上 下
63 / 72

ひび割れそうになる日常 6

しおりを挟む
 結城事務局長だとビビるけど、クロネコなら慣れたもんだ。
 率先して登っていく。クロネコが中途半端なところで止まり、やはり、問題の箇所に顔を向けている。
 後から上がってきた桐生さんと二人、クロネコから示された角度からそのひび割れてを見て息を飲んだ。
 塗料の下に、大きな亀裂が入っている。

「桐生さん……これって……すげえまずいと思うの俺だけか」
「いえ。わたしも非常に危険だと思います。そして、当院であの高校のような倒壊が起きた場合……確実に死者が出ます。このすぐ上は重症患者が中心です。そのさらに上はNICUなどがある周産期センター」
「うちの病床数は県内一だぞ。それが今、ほぼ満室……」

 健康な高校生たちですらパニックを起こして怪我人が続出した。
 何百人の命が奪われることになるのか、想像することすらできない。

「どうすんだよ」
「今はどうしようもありません。わたし達にできるのは、ただ、報告するだけです」
「それしかできねえのか。なあ、桐生さんっ!」
「わたし達は、ただの事務員です。しかも下っ端の。何ができるというのですかっ!」

 桐生さんが怒鳴るのを、初めて聞いた。

「わたしに問われても、分かりませんし、何もできません」

 雰囲気イケメンに睨まれると、こんなに怖いんだと初めて知った。
 桐生さんは普段から無表情だ。
 そこにどす黒い怒りが乗っている。
 もともと鋭い一重の瞳でにらまれると、わたしは何も言えなくなってしまった。
 桐生さんが怒るのも当然だ。
 私は何も考えずに桐生さんに頼ってしまった。
 桐生さんは優秀だ。
 でも、天才なわけじゃない。
 なんでも知ってるわけじゃないし、できるわけじゃない。

「友利さん。わたしは友利さんに怒っているわけではありません。わたしが怒っているのはーー結城事務局長、貴方にです!」

 桐生さんの声が地を這うように響いた。
 踊り場に結城事務局長が立っている。

「カエルの折り紙なら、わたし達にもどうにかできる。折り紙を集めて、犬飼さんの遺族に届けるなり、墓前に備えるなりします。ですが、これは不可能です。建物をどうにかしろと? 患者を移動しろということですか? 1000名の患者をそう簡単に移動できるわけがない。医者が足りないことくらい、貴方が一番よく知っているでしょう! こんな……わたし達には荷が重すぎる……!」

 一気にまくし立てた桐生さんは強く手を握りしめた。ギリっと奥歯を噛み締めている音が聞こえる。
 ひやりと冷たいものが足元をかすめた気がした。
 クロネコが階段を駆け下りていく。
 クロネコは甘えるように結城事務局長の足元に額を擦り付けている。

「クロネコ……結城事務局長……」

 結城事務局長はクロネコを抱き上げ、やさしく頭を撫でていた。
 私は桐生さんの横顔をみた。かなり怒っているのだろう。
 自分の無力さが許せないに違いない。
 今はどうにか保たれていたとしても、高校の事故を思えば、病棟もいつどうなってもおかしくない。
 迅速に対応しなければならないのに、今はもう、当直時間で対応できる人間がいない。
 結城事務局長は優秀な人物だったと聞く。
 なら、この行動にも何か理由があるのかもしれない。
 私の前にはクロネコが現れ、桐生さんの前には結城事務局長本人が現れた。
 今、結城事務局長はクロネコを抱き上げてそれを撫でている。
 私は桐生さんをみて、それから結城事務局長をみた。

「桐生さん」

 庶務課にいると、クレームの電話対応をすることが多くなる。
 大抵、相手は頭に血が上っていて人の話を聞かない。
 そして、そういう時は大抵、視野が狭くなっていて一つの考えにとらわれがちだ。
 他にも選択肢があるのに、別の選択肢の方がいいのに、それに目を向けられなくなってしまっている。
 怒っていたら、ダメだ。
 私は、桐生さんの肩に手を置いた。

「手順を踏むなら、まず当直の事務と相談して施設課の課長に連絡することになるんだと思う。でも何れにしても動くのは明日になる」
「明日では間に合わないかもしれません」
「うん、だからさ。絹井先生のところに行こう。今日は当直じゃないけど、ついさっきまで俺の処置してくれてたから、まだ残ってるとおもうんだよ。片付けとかあるし。んで昔のことを聞いてみよう」
「絹井先生は救命センターの長です。この件に関しては全く……」
「うん、知ってる。でもさ、この病院の中で、唯一30年前のことを知っている人だよな」
「……」
「絹井先生は今年定年退職で、30年前のときは、まだ研修医だったんだろ? 今、当時のいろんなことを知ってる人で残ってるのは絹井先生しかいないんだよ」

 桐生さんがハッとした顔で私をみた。

「絹井先生は俺の傷が開いたから残ってくれてたわけなんだけどさ。ま、色んなこと、何がどう転がるかわかんないもんだな」

 ちらりとみた結城事務局長は、ニッコリと笑っている。
 あのオヤジ、いい性格してやがんな。

「俺らから事務局長に連絡しても、緊急性が全然伝わらないと思うけど。これが絹井先生からなら違うと思う。この建物がダメになれば、絹井先生の患者なんかは間違いなく即死だろ。重症患者が逃げられるわけがないんだから」
「……確かにそうですが。しかし、それはあまりにも手順が違うのではありませんか。本来の手順からはーー」
「俺らの最終目標は、痛みや苦しみから人々を救うことだろ。それってさ、ちょっとばかり先回りしたって、たまにはいいんじゃね?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

【R18】こんな産婦人科のお医者さんがいたら♡妄想エロシチュエーション短編作品♡

雪村 里帆
恋愛
ある日、産婦人科に訪れるとそこには顔を見たら赤面してしまう程のイケメン先生がいて…!?何故か看護師もいないし2人きり…エコー検査なのに触診されてしまい…?雪村里帆の妄想エロシチュエーション短編。完全フィクションでお送り致します!

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

目が覚めたら夫と子供がいました

青井陸
恋愛
とある公爵家の若い公爵夫人、シャルロットが毒の入ったのお茶を飲んで倒れた。 1週間寝たきりのシャルロットが目を覚ましたとき、幼い可愛い男の子がいた。 「…お母様?よかった…誰か!お母様が!!!!」 「…あなた誰?」 16歳で政略結婚によって公爵家に嫁いだ、元伯爵令嬢のシャルロット。 シャルロットは一目惚れであったが、夫のハロルドは結婚前からシャルロットには冷たい。 そんな関係の二人が、シャルロットが毒によって記憶をなくしたことにより少しずつ変わっていく。 なろう様でも同時掲載しています。

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

処理中です...