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救急外来の日常7
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救急外来受付から救命センター入り口までは患者の家族でごった返していた。強力な感染症が大流行した時の深夜帯でもこんなに人がいることはないのではないだろうか。
幅3メートルの通路が塞がれている。
救命センターでの診察待ちなのか、或いは他科に移動するためなのか、ストレッチャーに横たわった患者と付き添いの看護師が場所を取っているが、それに文句をつける人は誰もいない。一様に不安そうだ。
救急車が出て行くと同時に、新しい救急車が到着した。
「すみません、母体搬送です。救命の入り口がいっぱいで入れなくて」
救急隊が走りこんできた。
そうだ、確かに事故は起きた。
しかしそれ以外の患者もやってくる。
外科系等は受け入れができない状況になっているかもしれないが、それ以外の診療科は可能だ。とくに埼玉県は周産期医療設備が整っている病院が少ないのだから、当院が扉を閉じたら助からない母子は少なくない。
「え、え、ぼたいはんそうって何ですか。私何も聞いてなくて」
受付の事務パートが助けを求めてオロオロと辺りを見ている。おそらく、普段は違う部署にいるのだろうが、この騒ぎで助っ人に駆り出されたのだ。
分かるはずがない。
病院の仕事は全てが専門分野だ。しかもその専門分野がさらに細分化され、深く理解する必要がある。
助っ人に行けと言われたくらいだから彼女もキャリアが浅いわけではないのだろうが、携わっているものが異なれば分かるはずがない。
普段なら受付は救急隊が来ることを聞いていて、備えているはずなのだが、この混乱のせいでそれができていなかったのだ。
私は人々の間をすり抜けて、救急隊に声をかけた。
「お疲れ様です、何救急さんですか」
私が首から下げている職員証を見た救急隊がホッとした顔でこちらを見た。
「東救急です。マザーズホスピタルからの転院搬送です」
「分かりました。では産婦人科に……」
「あ、いえ。先生から直接自分にかけて欲しいと言われてまして」
「担当の医師はわかりますか」
「すみません、佐藤先生と聞いてるんですが……」
まずいな。
私はドクターの名簿作りを毎月やっているお陰でほとんどのドクターの名前を覚えているのだが、佐藤先生と言われたら非常にまずい。
産婦人科に佐藤先生は2名。ついでにNICUにも2名いる。
それでも本当に佐藤先生ならマシだが、よくあるトラブルで、佐藤と加藤の聞き間違いだ。産婦人科には加藤先生もいるのだ。
どのドクターも暇な人など一人もいない。
「受付さん、電話交換にかけて」
「え、電話交換ですか?」
受付さんが戸惑うのも分かる。これは桐生さんからの受け売りだが、電話交換は情報の中継地点だ。どことどこがどういう要件でやりとりをしていたのか、全て記録されている。
「母体搬送でマザーズホスピタルとやりとりしてたドクターがいるはずだから、そっちに回してもらって。先生に繋がったら救急隊の人と直接話してもらおうーーそちらもそれでいいですか?」
「助かります」
良かった。
役にたったことに安堵するが、ここに突っ立っているわけにはいかない。
不安に駆られた家族にどんどん問いかけられることは目に見えている。
確かにそのために来たのだが、闇雲に動いてしまったら返って他の部署の足を引っ張ってしまう。
「受付さん、すみません」
指示通りに動いて受話器を救急隊の人に渡した受付さんが振り向いた。
「師長さんとかいつもの受付の人なんかは奥にいるんですか?」
「はい」
「ありがとう」
ひとまず、どう動くか、指示を出してもらわないことには勝手ができない。
現場の状況が分からない以上、一番わかっている人の指示に従うのが合理的だ。
出入り口に置いてあるスプレーをプッシュして、手先を消毒する。
職員用の出入り口から最初に通るのは救急車用出入り口と繋がる最初の部屋だ。自動ドアがあるほうが処置室に向かう方、手動がスタッフの詰め所に向かう方だ。
通常であれば患者が一番最初に通るこのスペースは閑散としているはずなのだが、14畳ほどの広さの部屋にはストレッチャーに寝かされているだけでなく、パイプ椅子に座っている患者もいる。そこに付き添いの家族や学校関係者、さらに看護師と研修医の出入りがある。
先ほどの救急隊が戸惑うわけだ。本来なら、ここで担当ドクターと落ち合うのだろう。ひょっとしたら、担当ドクターはいつも通りここで待とうとしたものの、状況を見てあきらめて病棟に戻ってしまったのかもしれない。ここに待機していたら、患者やその家族から何故目の前の怪我人を救わないのかと恨まれてしまう。
「まいったなあ……」
思わずこぼしてしまった。
救命センターは私が思っていた以上の混乱ぶりだ。
そりゃそうだ。
20名は無理がある。
そう思っていると、あわただしく動いている看護師の中に、見慣れた顔を見つけた。
「師長」
いつもは優しそうな笑顔の看護師長も、今日ばかりは表情が硬い。
「友利くん。手伝いにきてくれたの」
「俺、なにしたらいいですか」
「いま、看護部長から連絡が来たところ。大講堂で説明会するから患者の家族をそっちに誘導して。移動中に色々聞かれるかもしれないけど、講堂で話すからなにも言わないどいて」
なにも言わないでもなにも、私は全く知らないんですが。
いや、むしろ、情報をなにも持たない方がいいのかもしれない。
何か聞かれても答えられないんだからな。
