私は桐生さんの横顔をみた。かなり怒っているのだろう。
自分の無力さが許せないに違いない。
今はどうにか保たれていたとしても、高校の事故を思えば、病棟もいつどうなってもおかしくない。
迅速に対応しなければならないのに、今はもう、当直時間で対応できる人間がいない。
結城事務局長は優秀な人物だったと聞く。
なら、この行動にも何か理由があるのかもしれない。
私の前にはクロネコが現れ、桐生さんの前には結城事務局長本人が現れた。
今、結城事務局長はクロネコを抱き上げてそれを撫でている。
私は桐生さんをみて、それから結城事務局長をみた。
「桐生さん」
庶務課にいると、クレームの電話対応をすることが多くなる。
大抵、相手は頭に血が上っていて人の話を聞かない。
そして、そういう時は大抵、視野が狭くなっていて一つの考えにとらわれがちだ。
他にも選択肢があるのに、別の選択肢の方がいいのに、それに目を向けられなくなってしまっている。
怒っていたら、ダメだ。
私は、桐生さんの肩に手を置いた。
「手順を踏むなら、まず当直の事務と相談して施設課の課長に連絡することになるんだと思う。でも何れにしても動くのは明日になる」
「明日では間に合わないかもしれません」
「うん、だからさ。絹井先生のところに行こう。今日は当直じゃないけど、ついさっきまで俺の処置してくれてたから、まだ残ってるとおもうんだよ。片付けとかあるし。んで昔のことを聞いてみよう」
「絹井先生は救命センターの長です。この件に関しては全く……」
「うん、知ってる。でもさ、この病院の中で、唯一30年前のことを知っている人だよな」
「……」
「絹井先生は今年定年退職で、30年前のときは、まだ研修医だったんだろ? 今、当時のいろんなことを知ってる人で残ってるのは絹井先生しかいないんだよ」
桐生さんがハッとした顔で私をみた。
「絹井先生は俺の傷が開いたから残ってくれてたわけなんだけどさ。ま、色んなこと、何がどう転がるかわかんないもんだな」
ちらりとみた結城事務局長は、ニッコリと笑っている。
あのオヤジ、いい性格してやがんな。
「俺らから事務局長に連絡しても、緊急性が全然伝わらないと思うけど。これが絹井先生からなら違うと思う。この建物がダメになれば、絹井先生の患者なんかは間違いなく即死だろ。重症患者が逃げられるわけがないんだから」
「……確かにそうですが。しかし、それはあまりにも手順が違うのではありませんか。本来の手順からはーー」
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