「わかりました」
私は頷くとすぐに救命センターを出た。
ここにはいい思い出がない。
ふと、犬飼さんのことを思い出した。
ICUではなく、家で死にたいと言った犬飼さんの気持ち……分かる気がした。
幅3メートルの通路が塞がれている。
救命センターでの診察待ちなのか、或いは他科に移動するためなのか、ストレッチャーに横たわった患者と付き添いの看護師が場所を取っているが、それに文句をつける人は誰もいない。一様に不安そうだ。
救急車が出て行くと同時に、新しい救急車が到着した。
「すみません、母体搬送です。救命の入り口がいっぱいで入れなくて」
救急隊が走りこんできた。
そうだ、確かに事故は起きた。
しかしそれ以外の患者もやってくる。
外科系等は受け入れができない状況になっているかもしれないが、それ以外の診療科は可能だ。とくに埼玉県は周産期医療設備が整っている病院が少ないのだから、当院が扉を閉じたら助からない母子は少なくない。
「え、え、ぼたいはんそうって何ですか。私何も聞いてなくて」
受付の事務パートが助けを求めてオロオロと辺りを見ている。おそらく、普段は違う部署にいるのだろうが、この騒ぎで助っ人に駆り出されたのだ。
分かるはずがない。
病院の仕事は全てが専門分野だ。しかもその専門分野がさらに細分化され、深く理解する必要がある。
助っ人に行けと言われたくらいだから彼女もキャリアが浅いわけではないのだろうが、携わっているものが異なれば分かるはずがない。
普段なら受付は救急隊が来ることを聞いていて、備えているはずなのだが、この混乱のせいでそれができていなかったのだ。
私は人々の間をすり抜けて、救急隊に声をかけた。
「お疲れ様です、何救急さんですか」
私が首から下げている職員証を見た救急隊がホッとした顔でこちらを見た。
「東救急です。マザーズホスピタルからの転院搬送です」
「分かりました。では産婦人科に……」
「あ、いえ。先生から直接自分にかけて欲しいと言われてまして」
「担当の医師はわかりますか」
「すみません、佐藤先生と聞いてるんですが……」
まずいな。
私はドクターの名簿作りを毎月やっているお陰でほとんどのドクターの名前を覚えているのだが、佐藤先生と言われたら非常にまずい。
産婦人科に佐藤先生は2名。ついでにNICUにも2名いる。
それでも本当に佐藤先生ならマシだが、よくあるトラブルで、佐藤と加藤の聞き間違いだ。産婦人科には加藤先生もいるのだ。
どのドクターも暇な人など一人もいない。
「受付さん、電話交換にかけて」
「え、電話交換ですか?」
受付さんが戸惑うのも分かる。これは桐生さんからの受け売りだが、電話交換は情報の中継地点だ。どことどこがどういう要件でやりとりをしていたのか、全て記録されている。
「母体搬送でマザーズホスピタルとやりとりしてたドクターがいるはずだから、そっちに回してもらって。先生に繋がったら救急隊の人と直接話してもらおうーーそちらもそれでいいですか?」
「助かります」
良かった。
役にたったことに安堵するが、ここに突っ立っているわけにはいかない。
不安に駆られた家族にどんどん問いかけられることは目に見えている。
確かにそのために来たのだが、闇雲に動いてしまったら返って他の部署の足を引っ張ってしまう。
「受付さん、すみません」
指示通りに動いて受話器を救急隊の人に渡した受付さんが振り向いた。
「師長さんとかいつもの受付の人なんかは奥にいるんですか?」
「はい」
「ありがとう」
ひとまず、どう動くか、指示を出してもらわないことには勝手ができない。
現場の状況が分からない以上、一番わかっている人の指示に従うのが合理的だ。
出入り口に置いてあるスプレーをプッシュして、手先を消毒する。
職員用の出入り口から最初に通るのは救急車用出入り口と繋がる最初の部屋だ。自動ドアがあるほうが処置室に向かう方、手動がスタッフの詰め所に向かう方だ。
通常であれば患者が一番最初に通るこのスペースは閑散としているはずなのだが、14畳ほどの広さの部屋にはストレッチャーに寝かされているだけでなく、パイプ椅子に座っている患者もいる。そこに付き添いの家族や学校関係者、さらに看護師と研修医の出入りがある。
先ほどの救急隊が戸惑うわけだ。本来なら、ここで担当ドクターと落ち合うのだろう。ひょっとしたら、担当ドクターはいつも通りここで待とうとしたものの、状況を見てあきらめて病棟に戻ってしまったのかもしれない。ここに待機していたら、患者やその家族から何故目の前の怪我人を救わないのかと恨まれてしまう。
「まいったなあ……」
思わずこぼしてしまった。
救命センターは私が思っていた以上の混乱ぶりだ。
そりゃそうだ。
20名は無理がある。
そう思っていると、あわただしく動いている看護師の中に、見慣れた顔を見つけた。
「師長」
いつもは優しそうな笑顔の看護師長も、今日ばかりは表情が硬い。
「友利くん。手伝いにきてくれたの」
「俺、なにしたらいいですか」
「いま、看護部長から連絡が来たところ。大講堂で説明会するから患者の家族をそっちに誘導して。移動中に色々聞かれるかもしれないけど、講堂で話すからなにも言わないどいて」
なにも言わないでもなにも、私は全く知らないんですが。
いや、むしろ、情報をなにも持たない方がいいのかもしれない。
何か聞かれても答えられないんだからな。
「わかりました」
私は頷くとすぐに救命センターを出た。
ここにはいい思い出がない。
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